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特集

怪談界で最注目の作家、川奈まり子さんが角川ホラー文庫初登場! 新作『東京をんな語り』に収録できなかった掌編を特別公開!

『迷家奇譚』や『出没地帯』など、ルポルタージュのテクニックを活かした怪談実話作品を次々発表している川奈さんの最新作は、書き下ろしの幻想ルポ怪談『東京をんな語り』。怪談作家としての自己の原点を辿りながら、虚実ないまぜになった生々しい話が、因縁の歴史を生きた女たちの口を借りて語られます。今回は本作の発売にあわせ、都合上、惜しくも本には収録できなかった怪異譚を特別に公開いたします。話の舞台は港区青山。本編にも登場する“ある人物”が、著者のもとに揺らめき立つ陽炎のように現れます――。


川奈まり子『東京をんな語り』


「呼び寄せ」

 昨秋の初め頃のことだ。緩くクーラーを掛けていても、寝ているうちに温い汗の膜が全身を気味悪く覆ってきて、あまりの不快さに目が覚めてしまった。
 夫は留守で、息子は留学中、自宅マンションには私しかおらず、静かな深夜だ。横たわっていると、この建物の真下を走る千代田線の遠い地響きを感じた。まだ電車が運行している時刻なのだ。
 スマホの時計を見ると午後十一時だった。前の日に徹夜してしまったため、宵の口からベッドに入った。そのせいか、いったん目覚めると、もう少しも眠くなかった。
 徹夜した理由は、深夜から明け方にかけて生配信をする怪談番組に出演したせいだ。
 私はその番組で、体験者から取材したばかりの、聞いた人のところへお化けが現れるかもしれないという話を披露した。
 それは、七、八歳の男の子の姿で白いランニングシャツを着ているお化けが登場する怪談なのだが、この男の子が、これを聞いた人のところに実際に出たことがあるというのだった。
 嘘か実か。体験者さんを信じて期待していたが、まだ私のもとには現れていなかった。
 ふいに喉の渇きを覚え、台所へ行った。
 寝室、廊下、台所と、電気を点けながら移動する。
 このマンションの台所は独立した部屋になっていて、食事をするリビングダイニングとの間に壁がある。そこに開いたカウンター付きの配膳口から、食器や料理の出し入れをするのだ。
 台所が明るむと、配膳口の向こうの闇が矩形に切り取られた。
 そのとき、カチャリ……と、玄関の方とリビングダイニングを隔てるドアが開く音がした。
 配膳口から顔を突き出してそちらを見ると、ドアは確かに薄く開いていた。
 正常化バイアスが働き、気圧のせいだと思おうとした。
 気を取り直して、冷蔵庫の扉を開けた。ミネラルウォーターの二リットル入りペットボトルを取り出して、カウンターに置こうとした途端、細い糸のような軋む音を立てながら、視界の端でドアがゆっくりと大きく動いた。
 今度は明らかに人の気配が感じられた。
 たぶん朝帰りになる、と言って出掛けた夫が、予定を早めて帰宅したのに違いなかった。
「お帰り。早かったね」
 ドアの方へ声を投げるまでの、その間にも、質量のある男の肉体が床を踏んで歩いてくるミシッミシッという足音や微かな衣擦れが続いた。
 しかし、なぜ電気を点けないのだろう。
 リビングダイニングには暗闇が澱んでいる。姿を見せず、男の気配だけが接近してくる。
 背中に水を浴びせられたように感じて総毛だった直後、廊下の床がミシリッと大きく鳴った。
 思わずミネラルウォーターのペットボトルを床に落とした。足もとにたちまち水たまりが出来る。
 すると、おかしなもので、床を拭かなきゃ、という本能的な衝動が恐怖を圧倒した。咄嗟にペットボトルを起こすと、ステンレスの流し台の端に掛けてあったタオルを取った。
 ――床に屈み、廊下の方へ頭を向けて水たまりを拭きだしたのと同時に、目の前を黒い男の足が勢いよく通りすぎた。
 明るい照明の下を、喪服のような黒いスーツを着て薄手の黒いビジネスソックスを履いた男が、急ぎ足で歩き去ったのだ。
 一瞬のことであり、こちらは床に両手両膝をついていたから、顔までは見えなかった。
 服装が違うから夫ではない。だいいち、体格がまったく違う。ずっと痩せていたし、なんとなく、もっと年老いた人のようでもあった。
 恐る恐る廊下に出てみたが、誰もいなかった。
 ひょっとすると侵入者かもしれないと思い、家じゅう隈なく点検したけれど、そんな形跡もない。玄関の鍵も掛かっていた。
 消えてしまったとしか考えられなかった。

 つい先日も、また、聞けばお化けが出る話を別の体験者から伺った。
 こんどは、両手首から先が無い女の子の幽霊が現れるかもしれないということだった。
 正午過ぎにインタビューを終えると、朝食もまだだった私は、空腹を抱えて近所の喫茶店へ向かった。
 南青山四丁目の我が家から目当ての喫茶店までは、徒歩で十分少々の距離だ。二月初旬の冷たく澄んだ空の下を、卵とチーズをふんだんに使った重めのキッシュと大きいカップになみなみと注がれたミルクティーを思い浮かべながら急ぎ足で向かっていると、その店の二十メートルほど手前で、紫色の道行を着た和装の女に呼びとめられた。
 街中で着物は目立つから、もっと手前で気がつきそうなものだが、「すみません」と細い声を掛けられるまで、まるで視界に入らなかった。
「道をお尋ねしたいのですが」
 女の顔の下半分はマスクに隠れていたが、声の感じから推して、そう若くない。三、四十代だろう。くっきりした二重瞼の双眸と三日月形の眉が美しい人だ。しかし、肌が粉を吹いたように乾いて蒼白く、病的な痩せ方をしている。高々と結いあげた黒髪だけが、過剰なまでに豊かだ。
「私も詳しくないんですけど、どちらへ?」
「斎藤茂吉のドウマサンボウに行きたいのですが」
「ドウマサンボウ? この近くなんですか? ごめんなさい、知りません」
「いえ、いいんです。ありがとうございました」
 私とは逆方向に彼女は去った。別れて二、三歩行きかけてから、見覚えがある、と閃いて振り返ったが、もういなかった。現れたときと同様に、忽然と消えたようだった。
 その後、喫茶店で食事をしながら、スマホで彼女が探していた場所を検索することを思いついた。
 斎藤茂吉の、と言っていた。青山霊園にある茂吉の墓なら何度か訪ねた。
 そうそう、それに『楡家の人びと』の舞台はこの辺のはず。中学生の頃に夢中で読んだものだ。母が北杜夫のファンだったから、家にハードカバーの初版本があったのだ。
 懐かしいものの手がかりを掴んだ気がして、うきうきしながらスマホで「ドウマサンボウ」を検索すると、童馬山房跡の解説が幾つかヒットした。
 そこは茂吉の養父である斎藤紀一が明治四十年に青山脳病院を建てた場所だった。大正十三年に青山脳病院は全焼し、小規模な診療所と斎藤家の住居が跡地に建てられて、茂吉の雅号・童馬に因んで童馬山房と称された。それも山手大空襲の折に灰燼と化し、現在は歌碑を残すのみだという。
 なんと、うちと同じ四丁目なのだった。
 喫茶店を出ると、私は真っ直ぐに童馬山房跡を目指した。
 スマホのナビを頼りに行くと、出入り口に楠の大木がある瀟洒なマンションに辿り着いた。その敷地を囲む植栽の影に、四角い歌碑を発見した。
 童馬山房跡とある。さらに、「あかあかと 一本の道 通りたり 霊剋る我が 命なりけり」という茂吉の代表的な歌が刻まれていた。
 ――その晩、彼女が夢に現れた。
 夢の中ではマスクを外していて、今回は誰だかすぐにわかった。
「キヨミさん」と私は叔母に呼びかけた。
 このときは、キヨミさんが精神科病棟のベッドで昏々と眠りつづけている老人だという事実と、病気が酷くなる直前の三十代後半の姿で現れたことに、何ら矛盾を覚えなかった。
 数十年前の姿かたちに扮したキヨミさんは、ベッドに寝ている私にしなしなと近づくと、薄笑いを浮かべた。
「呼ばれたから来たのよ。最近、私のことをしきりと考えていたでしょう?」
 嘲笑を含んだ声でそう指摘されて、私はうろたえた。
「そんなことない。呼んでない」
「嘘をおっしゃい。許さないから」
 最後に私をきつく睨みつけると、キヨミさんは摘ままれた灯芯のようにシュッと消えた。
 明くる日、仕事の合間に調べて、キヨミさんが若い頃に掛かっていた世田谷区の病院と青山脳病院とに深い関係があることを知り、運命を感じると共に、昨日の人は、やっぱりキヨミさんの魂が形を成したものなんじゃないかしらと思うに至った。
 もしかすると、聞くと幽霊を出現させる怪談というのは、聞き手に所縁のある霊を呼び寄せるものなのではなかろうか。
 ちなみに、黒いスーツ姿の男は、我が家の大家さんに違いないと私の夫は主張している。
 夫は、私が黒い男を目撃した翌々日に、年輩の男の咳払いをリビングダイニングで聞いたそうだ。
 大家さんとは、十数年前に賃貸契約をした際に一度だけお会いしたきりだ。その後は、ずっと不動産屋に家賃を振り込んでいて交渉していない。
 だから大家さんが今どうしているか私たちは知らないのだが、会ったときで九十歳近かった。ご存命なら百歳をずいぶん超えているので、夫の言うとおりかもしれない。
 いつかは私も、生前に縁があった人や場所を訪ねてゆくようになるのだろう。
 彼岸と此岸が解け合うときに生じる怪異は、怖いけれども、甘やかで優しいと私は思う。

『東京をんな語り』書誌情報



著者 川奈 まり子
定価: 748円(本体680円+税)


東京の女たちが、私に憑依する――
青山霊園で白い彼岸花を見た奇譚蒐集家の私は、その暗示的な花言葉を引きずるようにして谷中に向かう。「乗せた女性が忽然と消えた話」で有名な青山タクシー幽霊の足取りを辿るためだ。それを発端に、怪異の糸に導かれるように都内各所を巡回。行く先々で、夜嵐おきぬ、花井お梅、妲己お百ら、因縁の歴史を生きた女たちの魂と同一化していく……。生々しく語られる業深い話の数々。虚実が交錯する、書き下ろし幻想ルポ怪談!
https://www.kadokawa.co.jp/product/322009000311/

著者プロフィール

川奈まり子(かわな まりこ)
東京都生まれ。作家。『迷家奇譚』『少女奇譚』『少年奇譚』(いずれも晶文社)、『実話怪談 でる場所』(河出文庫)、「一〇八怪談」シリーズ・「実話奇譚」シリーズ(竹書房怪談文庫)など、取材に基づく怪談実話の著書多数。日本推理作家協会会員。


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