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レビュー

天才囲碁棋士が味わった天国と地獄 『どん底名人』

 勝負師の話が好きだ。勝つことに命を削り、そのために身を滅ぼしてもかまわないという人間の生き様が好きだ。自分にはそんな土性骨(どしょうぼね)がないだけに憧れる。勝つことに拘らなくてはいられない人間の性に、どうしようもなく魅かれてしまう。
 特に棋士たちの物語は魅力的だ。将棋も囲碁も麻雀も、ルールさえろくに知らないのに、対局の場の緊張感や彼らの気概に圧倒される。勝負師たちの栄光と挫折の物語は、賞金や名声の高さと、没落する悲惨さのギャップが大きければ大きいほど、読み手は興奮し感情移入する。てっぺんに立ったものしか味わえない栄光と悲哀。そこに到達できない凡人の足掻き。しかしその場から逃げない強さと逃げられない弱さにひきつけられる。
 阿佐田哲也(あさだてつや)の『麻雀放浪記』(角川文庫)にはじまり、将棋では団鬼六(だんおにろく)『真剣師小池重明』(幻冬舎アウトロー文庫)や大崎善生(おおさきよしお)(さとし)の青春』(角川文庫)、棋士とは言えないがチェスでは天才ボビー・フィッシャーの栄光と転落を綴った『完全なるチェス』(文春文庫)も貪るように読んだ。
 そんな世界に身を置く人の自叙伝が面白くないはずがない。ここにまたひとつ、天才といわれた勝負師の傑作が著された。著者は囲碁棋士、依田紀基(よだのりもと)である。
 囲碁を打てない私でも名前だけは知っていた。9歳で囲碁を覚えたのは決して早いスタートではないのだそうだ。だがめきめきと実力をつけ、10歳で日本棋院の院生になるために北海道から上京。師匠である安藤武夫(たけお)七段の2番目の内弟子になったのは11歳の夏。小学6年生の依田にとって碁の本がたくさん置いてある安藤の家は、囲碁を学ぶための天国であった。
 囲碁界では、大多数の師匠が碁を打って教えることはない、というのは驚きだった。「弟子には十分な碁の本と環境を与えて、その後どうするかは弟子の問題」と語る安藤の言葉に応えるのは過酷だ。依田はただひたすら暗記したという。基本を覚えるのは繰り返しの練習というのは、どの世界も変わらない。だがそれを信じひたすら続けることができる者が天才と言われる所以だろう。
 その努力が報われ、プロ棋士採用試験である入段予選に2度目の挑戦となる昭和54年冬に見事に合格し、プロ棋士入段が内定する。初対局は昭和55年の春。中学3年でデビューし驚異の11連勝を成し遂げた。当時、デビューからの連勝記録としては歴代1位の快挙であり、有望な新人として囲碁界で注目を浴びたのだ。
 中学卒業後、進学せずに囲碁だけに邁進した依田は当然強くなる。中国へ行き若手の中国棋士と競い合い、新人賞を受賞し、17歳で五段に昇進した。将来は順風満帆かに思えた。
 だが凋落はすぐにきた。まずは麻雀だ。若くして賞金を手にした依田にとって賭け麻雀は怖いものではない。対局の合間にのめり込み、徐々に依田を蝕んでいく。内弟子から独立しマンションに一人住まいとなると、歌舞伎町で酒、女、バクチに嵌る。最年少で入った名人戦リーグでも碁の勉強は全くせずに簡単に陥落し、麻雀に逃げる。
 だが依田にはいつも救世主が付いていた。なぜか必ずお尻を押してくれる人が現れる。憧れの呉清源(ごせいげん)をはじめ、師匠の安藤武夫、破天荒さも受けついだ藤沢秀行(ふじさわひでゆき)、たったひとことのアドバイスで生き返らせた上村邦夫(かみむらくにお)など、素晴らしい先輩がたくさんいたのだ。だが勝機をつかみ上昇したかと思うとまた下降する。バカラにも狂い、借金地獄からもある天啓(てんけい)に救われる。頂点からどん底へ、まるでジェットコースターのような人生だ。
 現在、依田は51歳。バカラ地獄以上の人生のどん底にいるという。その理由は明かされていないが、本書は遺書のつもりで書いたのだそうだ。自らを意志が弱い人間だと言い放ち、それでも「虚仮(こけ)の一念」で囲碁界を渡ってきた依田紀基という男は、また上昇気流に乗ってもう一花咲かせてくれると信じたい。今後の戦いに注目している。


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