桶狭間合戦、関ヶ原合戦、大坂の陣など、戦国時代の合戦や主要事件を網羅した、著者の集大成的短編集『家康謀殺』(著・伊東潤)より、「上意に候」を特別公開!

前回までのあらすじ:秀吉の甥・秀次は政争から身を引くため、関白の地位返上を検討する。持病の湯治に出かけた先で、家康の家臣・酒井忠次に会った秀次だったが……。
「どういうことだ」
「言祝ぎは百言を尽くすより、行動で示すべし」
「行動だと」
「はい。まずは関白殿下が皆に率先し、それを示すべきかと」
「つまり、関白の地位を返上しろと申すか」
「いかにも」
忠次が身を寄せてきた。
「わが主は、太閤殿下と関白殿下の間に疎隔が生じることを、何よりも案じております」
秀次は「よう言うわ」と思ったが、ひとまず忠次の言に耳を傾けることにした。
「すぐにでも京に戻り、関白職返上を太閤殿下に言上すべし」
「しかし関白というのは、帝を後見する役割を担っておる。わしが突然、身を引いてしまえば、朝廷と豊臣家の連携が滞る。それゆえ、わしも思い悩んでおるのだ」
「仰せの通り。それゆえ太閤殿下もお引き留めなさるはず」
「そうか。それは考えられるな」
「それゆえこの場は、太閤殿下に『お返しする』と仰せになることが肝要なのです。さすれば太閤殿下は上機嫌となり、『この子が元服するまで関白を務めよ』と仰せになられるはず」
忠次の言は、いちいち理に適っている。
「豊臣家千年の計を図るには、まず地固めから。それは、ひとえに太閤殿下と関白殿下の良好な関係に懸かっております」
気づくと忠次は、秀次と肩を接するほど近づいていた。その肩に残る刀傷の跡が生々しい。
それは、秀次とは全く異なる人生を歩んできた者の証でもあった。
「どうか国家安泰のために、わが言をお聞き届けいただけますよう」
穏やかな声音ながら、忠次には有無を言わさぬ強引さがある。
──それを言いに、ここまで来たわけか。
言うまでもなく、忠次の言葉は家康の言葉なのだ。
──やはり、そうすべきなのか。
湯につかりすぎたのか、軽いめまいを覚えた。
「先に出る」
「ご随意に」
「そちの言葉、よく考えてみる」
「それがよろしいかと」
湯煙の中で、忠次の双眸が光った。
三
翌日、忠次は「急用ができた」と言って江戸に帰っていった。これにより家康の意を受けた忠次が、秀次に譲位を勧めるために来たことが明らかになった。
関白職を辞すと言ってしまえば、それを真に受けた秀吉は即座に了承するかもしれない。それほど秀吉の老耄は亢進してきているのだ。そうなれば、秀次が推し進めようとしている書画骨董による豊臣政権の求心力強化策も日の目を見ないことになる。
──さすれば唐入りは長引き、その負担で民の呻吟は続く。
秀吉が土地にしか価値を見出さない限り、唐入りは終わらない。
──待てよ。なぜ三河殿(徳川家康)は、豊臣家の安泰を願っておるのだ。
考えてみると、忠次ほどの者が、わざわざ熱海まで来て譲位を勧めるというのもおかしな話だ。建前としては、天下泰平と豊臣家の安泰を願ってのことなのだろうが、家康が豊臣家の安泰など考えるはずもなく、逆に豊臣家の力を弱めるために、秀次に身を引かせようとしているとも考えられる。
──もしも、わしの辞意が容易に受け入れられ、拾丸が関白に指名されることにでもなれば、めんどうなことになるやもしれぬ。
いかに周囲の者の手助けがあろうと、幼い拾丸では十分な朝廷工作ができない。そうなれば万が一、徳川家と手切れになった時、後手に回って朝廷のお墨付きを得られないまま徳川家と戦うことになるかもしれない。
朝廷は、どちらかが圧倒的に有利でない場合、一方に肩入れすることはない。つまり手続き上の問題などを持ち出し、何のかのと言い募り、お墨付きを出さないこともあり得るのだ。
いろいろ考えているうちに、秀次は気重になってきた。湯当たりでもしたのか息が苦しくなり、座していることもままならなくなった。持病の気鬱の病まで生じたのか、床に臥せって動けなくなった。
──この大事な時に何ということだ。
秀次は常に持病と闘ってきた。
とくに生来の喘息と少年時代に発した気鬱の病は、次第に秀次を蝕み、関白としての政務が滞るほどだった。それでも秀次は歯を食いしばり、病を振り払うように生きてきた。
──病ごときに負けられるか。
それから二十日ほど熱海で療養した後の十月十五日、朝廷の使者が到着し、すぐに戻るようにという帝の意向を伝えてきた。
──宸襟を煩わすわけにはまいらぬ。
いまだ気分は優れなかったが、秀次は京への帰途に就いた。
熱海に到着した九月五日から数えると、実に二月にわたる逗留になった。
駕籠の簾窓から富士の威容を眺めつつ、秀次の脳裏に様々な思いが去来した。
──思えば、箸の上げ下げさえ己の勝手にはできない半生だったな。
秀次の追憶は少年時代にまでさかのぼっていった。
秀吉によって宮部継潤の養子とされた秀次だが、浅井家が滅んでしまえば、継潤の養子になっている必要はない。子のない秀吉には、手駒が少ないのだ。
継潤の養子となって四年目の天正二年(一五七四)初頭、秀次は継潤との養子縁組を解消させられ、秀吉の許に戻された。
このことは継潤にとっても寝耳に水だったらしく、「それがしに、何か手落ちがありましたか」と問うていたが、使者は「上意に候」と言うだけだった。
秀次は、その日のうちに秀吉の本拠の長浜城に連れていかれた。それでも実父と実母の許に戻れるうれしさに、七歳になる秀次の心はわき立った。
長浜城に入ると、金襴の刺繡の施された豪奢な装束で現れた秀吉は、「ようやった」と秀次を褒め上げ、「これからは、この城で父母と暮らせ」と言ってくれた。
これにより秀次は、木下吉房と名乗るようになっていた父弥助の屋敷に引き取られた。
天正二年から三年にかけて、秀吉の主の信長は、伊勢長島一揆との戦い、長篠合戦、越前一向一揆との戦いなどに勝利し、天下人への地歩を固めていった。秀吉はその手足となり、大車輪の活躍を見せていた。
少年秀次は、幾度となく長浜城を出征していく叔父の姿を見送った。見送りの列の中に秀次の姿を見つけると、決まって叔父は長い隊列を止めて馬を下り、秀次の許へ駆け付けるや、「土産を楽しみにしていろ」と言い、その猿のように小さな手で、若衆髷に髱を出した秀次の頭を撫でてくれた。
そうしたことが繰り返され、長浜での生活に慣れてきた天正九年(一五八一)、駆けるように戻ってきた秀吉は、秀次を呼び出すと、「阿波に行って大名になれ」と一方的に告げてきた。
たいていのことに驚かなくなっていた秀次だが、これには驚いた。いまだ元服前の十四歳で、何の武功も挙げていない己が、大名になれるというのが不思議でならない。
話をよく聞くと、三好笑巌入道康長が織田家の傘下に入ったので、人質同然の養子を出すよう信長から命じられたというのだ。
三好康長は三好三人衆や松永久秀と共に信長に抵抗した一人だが、天正三年、信長に降伏し、その後、四国攻略作戦の嚮導役のような立場に就いていた。
そこには、土佐の長宗我部元親の勢いに押された康長が信長に助けを求め、信長が秀吉に支援を命じたという経緯がある。
秀次に否やはない。
三好孫七郎信吉という新たな名を与えられた秀次は、阿波に行くことになる。
>>第4回へ
ご購入&冒頭の試し読みはこちら▶伊東潤『家康謀殺』
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。
こちらもcheck▷悪魔の唄、ここに誕生――【『家康謀殺』刊行記念対談 伊東潤×金属恵比須】歴史小説家とロック・バンドの異色コラボ第二弾!