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レビュー

【解説:西崎憲(作家)】今村夏子は何について書いているのか『あひる』

 今村夏子が何について書いているかはまだ誰も知らない。
 こう書くと、いぶかしく思われるかもしれない。今村夏子の文章は平易で、曖昧なところはどこにもない。見えるものが書かれ、見えないものは書かれていない。しかし本書を手に取ったかたには、この主張はまず感覚的に納得していただけるのではないだろうか。すこし長い話になるがつきあっていただきたい。


 本書は今村夏子の二冊目の文庫である。簡単に作者と作品の経歴を記そう。
 今村夏子は二〇一〇年に第二六回太宰治賞を受賞した。同賞は筑摩書房と三鷹市が主催する賞で、既成の文学観に縛られないところがあり、識者に注目される賞である。今村の応募作「あたらしい娘」が太宰賞に送られたことは幸福なことだったのかもしれない。
「あたらしい娘」は受賞後「こちらあみ子」と改題をほどこされ、書き下ろしの「ピクニック」と併せて刊行されて、手にした読者の心を深く揺さぶった。同書は第二四回三島由紀夫賞を受賞する。
「こちらあみ子」は紛れもない傑作である。たぶん二一世紀の日本の小説のアンソロジーが編まれたらかならず収録されるような中篇で、傑作というものにはおうおうにしてそういう傾向があるが、読むまえにどんな詳しい説明を聞いていても、読後それらの説明が全部見当違いではないかと人に思わせる作品である。そして「こちらあみ子」を語ることは、しばしば作品ではなく自分を語ることになる。そうした働きを理解しつつ、あえて言えば、同作はプロメテウス的な問題を扱った作品ではないかと個人的には考えている。
 壊れたトランシーバーで交信しようとするあみ子、人とあまりに違うあみ子は疎外され、苦痛を忍ばねばならない存在である、しかしあみ子はまた人に何かをもたらす存在でもある。そうした作用は宗教に似ているが、より個人的なものと言えるだろう。観念に寄るのではなく、人の個人性というものに寄るのだ。
 そういう作品を書いた人間がただですむわけはない。「こちらあみ子」を書くという仕事は人間には担いきれない重さだったのではないかと思う。
 三島由紀夫賞受賞決定後の電話インタビューで今村は率直な口調で「今後書く予定はない」といった意味のことを述べる。
 その後、二〇一四年の文庫版『こちらあみ子』に短篇「チズさん」を書くが、それから後はまた沈黙に入る。
 おそらくこの時点で、多くの読者や編集者は、この作者の新しい作品はもう読めないかもしれないと思っただろう。そしてあれほどの作品を書いた作者なのだからそれも仕方がないと諦めたかもしれない。
 しかし、そうはならなかった。
 電話インタビューから四年と十一か月後の春、新しく刊行された文芸誌が書店に並ぶ。『文学ムック たべるのがおそい』という一風変わった名前のその文芸誌の表紙には、月曜日の後が火曜日であるように、ごく当たりまえに今村夏子の名前が記されていた。そしてなかを開くと、簡素な作品名が目にはいる。
「あひる」
 そう、それがこの集に収録された作品である。そして新作「あひる」は「こちらあみ子」とは違った世界、ある種、より精緻な世界を見せてくれるものだった。



「あひる」が提示する世界を見てみよう。
 語り手である「わたし」は医療系の資格を得るために勉強をしている。何らかの学校などに行くわけではなく、自宅や喫茶店で勉強をしている。
 語り手は両親と暮らしている。三人暮らしの静かな暮らしである。
 そしてある日、父親があひるを家につれてくる。
「あひる」の世界を捉えがたくさせているのはこのあひるである。
 ここから先は既読の読者向けに書こう。
 引退した父親が昔の同僚から貰ってきたあひるは、さまざまな人間から愛される存在であるにもかかわらず、交換可能である。最初のあひるは死に、べつのあひるに交換され、それが死ぬとさらにべつのあひるに交換される。
 それが意味することは案外こわいことである。
 あひるはおそらくは親しみやすく印象的な姿ゆえに、愛される存在であり、その姿ゆえに交換可能である。それを人間に置き換えると慄然とするのではないだろうか。この「あひる」が胸騒ぎを起こさせるのは、たぶんそういうことを仄めかすからだろう。
 交換可能なものははたしてあひるだけか。語り手はどうか、両親はどうか、そして子供達は、暴力的な弟は、そして生まれてくる弟夫婦の赤ん坊は交換可能なものではないか? それらはもしかしたらシステムや組織といったものの存続を助ける一機能に過ぎないのではないか? あひるが両親にとって、そして子供たちにとってそうであるように。
 一方、あひるにたいして一定の距離を置く語り手は不分明で流動的な存在である。
 語り手は勉強中である。あるべき姿にまだ至っていない名指せないものである。「わたし」は名前を持たない。
 不可思議な二階のエピソードを思い起こして欲しい。
 あひるの「のりたま」に会いにきた男の子は二階の窓から顔を出した語り手の姿に驚き、指さして「人がいる」と言う。母親はそれにこたえて「娘よ」という。
 なぜこのような記述があるのだろう、この記述はなんのためになされているのか、評者は長いあいだ考えた。もちろんそういう疑問には正解はないのだが。
 子供が発した「人がいる」という語には気味の悪さがある。その気味の悪さにはたぶん複数の意味が隠れているが、そのひとつは「わたし」が意外な存在であるということだろう。
 男の子はあひるを中心とするシステムのなかでは安定した存在であり、あひるという価値を体現する要素である。そういう存在にとって「わたし」が意外であるということは「わたし」がシステムの外にいる可能性を示唆する。
 あひるシステムのなかでは、語り手は名前を持たない影のようなものなのだ。そして「あひる」が特別な作品になっているのは、ひとえにこの「人がいる」の箇所ゆえではないかと思う。
 作品というものはひとつのシステムであり、登場人物や作中で起こることはそのシステムから逃れることはできない。
 しかしほんとうにそうだろうか。システムのなかに組みこまれていながら、システム全体に言及するようなことはできないのか?
 終始平明な文体で書かれた「あひる」の背景にあるのは、そうした疑念に関連した実践ではないだろうか、筆者にはそう思われる。
 そして、作品のなかでその作品のシステム自体に言及する試みは、じつはあらゆるシステムや制度や組織への言及に容易に繋がっていく。それらがもたらすものは、不穏さであり、当惑である。当然だろう。システム自体について語ることはシステムを不安定にさせることなのだ。その不安定は読者に伝染する。海外には今村夏子とそのあたりを共有するのではないかと思われる作家が一定数存在する。いずれも読者を当惑させる作家である。名前だけになるが幾人かあげておこう。
 エドガー・アラン・ポー、A・E・コッパード、アンナ・カヴァン、クリスティン・ブルック=ローズ、ウィリアム・トレヴァー、イタロ・カルヴィーノ、フリオ・コルタサル。
「あひる」にはほかにも見るべき箇所が多い。孤独にたいする両親の恐怖、夜に突然家を訪ねてくる少年、弟の暴力的な理不尽さ、同様に理不尽な弟への家族の隷従。「あひる」においては、なんらかの「恐怖」もまた重要な要素であるように見える。



「おばあちゃんの家」と「森の兄妹」は一点を接してたくみにつながっている。今村夏子は構築力にもめぐまれた作家なのだ。
 前者に登場するのはみのりと弟の姉弟、後者に登場するのはモリオとモリコの兄妹である。この構成にもなんらかの意味があるのだろうか。「あひる」もまた姉弟の話である。
 二作から思ったのはまず今村夏子の児童文学の素養の深さである。
 小説にたずさわる者はけっして児童文学を軽んじてはならないと思うのだが、どうも現実にはそうはならないようで、残念ながら児童文学は文学地図の一番端に置かれる運命を甘受している。児童文学こそ作家たちの親であるのに。
「おばあちゃんの家」と「森の兄妹」はどちらも子供の歩行速度で書かれたような作品で、並々ならない集中の賜物と思われる文の柔らかさ穏やかさに感歎かんたんの念を覚える。
 ひとつひとつのエピソードはすべて深い壁龕へきがんのような奥行きをそなえている。
 みのりとも両親とも血のつながりがないおばあちゃん。
 みのりが迷子になって家に電話したとき、受話器をとったのはおばあちゃんだった。なぜインキョにいるはずのおばあちゃんがそこにいたのか。
「森の兄妹」には児童文学の愛好家だったら嗚咽をもらすような要素があふれていて、眩暈がするようだ。
 汗っかきのモリオ。
 かいがいしく妹のモリコの面倒をみるモリオ。
 たぶん金持ちで、いじめっ子気質の川島君。
 蠱惑こわく的な魅力をそなえた『魔剣とんぺい』の世界。
 そしてみのりがモリオに会うときに判明すること――みのりの弟とモリオが同級生で、隣のクラスであること。
 孔雀くじゃく/キジの顕現。
 ふたつの話をつなぐ「スーパーおおはし」。
 そして最後の特大の祝福。
「こちらあみ子」や「あひる」もそうなのだが、この連作のような「児童文学に過ぎない」ように見える小説もまたこれまで日本には存在しなかった。断言しておこう。

  4 で、いったいどういうことなのか?

 こういう笑い話を耳にしたことがあるだろうか。
 若い父親が子供を銭湯につれていく。元気な子供は湯船につかっているときに、興味深いものを発見して大声で父親に報告する。パパ、あのおじさん、背中に絵が描いてあるよ。
 子供はそれに言及すべきでないことを知らなかった。それは口に出してはいけないことだった。
 現代ではみんな言ってはいけないことが何かを知っている。
 小説というものは何を書いてもいいものだろうか。文学には自由が許されていて、なんでも書けるのだろうか。いやそうではない。違う。小説にはごく少ないことしか書けない。
 極端に暴力的なことは書けない。極端に差別的なことは書けない。極端に反商業的なことは書けない。
 出版社の意向があり、編集者の意向があり、自己規制がある。
 無言の規制はあまりに多く、素晴らしい個性や才能を持った新人もすぐに角を丸められ、飲みこみやすいものに変えられる。
 そしてたいていの作家は型紙を使って書くようになる。
 型紙を作ったのは自身であるが、それは昔の話で、もうずっと同じものを使っている。新しい型紙を作りたい気持ちがあっても、売れている場合、周囲はそれを薦めない。売れていなければそもそも仕事自体が消失する。
 今村夏子は新しい型紙を作る。その型紙からできた服はすこし変になる。そしてその服を着た人を見るとみんなざわざわした変な気持ちになる。
 裸の王様を裸だと言った子供は現代では不幸になるだろう。王様は裸ではないのだ。王様はその子供には見えない社会性という立派な服を着ている。子供はその見えない服が見えないことで疎外されるだろう。子供よ、それが見えないのはおまえだけだ、と言われて。
 今村夏子はその子供のひとりであり、おそらく裸の王様が着ている服が見えない。王様の服の立派さが見えない。しかし王様がさっきから寒いと思っていること、薄いシャツが一枚でもあったらと考えていることには気がついている。そしていまそのことを書こうとしているところだ。


>>今村 夏子『あひる』


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