北野武は27年ぶりに高倉健と映画『あなたへ』で共演した。北野武にとっての出逢いと高倉健の探す出逢いには、どこか通じ合うようなところがあった。谷充代『高倉健の身終い』の未収録エピソード特別公開します。
>>第2回「愛する母親との永訣」
一九九五年、ニューヨークでの煙草のコマーシャル撮影から帰国する直前、健さんから、翌二月に開催される「飛騨高山映画祭」の話を聞かされた。以前から、
「映画祭に呼ばれることはあっても一度も行っていない」
と話していた健さんには珍しく、
「もし行く気があれば行ってみるとよい」
と言われた。
帰国してすぐに私は岐阜県高山市で行われる映画祭の主催者に連絡し、訪問することが決まった。すぐに主催者側から映画祭のパンフレット類が送られてきた。その一枚にこんな文言が綴られていた。
飛騨人が待つ春は永い。
雪と寒さに耐えながら、ほのぼのとした春の日ざしを思いうかべ、
がまんの冬日を過ごします。
時まどろむ二月、
私達は映画のひとときを楽しみたいと思います
そして、もう一枚には、
健さんに会いたい――。
この文書一式を健さんに届けた。
その翌日のこと、健さんから電話が入った。
「俺も行くことにしたよ」
「えーっ! いつですか」
「映画祭の当日になるなぁ」
私は前日から現地に入る予定だったが、私も当日入りになるのか。健さんに問うと、
「お前は予定通りで行ってくれ。今、先方に電話をしたら、新幹線のチケットを押さえてくれると言ってくれた。一人で行けるから、高山の駅まで迎えに来てくれ」
「第一回飛騨高山映画祭」の初日(二月十日)、高山の町にはさらさらと音を立てて雪が降り続いていた。ニューヨークと同じ防寒着を着込んだ私は、単身でふらりとやってくる健さんを迎える。
凍てつく寒さには慣れっこな健さんは黒いロングコートの胸元までボタンをしっかり留めた格好でJR高山駅のプラットホームに降り立った。その頭上には木造の屋根と柱。すれ違う乗客の人達は驚愕の眼差しに豹変した。
健さんは大きなマスクを着用し、この季節の声の掠れを予防している。到着した足で控室が用意された日本旅館へ向かうが、途中、映画祭のスタッフを通じて、旅館の仲居さんに、
「健さんがうがいをする準備をしておいて下さい」
とお願いした。旅館へ着くや、仲居さんは、
「さっさっ、こちらへ」
と長い廊下の先にある手洗い所へ健さんを招いた。
ガラガラガラガラ‥…。
健さんのうがいする音が響き渡った。
仲居さんもスタッフも〝誰よりも得した表情〟で洗面所へ耳を傾け、口元は緩んでいた。
出てきた健さんは私に、
「ここの仲居さん、うがい薬まで用意しておいてくれたよ。気が利くねえ。お前も見習えよ」
と耳打ちした。
知らない人との会食を避ける健さんはこの日も例外ではなかった。うがいを済ませるとすぐに映画祭の会場へ向かった。
『冬の華』『居酒屋兆治』『昭和残侠伝 死んで貰います』等、特集上映のただ中、
作品にエンドマークが浮かんで一編が終わるや、突然飛び入りしてきた健さんを見た観客は、
「うわあ。本物かぇー」
と大歓声を上げたのだった。健さんが挨拶しても、
「うわあ」
好物のラーメンの話をしても、
「うわあ」
会場の熱気はいつになっても冷めやらない。
大勢の観客に深々と頭を下げた健さんは再び高山駅にトンボ帰りし、たった一人、車中の人となった。
それから十六年後(二〇一二年)、映画『あなたへ』のロケが飛騨高山で行われた。
『夜叉』の共演以来、健さんの前で役者として対峙するタイミングを待っていたビートたけしさんだった。撮影前夜、JR高山駅に到着し薄暗い照明の下にひょっこり姿を現した健さんを見て仰け反った。その様子を見た健さんは、
「たけしさん、迎えに来ました。明日は宜しくお願いします」
いたずらっぽい眼、そして大きな口を開けて笑ったと聞いている。
日本映画が斜陽の時代にも気を吐き続けた二人だった。
たけしさんが〝北野武〟として、『あの夏、いちばん静かな海。』(一九九一年)を監督した年のこと。たけしさんは男性ファッション誌の取材が一段落すると、スタジオの外で煙草に火を点けた。当日、取材に当たった私が傍に寄り六年前の『夜叉』の話に触れると、たけしさんはそれまでの表情を一変させて親しげな視線を向けてくれた。
映画の話をしたかったわけではなく、「多忙なたけしさんが心から寛げる時があるのならそれはどんな時なのか」を伺いたかった。
「バイクに乗りたかった頃、オイラの家、金なくってさ。バイクを買える状況じゃなかったんだよ。『買いたい』なんて言おうものなら、親父に殴られそうだし。大人になったら仕事が忙しくなっちゃってさ。そんなこともすっかり忘れていたんだよ。
今から三年前かな。急に、自分が買えなかったトーハツ・ランぺット(一時はホンダを凌ぐ日本一のオートバイメーカーとなったトーハツが一九六〇年に発売した本格的スポーツバイク)を何が何でも手に入れたくなった。
その頃、ハーレーダビッドソンの修理工と出逢ったんだよ。その人に、話をしたら、様々なパーツを集めて作ってくれるって。一度、アイスキャンディー持って工場に行ったら、オートバイが一台置かれていて、彼が手を血みどろにして真鍮を材料に、〝北野内燃機〟のエンブレムを彫り上げていた。
バイクは出来上がったんだけどさ、あんまり凄いんで、勿体ねえから飾ってあるよ。オイラ、しょせん、貧乏人なんだよ、参ったね」
それからしばらくして健さんとのお茶の時間に、私はたけしさんの〝TONO〟と名付けられた一号バイクの話をしたことがある。
「そのバイク、一度、見てみたいなあ」
健さんはぽつりと雫を落とすように呟いた。
指先を血で滲ませた修理工と、それを〝勿体ねえ〟と言うたけしさん。
損得だけでは測れない出逢いを健さんも探していたような気がする。
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。
>>谷 充代『高倉健の身終い』