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レビュー

夜の闇の中、秘めていた記憶があふれだす――小池真理子『東京アクアリウム』文庫巻末解説

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

小池真理子『東京アクアリウム



小池真理子『東京アクアリウム』文庫巻末解説

解説
あさみや うん(書評家)  

 長編小説は人生そのものを描き、短編小説は人生の断面を描くものだとしばしば言われる。二〇一〇年に中央公論新社より単行本が刊行された『東京アクアリウム』は、まさに人生の断面をあざやかに切り取ってみせる珠玉の作品集だ。
 著者・いけは腕のいい外科医か名料理人さながらきらめく刃物を操って、八つの人生模様を私たち読者にのぞかせてくれる。それぞれに印象的な収録作はすべて三十ページに満たない小品であり、「もっと続きを読ませてほしい」と願っても、先には空白が広がるのみだ。その淡雪のようなはかなさが実に心地いい。ここには短編小説を読むことの楽しさが、十二分に詰まっている。
 八つの物語の主人公はいずれも三十代から四十代という年齢だ。もう若くはないが初老と呼ばれるにはまだ間があり、一般には中年と呼ばれる人生の折り返し地点を生きている。彼女たち(「ダナエ」の主人公を除いて主人公はすべて女性である)が抱えているのは数十年分の思い出とさまざまな経験、そしてこの先の人生への不安や希望だ。うっすらともやのかかった人生の午後を、彼女たちは前を見たり、後ろを振り返ったりしながら、そろそろと歩んでいく。本書が描くのはそんな主人公たちが遭遇した、ささやかながら忘れがたい出来事だ。

 以下収録順にコメントを付すが、感興をそぐおそれがあるのでできれば本編読了後にお読みいただきたい。気が向かなければ読み飛ばしていただいて構わない。主人公たちと同世代かそれ以上の年代の読者なら、作中で描かれている哀しみや痛み、喜びや切なさは、解説を加えるまでもなく身近なものであろうから。

 巻頭作「リリー・マルレーン」(「中央公論」二〇〇七年二月号)の主人公は、かつて常連だったリリーの店に十数年ぶりに足を向ける。二度の離婚を経験後、妻子ある男性との恋にも破れた彼女を、六十二歳になる〝おかま〟のリリーは以前と変わらぬ様子で迎えてくれた。喪失感によって結びつく二人の交流を、隠れ家のようなバーを舞台に描いた物語。何かを失った後で人はどう生きていくのかというテーマは、本書の多くの収録作に共通している。ちなみにタイトルの由来になったドイツ人女優マレーネ・ディートリヒは、長編『望みは何と訊かれたら』(二〇〇七)にもインスピレーションを与えた。
 住宅販売会社でキャリアを積んできたえつと、大学卒業後すぐに結婚したあき。〝ネガとポジ〟のような関係ながら、長年親しい間柄を保ってきた二人だったが、千晶には悦子にも知らせていなかったある秘密があった。「風」(「中央公論」二〇〇七年五月号)は病に倒れた千晶の葬儀で起こった痛快な事件を、文字通り吹き抜ける風のように描く。社会通念を踏み越えて愛し合う恋人たちの姿が、読者の胸をかき乱さずにはおかない。
「二匹の子鬼」(「中央公論」二〇〇七年八月号)の主人公ふみは幸福な家庭生活を送っているとはいえない。不幸な事故によって障害を負った夫、しよういちの不機嫌な態度や暴言に、日々苦しめられているからだ。抜きがたい孤独を抱え、憎しみによってつながる二匹の〝鬼〟の暮らしを、若い会社の後輩との関係を交えながら描いた本作は、やや異色の夫婦愛小説である。崇高さすら感じさせるラストシーンには、やはり読者の価値観を揺さぶるような、小池真理子ならではの毒がたっぷりと注がれている。
 表題作「東京アクアリウム」(「中央公論」二〇〇七年十一月号)は「リリー・マルレーン」とテーマや設定において通底している。三十代から親しくしている〝私〟と。べたべたした付き合いが苦手な二人は、四十代半ばになった今でも適度な距離感を保っている。水族館のようなガラス張りのカフェで語らっていたある夜、佐和がとつぜん十年ほど前に自殺した恋人・の幽霊をパーティー会場で見かけたと口にした。実は同じく恋人に先立たれた〝私〟にも、似たような経験があった──。都会のけんそうから隔絶されたような店で、悲しみを抱えた二人と懐かしい死の世界が交錯する。小池真理子にとっての怪異たんとは一種のグリーフケア(悲しみからの立ち直り)の物語なのではないか、と本作を読んで思った。
 唯一男性を語り手にした「ダナエ」(初出タイトル「小曲ソナチネ」を改題/「中央公論」二〇〇八年二月号)は、物語の切り口がひときわ鮮やかだ。会社の接待で料亭を訪れた主人公は、わけあって自宅に帰ることができないという従業員の女性、はなをマンションへ連れ帰る。三日間の奇妙な同居生活は二人に何をもたらしたのか。物語の当事者になれる者となれない者を描いたこの作品は、「二匹の子鬼」と表裏一体の関係にあるともいえそうである。
 この作品集の裏の主役は、昼間に比べてほんの少しだけ優しい顔を覗かせる〝夜の東京〟だ。失意のどん底からの回復を描いた「モッキンバードの夜」(「中央公論」二〇〇八年五月号)では春の訪れを告げる鳥が、夜の東京に奇跡のように立ち現れる。「すべてがあまりに馬鹿馬鹿しく、悲しかったが、今、その悲しみにおぼれていてはいけないような気がした」。夜の都会のさざめきが、三十八歳の語り手の孤独をほんの少しだけ癒やしてくれる。
「猫別れ」(「中央公論」二〇〇八年八月号)は介護や子育てといった、中年世代にとっていよいよ現実味を帯びてくる問題を扱っている。マンションで一人暮らしをしていた母親の認知症が進行し、施設に入所させることを決めたシングルマザーの。門出を祝うパーティーを開くが、母の言動はちぐはぐで、娘のまみの態度は反抗的だ。なんとか無事に母親を送り出したいと願う美千代だったが、女性三世代の呼吸はそろわない。飼い猫のチャーが過去と未来をつなぐ、短編小説のお手本のような作品。ラストシーンのまみの姿が胸を衝く。
 四十二歳の平凡な主婦、おりは二か月に一度家を空ける。表向きの理由は短大時代の友人と会うため。しかし本当は長野に住むひとまわり上の恋人、みつはしさんに会うのが目的だ。三橋さんの手や声は、母以外の女性を愛したことで、家庭を壊してしまった懐かしい父とよく似ていた。祝福されない恋の末路を知りながら、三橋さんとの関係を続ける香織の心理を描いた「父の手、父の声」(「中央公論」二〇〇八年十一月号)は、官能性とノスタルジーが溶け合った力作。個人的には八編中、一二を争うほど好きな作品である。「私の表面に表れる部分は、決して噓ではない。噓ではないのだが、その奥に隠されているものがたくさんある」という香織の述懐は重要だ。小池真理子の世界においては秘密を抱えていることが生きている証であり、そこに人生の妙味が、物語の源泉が隠れているのだ。

 以上八編。知的な文体と構成が織りなす、カットグラスのような世界は、デビュー以来変わらぬ著者の小説巧者ぶりを示すものだろう。
 一方で〝大人のための洒落しやれた都市小説集〟というペルソナを突き破りかねないほどの切実さ、物狂おしさが全編に漂っていることにも気づかされる。ここには社会通念から解き放たれようとあがく、さまざまな〝個〟のきらめきがある。
「リリー・マルレーン」の主人公はこれまでの人生に訪れた幸福を数え上げ、還暦を超えた〝おかま〟のリリーと自分の人生を比べようとするが、すぐにせんないことと気づいてやめる。なぜ〝詮ない〟ことなのか。幸福も不幸も、社会通念のものさしでは測定できないものであり、人それぞれが選び取っていくしかないからだ。「風」の許されない恋人たちや「二匹の子鬼」の憎しみ合う奇妙な夫婦を、世俗の論理で評価することはナンセンスでしかない。
 近年刊行されたエッセイ集『感傷的な午後の珈琲』で小池真理子は次のように書いていた。

 本物のときめきは、背後に必ず、それを失う恐怖、不安、悲しみや絶望の予感が潜んでいるものだ。傷つくのではないか、という恐怖や、悲しみの予感もないときめきは、偽物である。
(「本物のときめき」)

『東京アクアリウム』はこうな物語で私たちを酔わせながら、こう問いかけてもいる。今のあなたはどれだけ〝個〟として必死に生きているのか、と。

作品紹介



東京アクアリウム
著者 小池 真理子
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2021年10月21日

夜の闇の中、秘めていた記憶があふれだす――
夜景が美しいカフェで親友が語る不思議な再会に震撼する表題作、施設に入居する母が実家で過ごす最後の温かい夜を描く「猫別れ」など8篇。人の出会いと別れ、そして交錯する思いを描く、珠玉の短編集。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322101000236/
amazonページはこちら


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