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レビュー

ミステリの名手、北村薫の傑作シリーズ。覆面作家は深窓のご令嬢? そして時々名探偵⁉ 『覆面作家の愛の歌』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(解説者:大多和伴彦 / 文芸評論家)

 文章を書いて糊口を凌ぎはじめてから、それほどの時間がたっていなかったころ、文庫の解説のお仕事をいただくと、普段書いている雑誌などの書評の原稿よりも、緊張したものでした。
 もちろん、どんな文章も「原稿料をいただいても恥ずかしくない水準」をそなえたものを書かねばならない点では同じですから、いつでも、それなりの緊張感はある。
 けれども、手軽なサイズであっても、やはり直接本に収められる文章を書く、という重みが、襟を正させてしまうのでしょう。
 今回の北村さんの作品について解説を、とお話をいただいたとき、その緊張感は、いつにも増して大きなものとなったのでした。なぜなら、この〝覆面作家〟シリーズ第二作目『覆面作家の愛の歌』の文庫化は、私にとって特別の感慨があるからなのです。
 この覆面作家と担当者の物語の陰には、もうひとつの覆面作家と編集者のエピソードがありました。解説らしからぬ文章を綴ることになるでしょうが、このことを書いておくことが、当時の担当者のひとりだった私の役目であると思うのです。
 現在の仕事をはじめる前、私は総合文芸誌『野性時代』の編集者をしておりました。北村さんのファンの方ならすでに御存知でしょうが、この〝覆面作家〟シリーズは、『野性時代』に不定期掲載されたものです。そして、私は、前作『覆面作家は二人いる』に収められた三つのお話の原稿を戴いていた担当編集者でした。
 今でこそ、北村さんの柔和な笑顔は、さまざまな雑誌に載っていますし、平成九年の秋には、日本推理作家協会創立五〇周年を記念して行われた文士劇で、デビュー作以来の人気キャラクター〝円紫師匠〟に扮し、その達者な演技は衛星放送で全国に流れもしました。しかし、平成三年に『夜の蝉』で推理作家協会賞(短篇および連作短篇集賞)を受賞されるまでは、北村さん自身が顔はおろか、年齢、性別、経歴など、すべてが謎に包まれた〝覆面作家〟でした。
 作品の発表は書き下ろし。版元の東京創元社に問い合わせをしても、担当の戸川編集長には上手にはぐらかされてしまうばかりで、各出版社の編集者たちは、ずいぶん悔しい思いをしたものでした。私もそのひとりでした。雑誌の仕事をしていましたから、もし、北村さんにお会いすることさえできれば、いきなり一冊分の長編の依頼は無理だとしても、単発の短い作品を、それもかなわないなら、たとえば原稿用紙二、三枚程度のエッセイでも、と、とにかく、一回でもお仕事がしたい――いや、それ以前に、これまで読んだこともないような、豊かな教養、深い人間洞察、そして、美しい文章を書く才能を持った人物に、お目にかかってみたいという、純粋な好奇心がありました。
 そんな中、角川の書籍部門の編集者から「北村さんにコンタクトが取れたので、一緒に会いに行かないか」と誘われたのです。その人は、私が北村さんに原稿を依頼したくて八方手を尽くしていることを知っていました。
 彼女は、さまざまなすばらしい企画の本を作っていた先輩でした。発想の豊かさ、きめ細かな心遣い、大胆な行動力、そして、粘り強さという、編集者には欠かせない能力を、いくつも兼ね備えていたし、私生活では、佳き妻であり、優しい母親でもある、素敵な女性でした。
 はじめての打ち合わせの席で、しゃべっていたのは、私たちばかりだったような記憶があります。普通の作家との打ち合わせとは違い、それまで私たちが胸の中で膨れ上がらせていた北村さんと、その作品に対する思いをお話しできる喜びに、いささか、仕事であることを忘れかけていたようです。そんな私たちに、北村さんは、照れたような、はにかんだような笑みを浮かべながら、ひとつひとつ丁寧に答えを返して下さいました。
 そして、なんと北村さんはその場で、私たちに作品を書いてくださる約束をしてくださったのでした。予想以上の成果に、私は驚きました。おそらく、先輩編集者が北村さんを探し当てた情熱にほだされた、それが、引き受けてくださった一番大きな理由だったのでしょう。
 戴いた原稿は、いったん『野性時代』に掲載してから、本にまとめることになりました。それはそれは、楽しい仕事でした。繰り返しになってしまいますが、当時、北村さんの新作は書き下ろしの単行本が出るのを待つしかなかったのですから、最新の作品を(しかも、新シリーズです!)、誰よりも先に読める喜びは、ひとしおでした。
 さらに、北村さんの作品の世界を、見事に絵で表現してくださる高野文子さんとお仕事が出来たことも、もうひとつの喜びでした。高野さんには、〝円紫師匠&「私」〟シリーズとはまた違ったタッチで、千秋さんの深窓の令嬢ともうひとつの顔を見事に描きわけた素敵なイラストを戴くことができました(単行本では、割愛されたイラストが、この文庫シリーズでは復活しています)。
 二作目(「眠る覆面作家」)の原稿執筆の前に、北村さんから、小説雑誌の編集部や、印刷所の様子を知りたいと問い合わせがありました。先輩編集者とともに、私たちの普段の仕事や生活、身の回りで起きた失敗談などをお話ししたり、印刷所で行う出張校正の雰囲気を伝えるために、建物や、校正用の道具類(仕出し弁当の中身も)などを、写真に撮ってお渡ししました。
 戴いた原稿の『推理世界』編集部や校正室でのシーンは、活気あるオリジナリティ溢れるものになっていました。編集者の行動やセリフのどれをとっても、私たち現場に身を置く人間が読んでもリアリティがある、いや、あり過ぎるくらい鋭く描かれていました。
 エンターテイメント作法の基本のひとつに「大きな嘘をひとつつくためには、その周りのことはすべて本当で固めなければならない」というのがあります。たとえば、映画『E.T.』。一見グロテスクな宇宙人が、しだいに可愛らしく見えてきて、ラストの別れのシーンでは、観客もエリオット少年と一緒に涙を流しながら宇宙船を見送ってしまう。それは、宇宙人以外の部分の描写――子供たちが遊ぶボード・ゲームから、不在の父親の使っていた化粧品の匂いにいたるまで、細部のディティールにきちんと心が砕かれているからこそ、非現実的な宇宙人に観客は感情移入してしまうのです。〝覆面作家〟シリーズは、『E.T.』とは正反対に、登場しただけで誰をも虜にしてしまうような魅力的なお嬢様が主人公ですが、その設定は、深窓の令嬢にして新人推理作家、なおかつお屋敷の家と外では人格が豹変し、難事件を見事な推理で解き明かす――と、やはり非現実的。千秋さんにリアリティを持たせ、読者に好感を抱かせるためには、その周りの世界を正しく描くことが絶対条件であったはずです。
 さらに、この〝正しく〟描かれた世界は、普段私たちが忘れかけていた、人の営みの真実を思い出させてもくれる。
 澄んだ水をたたえた湖――北村さんの作品に対峙するとき、私がいつも頭に思い浮かべるイメージです。
 清涼な空気が漂う湖畔を散策したり、舟を浮かべて釣りを楽しむことも出来る。周りを取り囲む木々の緑は目を休めてくれるし、空の高さに驚かされたり、流れる雲の変化を楽しむこともできる。
 湖面は、鏡のようにこちらの姿を映し出すけれど、手を差し入れれば、その水はかなり冷たく、そして、深い。
 美しい文章によって読む者を酔わせながら、的確に人間の姿を、普段は見えない深い部分まで描いてしまう。これが、北村作品の魅力であり、凄み、でもあると思っています。
 さて――。
 本書の第一話「覆面作家のお茶の会」が書き上げられたとき、私は個人的な理由で会社を辞めていました。そして、先輩編集者――豊嶋和子さんは、帰らぬ人に……。
 私は、『野性時代』の新しい担当者となった池谷真吾君の心遣いで、ゲラの段階で第二シリーズのオープニングを読ませてもらう機会に恵まれました。
 千秋さんとリョースケの登場は、平成三年十二月号以来のこと。三年以上の時が流れていましたが、そんなブランクをまったく感じさせない快調なテンポで物語はスタートしていました。懐かしさはすぐに忘れ、私は冒頭の左近先輩の手紙の謎にのめり込んでいきました。そして、五節のおわり、その謎が解かれたあとの千秋さんのセリフを読んだとき、活字がにじんでいました。
「本を手にしたら、いつだってあの人に会える」
 さりげなく、セリフに込められてはいますが、これは、まぎれもない北村さんの豊嶋さんへの鎮魂の言葉でした。
 物語は、作家が生み出すものです。しかし、そのきっかけ作りや、物語が一冊の本となり、読者のもとへと届けられるまでの間には、さまざまな人が関わりを持っていきます。その出会いのひとつ、この「覆面作家」の物語が生まれることになった彼女の仕事を、北村さんは千秋さんの言葉によって作品の中で、永遠のものにしてくださったのです。
「覆面作家」シリーズは三冊で完結しています。その出版のあと、池谷君も別の出版社の編集部で働くことになりました。そして『野性時代』も休刊しました。
 時はうつろい、人は去っても、物語は残っていく。しかし、こうして文庫化されることによって、千秋さんとリョースケは、また新しい読者と出会うことでしょう。そして、出会った人々の心の中で永遠にふたりは生き続ける……。冒頭に述べた「文庫化への特別の感慨」とは、そういうことなのです。

※一九九八年刊行の角川文庫『覆面作家の愛の歌』に収録された解説を加筆訂正の上、再録しました。

ご購入はこちら▷北村 薫『覆面作家の愛の歌 新装版』| KADOKAWA


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