桶狭間合戦、関ヶ原合戦、大坂の陣など、戦国時代の合戦や主要事件を網羅した、著者の集大成的短編集『家康謀殺』(著・伊東潤)より、「上意に候」を特別公開!(第1回から読む)
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前回までのあらすじ:側近の裏切りで、秀吉の甥・秀次は豊臣家への謀叛の疑いをかけられてしまう。政争に意図せずして巻き込まれた秀次に、秀吉が命じたのは高野山行きだった。
高野山に登らされるということは、関白職を解任させられるだけでなく、自害を命じられる可能性すらある。
京から急を聞いて駆け付けてきた渡瀬繁詮は、「太閤殿下にご面談いただけるよう、再度、お願いすべし」と進言したが、秀次は「太閤殿下をさらに激高させるだけだ」と言って、その進言を退けた。
高野山に向かう途次、東福寺に寄り、落飾して法体となった秀次は、その日のうちに竹田街道を南下し、玉水に泊まった。
その夜、三成の使者がやってきて、十一人の近習小姓と東福寺長老の隆西堂だけで高野山に向かうよう指示してきた。
宿館の広縁に出た秀次は、清々しい夜気の中、初秋の月を眺めていた。
「こうして頭を丸めると、この世のすべてが、はっきりと見えてくるような気がします」
傍らに立つ隆西堂が答える。
「それが出家というものです」
「これからどうなるかは分かりませんが、たとえ死を賜ろうと、悠然と冥途に赴くつもりです」
「死は終わりではありません。仏とのかかわりにおいては始まりなのです」
「そうだとよいのですが」
秀次は神仏を信じていなかった。人は死ねば土に帰るだけであり、その後に残るものなど何もないと思っていた。しかし世を静謐に導きたいということでは隆西堂と一致しており、隆西堂を師と仰いでいた。
秀次が疑問を口にする。
「なぜ治部は、考えを同じくするそれがしを追い込んだのでしょうか」
「おそらく──」
隆西堂が悲しげに首を左右に振った。
「関白殿下を失脚させたのは、治部殿の本意ではありますまい」
「何と」
「関白殿下と治部殿の目指しているものは一致します。しかも向後、意見が対立しても、賢者どうしは妥協することもできます」
「それではなぜ、それがしを失脚させたのですか」
「これは七月になってから聞いた雑説ですが──」
文禄二年、文禄の役が膠着状態に陥り、秀吉は明軍に対し、条件次第で停戦することを了承した。その交渉窓口となったのが小西行長で、それを支えたのが石田三成だった。ところが双方の停戦条件が折り合わず、交渉は遅々として進まない。
少しでも有利な条件を得るべく二月、日本軍は幸州山城を攻めたが、これを落とせず、逆に三月、漢江の南岸に築いた兵糧庫を焼き討ちされた。これにより日本軍は、長期戦を遂行する余力を失った。
万事休した行長と三成は明使を来日させる。ところが、この明使というのは、二人が仕立てた偽の使節だった。
これを知らない秀吉は上機嫌で応対し、朝鮮半島南部四道の日本への割譲といった講和条件七カ条を提示した。偽の使者はこの条件を持ち帰ることになる。
行長と三成は秀吉の命がさほど長くないと考え、こうした欺瞞もばれずに済むと思っていた。
その一方で二人は、秀吉の「降表(降伏状)」を偽造し、使者を北京に向かわせた。かくして、二人の演出による偽りの講和が締結されようとしていた。
しかし、これに疑念を抱いた者がいる。
加藤清正である。
清正が別経路で停戦交渉に当たっていた朝鮮国の使者に裏を取ると、話が嚙み合わない。これにより行長と三成の策謀を知った清正だが、一時的な停戦には賛成なので黙っていた。
ところが三成は、この機に主戦派の清正を失脚させようと秀吉に讒言を繰り返したので、清正は召喚されることになる。
もはや秀吉は老耄し、自らの感情の赴くままに、あらゆる決断を下すようになっていた。
しかし清正も馬鹿ではない。三成らの策術を秀吉にばらしても、三成や行長が叱責されるだけで終わるかもしれない。となれば、三成ら文治派の力を弱めておく方が得策だ。
この頃の豊臣政権は、秀次を盛り立てる文治派に対し、拾丸を奉戴する武断派という図式ができつつあった。
結局、三成が秀次を失脚させれば明使の一件は口をつぐむという条件を、清正から突き付けられた三成は、秀次を失脚させねばならない立場に追い込まれた。
「何ということだ。わしは家中の政争の道具にされたのか」
「あくまで雑説ですが、そのあたりが実情でしょう」
「何と馬鹿馬鹿しいことか」
「そうした馬鹿馬鹿しいことが、この世を動かしていくのです」
秀次が嘆息しながら言う。
「わしは、もう人の道具にされるのは真っ平御免だ。幼い頃から養父上の意のままに操られ、さらに豊臣家中の政争の道具にされるとは。何とも馬鹿馬鹿しい人生ではないか」
「関白殿下の心中を察すれば、慰めの言葉も見つかりません」
「もうよい。これでしまいにしよう」
秀次は月に向かって高笑いした。
九
九日、奈良に一泊した秀次は、十日、高野山に着いた。三成から指定された宿坊は、秀吉の生母・大政所の菩提寺の青巌寺だった。ところが十二日、秀吉の使者がやってきて、「秀次住山掟三ケ条」という掟書きを置いていった。
その中の一条には、「秀次が召し使っていいのは、侍十人、坊主・台所人(料理人)・下人・小者・下男をそれぞれ一人ずつの合計十五人とする」というものがあり、また、秀次やその召し使っている者たちが下山することを固く禁じ、番人を置くことを指示するなど、秀次が高野山に長く住むことを前提とするものだった。つまり秀吉は、秀次を関白の地位にとどめたまま高野山に蟄居謹慎させ、拾丸が十六になるのを待つつもりなのだ。
──その手があったか。
秀次は笑い出したくなった。
前例主義の朝廷を納得させるには、十六歳で関白となった藤原基実の年齢に拾丸が達するまで待たねばならず、それまで秀次を山上で飼い殺しにしようというのだ。
──つまり、わしが死んで最も困るのは、養父上ではないか。
関白職を豊臣家の世襲職として朝廷に認めさせるには、しばらくの間、秀次を生かしておくしかない。
──馬鹿馬鹿しい。どこまで人を道具と見なしているのか。
この時、秀次は自害を決意した。
自害だけが、秀吉にできる強烈なしっぺ返しだからだ。
しかしこの頃、三成は秀次の自害の可能性に思い当たった。一度は高野山に上げてしまったが、よく考えれば自害される恐れがある。
三成は秀次を自らの監視下に置くべく、山から下ろすことにした。
秀吉に相談すると、秀次の縁者の福島正則を使者として派遣すれば、秀次は言うことを聞くと言った。いまだ秀吉は、秀次が懐柔よりも脅しに弱いと思い込んでいたからだ。
その命を受けた正則は、勇んで高野山に向かった。
しかし短絡的な正則に心配した三成は、福原長堯を相役として随伴させた。
十五日、福島正則は高野山に着いた。ところが三千もの兵を引き連れていったため、高野山の衆徒との間で一触即発となる。
高野山のような大寺院は聖域となっており、俗世の権力者の力が及ばないという建前がある。つまり俗世で罪を得ようが、逃げ込めば保護される。それゆえ正則が軍勢に物を言わせて「引き渡せ」と言っても、「はい、そうですか」と応じるわけにはいかない。
正則は「とにかく引き渡せ。それが太閤殿下の上意に候」と主張するが、高野山側は受け容れない。福原長堯が間に入って奔走したが、双方は譲らず、武器を構えてにらみ合いが続いた。
この知らせを受けた秀次は、高野山側に「切腹するので、矛を収めてほしい」と頼み入り、切腹の座を設えてもらった。
しかし、小姓たちが供をすると言って聞かない。
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レビュー▷名作の誕生(評・縄田一男)
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