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レビュー

【解説:酒井順子】田辺聖子がユーモアたっぷりに描く“ダメ男”! 男と女の悲喜こもごもが笑えて刺さる傑作7篇『あかん男』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(解説:さか じゆん / 作家)

あかん男』は、昭和四十六年(一九七一)に刊行された短編集です。

 その頃の日本は、様々な面で落ち着かない時代を過ごしていました。経済は成長を続け、前年には大阪万博が開催されてお祭り騒ぎに。一方では、学生運動が激化した「政治の季節」の記憶がまだ生々しく残り、女性の世界ではウーマンリブが注目されて、世界的に女性解放の機運が高まっていた。……ということで、一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけては、時代の転換期だったのです。

 そんな中で刊行された『あかん男』には、しかし新しい時代のギラつきのようなものは、感じられません。学生運動の怒りも万博による浮かれぶりもウーマンリブの盛り上がりも、作品からは見えてこないのです。

『あかん男』に限らず、田辺作品がいつ読んでも古びない理由の一つとして、そのあたりがあげられると私は思います。人は常に、「自分が生きている今こそが、特別な時代」と思っており、「今」の特殊性を描こうとする文学者は多いものです。しかし田辺聖子さんは、科学技術がどれほど進歩しようと、突飛なものが流行はやったりすたったりしようと、また大きなイベントや事件があろうと、決して変わらぬものは確実に存在することを知っており、常にその「不変のもの」を軸足として、作品を書かれている。

 それはたとえば、男女の仲。男男の仲でも女女の仲でもよいのですが、愛やら情やらで結びつく一対の人間関係にまつわるこもごもは、世の中が変化しても、そう簡単に変わるものではないようです。まつな事象と思われがちではありますが、瑣末さの中からしばしば、人間の本質が見えてくるのでした。

 ウーマンリブが盛り上がっていた当時は、男女の関係性が激変しそうな予想も漂っていたはずです。しかし『あかん男』には、「時代が変わるから自分達も変わらねば」という男女は、描かれていません。おそらくは昭和四十六年当時も、「こういう男って、昔っからいるよね」「これって、私のこと?」と読者に思わせたであろう男女が登場するのであり、書かれてから約五十年が経った今も、私達は同じことを思っている。

『あかん男』には、表題作のみならず、「あかん男」がたくさん登場します。そこで浮かび上がるのは、女から見た時の男の「あかん」部分と、男が自分を見た時の「あかん」部分とが著しくズレている、という事実です。

 表題作の主人公は、三十五歳の独身男。すでに頭部は心細い状態になっており、明るい性格でもなく、つまりは女性から人気があるタイプではありません。

 自分では、女性をり好みしていないと思っているけれど、実際は、

ニコニコして、ひと言もムダ口をきかず、月給も係累も趣味も特技も禿(はげ)も問題にせず、私を大切にかしずいてくれて、自分は着るもの食べものいらず、またスーッと消えてくれる、幽霊妻か、お化け妻がよろしい

 というほとんど無理な願望を持っており、さらには見合いをした女性達については、

そろいもそろって醜女(ブス)ばっかりやった

 と、そのようぼうに文句をつける。

 これが現代であれば、「生身の女性はちょっと……」ということで、彼はアニメ等の二次元方面へと向かったことでしょう。しかしあいにく当時はそのような道は無かったので、彼は「自分が独り身なのは、女のせい」ということにしている。

 彼も、自分のことを「あかん男」だとは思うのです。しかし自分のことは棚に上げて高望みしていることが自身の駄目な部分だとは、思っていません。女の子に馬鹿にされてももはや怒りすら湧かない、そんな自分を「あかん男やなあ」と思っているのです。

「プレハブ・パーティ」は、おじさん達が乱交パーティを夢見るお話です。突飛な設定のようにも思えますが、どうやらこの時代、乱交やら夫婦交換といったことが静かなブームになっていた模様。普通のおじさんの中にも、「自分達も楽しみたい」という欲望が広がっていたのでしょう。

 おじさん達は、張り切って準備を進めます。まさに「やる気まんまん」であるわけですが、しゃれた山荘のつもりで行ったらボロい山小屋で、そこにやってきたのは登山途中の女性達。乱交どころか、合コンにすらなりませんでした。

 ここでも、おじさん達の自己認識には甘さがあります。自分達は女性達を色っぽい気分にさせられるような資質を持っているのか、という視点が欠けているのであり、セッティングさえすれば乱交が成立するかのように思っている。

 男の感覚と女の感覚はかほどに交わらないものだ、ということがよくわかるこれらの作品。そのズレは、スマホがどれほど便利になろうと、人類が宇宙に行こうと、変わるものではありません。

 男女の感覚が永遠に交わらぬそのもどかしさやら腹立たしさやらを、今は脳科学のようなもので説明して、なだめようとする動きもあります。しかし、「あかん男」の「あかん」さ加減の原因が科学的に解明されてしまうと、かえってつまらないのではないか、と私は本書を読んで思ったのでした。

 生きる妙味は、永遠に交わることがないとわかっている相手のことを好もしく思ったり手なずけたり憎んだり恨んだりするところにある、と田辺作品はいつも教えてくれます。様々な多様性を理解しましょう、という動きが今は盛んですが、わざわざ遠くまで多様性を探しに行かずとも、最も身近な「自分とは違う人」としての異性という存在を、田辺作品は思い出させてくれるのです。

「あかん男」を東京弁で言うならば、「駄目な男」になりましょう。しかし「駄目」とはせずに「あかん」とするのが、田辺文学の優しさであると同時に、怖さでもあります。「駄目」という言葉は、濁点も入っているし、いかにもキツい響きを持っているのに対して、「あかん」は柔らかく、丸い。

「駄目!」

 と拒否されたら撤退するしかありませんが、

「あかーん」

 と言われたら、再考の余地がありそう、と希望が残る気がするではありませんか。

 全体的に、関東の物言いはストレートできつく聞こえるのに対して、関西の言葉は丸くてやんわりしています。しかし反対に言うと、関東の言葉は、キツいけれど、わかりやすい。関西の言葉は、優しいけれど、その奥にある意思は、聞く側が察しなくてはならない。すなわち関西の言葉の真意は、聞き手が「自分で気づくしかない」わけで、ただ優しいだけではない厳しさ、残酷さを内包している言葉なのです。

「あかーん」

 と言われて、進むか、戻るか。そこで、聞き手の機知が試されることになる。

 田辺文学では関西の言葉が多用されていますが、柔らかなもちのような言葉に包まれているものが甘いものなのか辛いものなのか、と考えつつ読むことも、私のような関東の人間にとっては楽しみの一つです。そんな中でわからなかった言葉は、「さびしがりや」の最後に出てくる「あくかいや」。

「さびしがりや」は、神戸の「いわくつきでない男や女はいない」という土地が舞台のお話。誰もが不幸を抱え、誰もが強がっているけれど、その実、子供のことは胸から離れない。……ということで、足の悪い文治は、

誰も彼もさびしがりやばっかりで腹がたつ。人間、もっとえげつない奴でないと、あくかいや、という思いである

 という感慨を抱くのです。

「あくかいや」という言葉は、この辺りの方言である模様で、意味は「あかん」とほぼ同じ。つまり「あくかいや」も「あかん」も、何かが「あかない」ということを表現しています。

 この「あかない」は、「らちがあかない」の「あかない」で、漢字にするなら「明く」とか「開く」。埒とは馬場のさくを意味しますが、いずれにせよ「あく」は、明るい方へ開いていくという、つまりは「うまくいく」ということであり、対して「あかない」はその反対、ということになりましょう。

人間、もっとえげつない奴でないと、あくかいや

 という文治の思いの中では、「えげつない」もまた、関西の言葉です。関東の者としては、お笑い番組などで聞き知ってはいるけれど、はっきりとした意味まではわからないという言葉ですが、これは「あくどい」「人情味がない」といった意味らしい。

 ということは文治は、「人情なんてものにしがみついているから、この辺りの人間は幸せになれないのだなぁ」と、思っているのです。そう思う彼も、亡き子への思いを捨てることは、どうしてもできない。彼もまた、自分が「あかん男」であることを自覚しつつ、亡き子の代わりかのように、梅酒のつぼをなでさするのです。

 この部分を関東風に書けば、

「人間、もっとあざとい奴でないと駄目だ」

 になりましょう。また関西風なら、

「人間、もっとえげつない奴でないと、あかん」

 とすることもできる。しかし「駄目」でも「あかん」でもなく「あくかいや」が使用されることによって、文治が住む土地のにおいや、そこに住む人達が抱える哀しみが、濃厚に立ちのぼるかのようなのです。

「さびしがりや」では、オテツや安江のえげつない生き様が描かれていながら、最後には彼女達も皆、情にもろくてえげつなさに欠ける人間なのだ、と明かされてサゲとなり、まるでにんじようばなしかのよう。『おせいさんの落語』という創作落語の本もありますが、落語のようなおかしみと哀しみが、本書のそれぞれの短編にも、盛り込まれています。

 特に「へらへら」は、そのまま落語となりそうな一編です。ある日突然、置き手紙を残して隣の奥さんと出奔した夫。妻に去られた隣のだんさんと一緒に捜索しているうちに二人の距離が縮まっていき、一緒にビールなど飲んでいる時に「ふっと二人帰ってきたら……」と想像したら、

そ、そないならんうちに、早いとこ、置き手紙して逃げよ

 ということで、おしまい。パチパチパチ! と拍手をしたくなるサゲではありませんか。

 そう考えるとこの本全体の構成も、落語的なのです。「あかん男」で始まった本書は「かげろうの女」で終わりますが、最終話のモチーフとなっているのは、もちろん藤原道綱母の『蜻蛉日記』。

 時の権力者・藤原兼家の妻の一人になったはよいけれどしつに悩まされ、そのはんもんを赤裸々につづった作品が『蜻蛉日記』です。「かげろうの女」では、

「わたくしを何とお呼びになりました?」

「何が? わしが何を言うた?」

「時姫、とおよびになりましたよ」

「そやったかいな」

 というように、道綱母は関東弁で語るのに対して、兼家は関西弁で語っています。すなわち、道綱母は自分の感情をストレートに男に伝えているのに対して、兼家はやんわりとはぐらかして、相手の意思も自分の真意も、よくわからなくしてしまう。だからこそ道綱母はイライラが募り、夫の気をひくために息子を連れて寺にこもってしまうのです。

 そんな中で道綱母は、

「男というものは、女心の悲しみの深いなど、とうてい知り得ないのではなかろうか」

 と思うのでした。「うらみもつらみも、むなしく手ごたえなくそれてしまう」のだから。

 道綱母は、男と女の「交わらなさ」に、心底絶望しています。その絶望感は、今を生きる女性達が抱くものと同じ。

 田辺聖子さんは、本書の最後に「かげろうの女」を置くことによって、当時の読者に対して、

「男と女の交わらなさなんてものは、千年も前から同じ。嫉妬やら権力欲やらといった生々しい感情も、どれほど科学が発達したからといって、人は克服できるものではない」

 と伝えたかったのではないかと、私は思います。そのズレやら生々しい感情と闘うのでなく乗り越えるのでもなく、「そういうものだ」と思って生きていけばいいのではないか、と。

 道綱母は、煩悶の末に筆をとり、自身について書き始めます。「男は裏切っても仕事は裏切らないものである」とありますが、書くことによって自身の内面に風を通すことは、彼女にとって大きな救いとなったことでしょう。

「あかん男」は千年前からいたし、それはこれからも変わらない。そんな男に執着してしまう「あかん女」もまた、同じ。……というところで、この短編集はサゲ。笑って泣ける落語会の後のようにスッキリとした気持ちで、私達は本を閉じるのでした。



田辺聖子『あかん男』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322003000373/


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