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レビュー

金魚に姿を変えた謎の美女と、死にたい僕とのドタバタ同居生活。直木賞作家が贈るひと夏の物語『金魚姫』

 荻原浩をウィキペディアで検索してみたら、二○一五年に刊行された『金魚姫』が何の文学賞の候補にも挙がっていなかったことを知り、びっくり。憤慨したのは言うまでもない。

 若年性アルツハイマー病を宣告された広告代理店のやり手営業マンが、妻と共に病気に立ち向かっていく姿が共感と感動を呼んだ『明日の記憶』。

 ADHD(注意欠陥・多動性障害)と診断された少年ワタルの「自分の父親はクロマニヨン人だ」という思いこみから端を発する、自分探しの年月を描いた『四度目の氷河期』。

 父親の左遷によって岩手県の田舎町に建つ古民家へと引っ越してきた五人家族。それぞれに問題を抱えた面々が、家の中で起きる不思議な出来事の数々によって変化を見せていく『愛しの座敷わらし』。

 すべてを失いホームレスになってしまった証券マンが、ギャンブルで得た金をもとに一発逆転を狙って宗教団体を立ち上げるも、大きくなりすぎた組織に翻弄されることになる『砂の王国』。

 ダムの工事現場から発見された縄文末期と推定される少年の骨と、その手の先に埋まっていた弥生時代の少女の骨。この二体の骨の謎をめぐって、二○一一年の女性記者のパートと縄文時代を生きる少年のパートが交互に語られていく、壮大な恋愛小説にして、日本初の本格縄文時代小説『二千七百の夏と冬』。

 第一五五回直木賞を受賞した短篇集『海の見える理髪店』。

 といった荻原作品の中、わたしは断トツで『金魚姫』が好きなんだけどなあ。記憶のメカニズムに対する関心の深さ、社会的弱者や苦しんでいる人たちに向けられる温かいまなざし、残酷な世界に対するアンチテーゼ、ユーモラスな会話、驚きの展開、感動の着地点。荻原作品に見られる、そうした美点がすべて注ぎこまれた、リアルな手応えのある傑作ファンタジーだと思うんだけどなあ。


書影

荻原浩『金魚姫』


 主人公は〈僕〉こと江沢えざわじゅん。九年ぶりに高校の同窓会で再会したのをきっかけに、つき合うようになった亜結あゆと一緒に暮らすにあたって、経済的格差を埋めるために転職を決意したのだが、再就職先の仏壇と仏具を販売するメモリアル商会は絵に描いたようなブラック企業だった。心身共に疲弊した潤に失望した亜結との同居は、たった五か月で解消。睡眠導入剤と酒の力を借りないと眠ることもできなくなった潤の頭の片隅には、自殺願望が居すわっている。

 そんな夏のある日。たまの休日にベッドから出ることができない潤は、近所の神社から聞こえてくる祭り囃子に誘われて、屋台で食べるものを調達しようと、ようやく身体を起こす。そこで興味を惹かれたのが金魚すくい。潤は水槽の中の一番の大物である琉金りゅうきんに自分の明日を託してみる。〈もしとれなかったら、その時は、この辺りでいちばん高いマンションの屋上へ行く〉と。

 すると紅色の美しい琉金は、むこうから飛びこんできたみたいに、おわんの中へ。潤は飼育法を調べるために小さな古本屋に入り、そこで『金魚傳』という本を購入。とりあえず、亜結が置いていったアンティークの大きな瓶の中にミネラルウォーターを入れて、金魚の仮住まいにすることに。

 ところが、その晩、怪異現象が起きるのだ。真夜中に目を覚まし、広口瓶の中に金魚がいないことにうろたえる潤は、長く真っ直ぐな黒髪と裾の広がった赤い服から水を滴らせた美女と遭遇。これは仕事による過度なストレスがもたらした幻覚症状だと言い聞かせながら気絶してしまった潤が、翌朝目にしたのは瓶の中で泳ぐ琉金と、自分でやった覚えのない部屋の惨状。首をひねりながらも会社に行き、帰りに水槽一式を購入した潤を迎えたのは、昨夜の美女で――。

 この導入部で、物語に没入できない読者がいるとは思えない。が、琉金がこの美女の化身であることを了解した潤が、彼女を〈リュウ〉と名づけ、最初は怯えながらも、じょじょに慣れ親しんでいくにつれ、物語はさらに面白みを増していくのだ。

 記憶の多くを失っているリュウ。なぜ、琉金に姿を変えなくてはならなかったのか、その謎を一緒に解いてやろうと思う潤。人間の姿で外出までできるようになるリュウ。長い間外にはいられない彼女が、いつでも金魚の姿に戻れるよう、ペットボトル持参でつきそってやる潤。二人の関係が微笑ましい。

〈笑止〉みたいな古めかしい言い回しで、お姫さま然と潤に命令する一方で、テレビのCMやドラマに出てくる若い女の子の真似をしたがったり、ビルが建ち並び車が行き交うさまを〈摩天楼につぐ摩天楼〉〈馬車につぐ馬車〉と驚きながらも、知ったかぶりばかりしてみせる、えびせんが大好きなリュウのキャラクターが可笑しくて愛おしい。

 リュウと出会って以来、亡くなって間もない死者が見えるようになり、そのおかげで営業の成績が上がって、以前のようには会社が勝手に作ったブラックなルールに気持ちを縛られることがなくなり、リュウとの外出がハラハラしながらも楽しくなっていく潤の、心の回復と成長が嬉しくて頼もしい。

 読み進めれば進めるほどに、二人への感情移入が深まっていくのは、感興がわく人物造形ゆえであるのはもちろん、もうひとつの理由がある。それは、リュウがなぜ琉金に姿を変えることになったのかをわかっていないのは、実はこの二人だけで、作者は、読者にはその理由を早々に明かしているという仕掛けだ。

 しんの時代の中国で、自分に横恋慕した郡太守劉顯りゅうけんによって愛する許嫁いいなずけを殺された揚娥ようがという女性が、劉顥との婚の儀から逃れるために、ヂイ(中国ブナ)が棲息せいそくする沼に身を投げる。それがリュウであり、彼女がその後も琉金の姿で生き、劉顥の子孫に災いをもたらし続けているという復讐譚が、潤との現在進行形の物語の合間に挿入されているのだ。そのくらく陰惨なエピソードを知っているからこそ、リュウがついに自分の目的を思い出した後の展開を想像しないではいられない読者は、何もわかっていない二人の漫才コンビのようなやり取りを笑いながらも、その身を先走って案じずにはいられなくなるのだ。

〈すべては繋がっている〉という、『金魚傳』の作者・長坂ながさか常次郎つねじろうの言葉。〈巡る輪はいくたびも同じ場所へ戻る〉という、老舗金魚店で出会った、長坂とつきあいがあったという先々代店主の言葉。〈おそらく私も記憶によって生かされているのだ。私は、記憶そのものなのだ。記憶が消えたら――〉という、リュウの言葉。そのすべての言葉の意味がひとつにつながった時、しかし、わたしたち読者に、意想外かつ大きな驚きがもたらされる。

 先に紹介した作者による種明かし的復讐譚の数々によって、物語の結末を予見した気になっていただけに、その瞬間、頭の中で爆発する「!」の威力は超ド級。そうした種明かしが実は巧妙なミスリードにもなっていたことに対する、してやられた感ときたら半端ない。驚きと共にやってくる、これまた大きな悲しみによって、口をポカンとOの形のままで顔をくしゃっとさせてしまうというアクロバティックな表情になること請け合いの、見事な展開なのである。

 でも、物語はそこで終わらない。最終章で、あなたがどんな光景を見て、どんな気持ちを手渡され、どんな想いに胸満たされるのか。驚きから一転の感慨をもたらす最後の一文に向かって、急がずゆっくり、潤とリュウの稀有な物語を味わってみてください。


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