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試し読み

【伊東潤「上意に候」全文公開!②】秀吉の甥・豊臣秀次の悲運とは。最注目の合戦連作集『家康謀殺』より

桶狭間合戦、関ヶ原合戦、大坂の陣など、戦国時代の合戦や主要事件を網羅した、著者の集大成的短編集『家康謀殺』(著・伊東潤)より、「上意に候」を特別公開!

前回のあらすじ:秀吉の「上意」に翻弄されてきた、甥・秀次。自らの人生を歩むため、関白職を辞することに思いを巡らす秀次だったが……。

 
 武士となって立身した母の弟の藤吉郎とうきちろうが、弥助を家臣にしたいとやってきたのは、秀次が生まれる四年ほど前の永禄七年(一五六四)のことだった。弥助は百姓のかたわら農耕馬を何頭か飼い、馬借ばしゃくのようなことをやっていたが、藤吉郎こと秀吉から請われ、その家臣にされた。もっともその時、秀吉に必要だったのは、父ではなく馬の方だったらしい。
 これにより、家族を連れて尾張国知多郡大高村に移り住んだ父は、秀吉が出陣する度に、馬を引いて従うようになる。そして永禄十一年(一五六八)、秀次が生まれた。
 記憶にある秀吉は、秀次相手によく遊んでくれる優しい叔父だった。来訪する度に、珍しい菓子や飴、時には武者や馬の人形などの土産を持ってきてくれるので、叔父が来ると聞いた日は、朝からそわそわしていた。
 物心が付き始めた四歳の時、いつものように叔父がやってくると、秀次を膝の上に乗せて父母と話し始めた。
 最初は和気藹々としていたのだが、途中から父母は、真剣な顔で秀吉の申し出を聞くようになった。当の秀吉はいつものように陽気に話すので、最初は何の話か分からなかった。しかし自分を父母から引き離し、別の家に連れていくといった話だと分かってきた。
 途中で母から「外にお行き」と言われたので、それに従ったが、土壁にうがたれた窓から漏れる会話を、秀次は聞いていた。初め父母は「長男だから」と言って渋っていたが、秀吉は巧みに利点を説き、最後には納得させた。
 数日後、迎えの武士たちが現れると、母に抱き付いて嫌がる秀次を引き剝がし、無理やり駕籠かごに乗せた。その時、武士の一人が「これも上意にそうろう。神妙に従うべし」と言ったのを、今でも覚えている。爾来じらい、秀次は「上意には逆らえない」と思い込むようになった。
 かくして元亀二年(一五七一)、秀次は近江おうみ国人・宮部みやべ継潤けいじゅんの養子となった。
 後に聞いた話によると、継潤があるじの浅井長政を裏切る際、秀吉に求めたのが証人、すなわち人質だった。子のいない秀吉は、姉の子を人質にするしかなかったのだ。
 結局、継潤の寝返りが命取りになり、浅井氏は滅んだ。浅井攻めの総指揮官となっていた秀吉は、これを契機に出頭のきざばしを上り始める。
 信長から北近江三郡を賜った秀吉は、織田家中で初の大名となった。養父の継潤も三千石を賜り、秀吉の旗本として遇されるようになる。
 秀次も突然、美しい着物を着せられ、多くの者たちにかしずかれる身になった。
 それがいかに空しいことか、今の秀次にはよく分かる。
 湯溜めから立ち上がると、熱海の海が一望にできた。
 海はいでおり、沖では数そうの漁船がのんびりと漁をしている。こうした平穏な日々こそ人には最も大切だと、秀次は知っていた。
 ──そろそろ出るか。
 秀次がそう思った時、小姓の一人が来客を告げてきた。

  二


 その男は、秀次が投宿している代官屋敷で、かにのように這いつくばっていた。肩幅があり、背筋が発達しているせいか、平伏すると蟹のように見える。
左衛門さえもんか、久しぶりだな」
「こちらこそ、ご無沙汰いたしておりました」
 戦場錆せんじょうさびの利いたしゃがれ声が、秀次を心理的に圧迫する。
 ──かつてこの男に、わしは殺されかけたのだな。
 味方どうしとなった今は、それも笑い話の一つなのだが、酒井さかい左衛門ざえもんの尉忠次じょうただつぐのような武辺者ぶへんものが放つ殺気を前にすると、秀次は気後れする。
「構わぬ。おもてを上げい」
 忠次が、そのしわ深い面をゆっくりと上げた。
 この時、忠次はよわい六十七に達している。かつて信長の下、姉川や長篠などで共に戦ってきた豊臣家と徳川家だったが、信長横死後、敵対することになる。しかし秀吉の政治力に屈した家康は、臣従という形で和睦し、今は豊臣家を支える宿老の一人となっていた。
「お顔色が、随分とよろしいようですな」
「うむ。熱海の湯のおかげか、こちらに来てから、体調がすこぶるよい」
「それは何より。実はそれがしも、ここのところ古傷が痛みまして、しばし湯治しようと思うていたところ、関白殿下が熱海までおいでになられていると聞き、これ幸いとばかりにまかり越しました」
「何だ、左衛門も湯治か」
「はい」と答えて忠次は相好を崩したが、その目は笑っていない。
 ──この狐め。
 武辺者として名高い忠次だが、徳川家康の片腕として権謀術数にも長けている。
「それでは、此度の来訪は正式のものではないのだな」
「はい。この左衛門、すでに隠居した身。政務からは一切、身を引いております」
「それでは、湯につかりながら語らうか」
「お心のままに」
 少し体が冷えてきたので、秀次はもう一度、湯に入ろうと思っていた。忠次は油断ならない男だが、隠居の身でもあり、話を聞けばためになることもあるかと思ったのだ。

 秀次が湯に入ると、遠慮がちに忠次も身を入れてきた。かつての武辺者も隠居して暖衣飽食するようになると、肉体は弛緩してくるものだが、どういうわけか忠次は筋骨隆々としている。
「久しぶりに湯につかりましたが、実によきものですな」
「うむ。わしの持病の片息かたいき(喘息)も、これで退散したような気がする」
 当初、二人は共通の知人の消息や養生(健康)の話などをしていたが、話題は自然、秀吉の男子に向かった。
 忠次がしみじみと言う。
「これで天下も安泰。それがしも心残りなくあの世に行けます」
「何を言っておる。そなたのように頑健な体軀の持ち主が、そう容易にあの世に召されるものか」
「ははは、これはしたり。それを忘れておりました。いずれにせよ、若君が無事に育ってくれればよいのですが」
 秀吉は、第一子の鶴松つるまつを三歳で亡くしている。その悲しみは深く、それを癒すために唐入りを断行したという説さえ囁かれていた。
「此度のお子だけは、丈夫に育ってもらいたいものよ」
「関白殿下は、それを本心から思っておいでか」
 突然、空気が張り詰めた。
「いやいや、戯れ言でござるよ。ただ太閤殿下は、己の手で勝ち取った天下を、血を分けた子に譲りたいとお思いになられるのではないかと思いましてな」
「当然のことだ」
「さすれば、そういう向きに、皆で持っていかねばなりませぬな」
 忠次の声音が険しいものに変わった。やはり湯につかりに来たというのは噓で、別の目的があったのだ。

>>第3回



ご購入&冒頭の試し読みはこちら▶伊東潤『家康謀殺』
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こちらもcheck▷悪魔の唄、ここに誕生――【『家康謀殺』刊行記念対談 伊東潤×金属恵比須】歴史小説家とロック・バンドの異色コラボ第二弾!


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