その夜、冷蔵庫におさまりながら、広美はいろいろ考えた。
これまでにないくらい、考えた。
人生初の、身の危険。
こんなにも悩ましい選択があるのかと、身もだえしそうだった。
そんなタイトルってある? と思いながら表題作を読み始めた――なるほど、これは確かに圧迫だ。素敵、としか言いようがない圧迫だ。
ある執着を持った、それ以外は極めて平凡な女性が自分の欲望に気づいてゆく過程が語られる。最初は本当に普通の、あったあった、自分にもそういうの、子供の時に、と思えるようなお気に入りの行為。だが、そこからのエスカレートが尋常ではない。それ、ちょっとどうなの、やめといたほうが……いやいやいやそれはやばい、やばいって! とページの外から叫んでしまう展開になってくる。そして最後に、彼女の本当の望みが明らかになって。
それは、誰がどう考えても破滅への最短距離なのだ。でも、途中から見守る我々のテンションもおかしくなる。心配を通り越した「いいぞもっとやれ」から、全力のスタンディングオベーションまではあっという間。最後の1行を読み終わったとき、心地よい疲労と不思議なやりきった感が全身を包んでいる。こんな読書体験はちょっとない。
続く5本の短編でも、描かれるのは破滅への予感と、疾走と、高揚だ。きっかけは手の届かない恋だったり、自分なりに慈しんできた息子からの恐喝だったり、つい拾ってしまった謎の物体だったり、若きボクサーの快進撃だったり、はたまた、我々のよく知る、あのウイルス禍の日々だったり。終わりはある1本を除いて、ハートウォーミングでもハッピー(主人公たちの主観はともかく)でもない。なのに、この高揚感はなんなのだろう。
とりかえしのつかないことをしたい。もう戻れないところに行きたい。
たぶん誰にでもあるその衝動に、呉勝浩の文章は揺さぶりをかける。始まりはそっと、あるかないかの揺れが、いつのまにか大きなロッキングとなってこちらを包み込み、翻弄し、やがてその揺さぶりは、我々自身の望みとひとつになる。止まらない、止めたくない。
ビートルズのあの怪作「Why Don't We Do It In The Road ?」に関し、ポール・マッカートニーは「自由に関する原始的な声明」とコメントしたという。『素敵な圧迫』が発しているメッセージも、もしかしたらそれなのかもしれないと思った。
我々には、破滅する権利がある、自由がある、破滅の後に来るものがなんなのか、誰も知らない。でもそこには確実に、今日とは違う明日がある。この孤独を、この腐敗を、この閉塞を打ち破れるものは、呉勝浩が小説の形で放つ破滅のエネルギーだけなのかもしれない。ならば、
望むところだ。
私見だが、エンタテインメントの本質は「誘拐」だと思っている。小説に魅了されて、さらわれて、読み終わったら、二度と前の自分には戻れない。魂のポイント・オブ・ノー・リターンを軽々と越えさせてしまう、この短編集こそが最高のエンタテインメントだ。
(カドブン季節労働者K)
書籍紹介
素敵な圧迫
著者 呉 勝浩
発売日:2023年08月30日
『爆弾』『スワン』の気鋭が放つ、超弩級のミステリ短編集
「ぴったりくる隙間」を追い求める広美は、ひとりの男に目を奪われた。あの男に抱きしめられたなら、どんなに気持ちいいだろう。広美の執着は加速し、男の人生を蝕んでいく――(「素敵な圧迫」)。
交番巡査のモルオは落書き事件の対応に迫られていた。誰が何の目的で、商店街のあちこちに「V」の文字を残したのか。落書きをきっかけに、コロナで閉塞した町の人々が熱に浮かされはじめる――(「Vに捧げる行進」)。
ほか全6編を収録。
物語に翻弄される快感。胸を貫くカタルシス。
文学性を併せ持つ、珠玉のミステリ短編集。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322303000843/
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