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特集

宗教とカルトはどう見分ける? カルト教団脱会の信者の支援をはじめ、多様な心の問題を抱えるAYA世代の“いのちのケア”に取り組む仏教研究者・神 仁さんに学ぶ

安倍元首相の銃撃事件に端を発し、旧統一教会と政治との問題が取りざたされています。その宗教はカルトか否か。宗教が身近とはいえない私たちはどう見分ければよいのでしょうか。長年、カルト問題に取り組み、臨床仏教師として病に苦しむ患者さんの実践的なケアもされている神仁さんに寄稿いただきました。

宗教の目利きになろう

寄稿者
じんひとし(全国青少年教化協議会常任理事)

ある若者に自己啓発セミナー参加の相談をされた

 安倍晋三元総理大臣の銃撃事件依頼、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の活動に関するさまざまな議論がメディア上で報道されています。私は報道の第一報を耳にしたとき、これは政治的なテロではないということを直感しました。政治的なテロよりも、むしろ大阪の池田小学校事件、東京秋葉原の無差別殺傷事件に共通する、孤独・孤立による事件ではないかと受け止めたのです。
 さて、今から10年以上も前のこと、ある20代の女性から「これどう思います?」と言って自己啓発セミナーと思われる宣伝用のリーフレットを目の前に差し出されました。差し出されたリーフレットをよく見てみると、それはアメリカをはじめ世界各国で広まっている科学性を重視する擬似宗教団体のものであることに気づきました。あとになって分かるのですが、その団体はアメリカやヨーロッパでは、カルト組織として認識されており、とくに金銭的な面で社会問題化していました。
 彼女は、街を歩いていたら呼び止められ、資料をもとに簡単な説明を受けて、センターに「一度話を聞きに来てくれないか」と誘われたと私に告げました。その時点では、私自身、充分な知識を持ってはいなかったものの、その団体に対してある程度の危険性を感じていたので、その旨を伝えた上で、「ただ、どうしても興味があるのであれば、一度行って話を聞いてみるのも良いかもしれない。しかし、深入りしてはいけないよ」とアドヴァイスをしました。
 彼女はその後、1年近くにわたってその団体に入り込むようになり、結果、100万円単位の受講料なるものを支払わされるはめになります。いま考えてみれば、その私の言葉が迷っている彼女の肩を押すきっかけになってしまったと思い、軽率なことであったと反省しています。
 しかし、言い訳めいて聞こえるかもしれませんが、そのような言葉を発した私にはいくつかの判断材料がありました。ひとつには、彼女の精神世界に対する関心の深さをふまえて、仮に私が強く止めたとしても一度興味を持ってしまった以上、いつか行くだろうと思ったからです。
 もうひとつは、彼女のスピリチュアリティー(霊性・いのちの力)を信じていたからです。日頃の彼女との精神世界に関する話の中から、ある程度の見極めの力を持っていると思っていましたし、“ほんもの”と“にせもの”を見分ける力を体験の中から培ってほしいという願いもありました。
 結果として多額の金銭を巻き上げられることになってしまった以上、私に責任があることは否定しません。しかし、痛い目を見たものの、その経験の中で絆が深まって良き伴侶を迎え、立派な妻としてまた母としていのちを謳歌している現在の姿を見ると、やはり、私が信じていた通りであったと、いまでもどこかで思っています。
 ちなみに、払い込んでしまった金額の多くは、消費者問題を専門とする弁護士を介して返金されました。このことは、宗教者としてカルトや悪質な自己啓発セミナーの問題にかかわる私自身の責任について深く考えさせられる出来事でありました。

なぜ若者は擬似宗教に魅かれるのか

 さて、なぜ人は、とくに若い人たちはこのように傍目には危なっかしい綱渡りをしなければならないのでしょうか?
 それは、家族から離れて自立した自分を確立するまでの思春期最後のアイデンティティー(自己同一性)の構築作業ではないかと思います。成人になるために、かつてとは形を変えた通過儀礼を経験した、と考えることもできるかもしれません。この通過儀礼をどのように経験するかは人それぞれでしょうが、経験しないままに時を過ごしてしまうと、いま社会問題となっている「自死」「ひきこもり」「摂食障害」「適応障害」などになってしまう可能性があるように思います。
 つまり、成人としてのアイデンティティー確立途上にある10代後半から20代の若者は、宗教的な世界に魅かれやすい、ということになります。カルト的な教団や悪質な自己啓発セミナーは、まさにその年代の若者をターゲットとして勧誘を盛んに行っているのです。
 ただ、ここで彼らがターゲットにするもうひとつのグループがあることも付け加えておかねばなりません。
 それは、中高年のとくに女性です。なかでも病を患っている人や病を患っている家族を持つ人、子どもの問題や家庭不和で悩んでいる人たちが狙われやすいといえましょう。ここにも実はアイデンティティーの問題が関係してきます。身体的な健康や安定した家族という自己のアイデンティティーの拠り所となっているもののぐらつきによって、個人の精神状態はとても不安定なものとなるのです。
 その心のすきまに、カルトをはじめとした擬似宗教などが入りこもうとします。現在、連日ニュースとなっている旧統一教会をはじめ、教祖や管長が逮捕された法の華三法行や本覚寺・明覚寺などのように、霊障などを理由にお布施と称して多額の現金を脅し取る擬似宗教があとを絶たない理由なのです。

判断材料としてのキーワード

 私は宗教とは「真の幸福を人にもたらすもの」だと信じています。とくに「物質的な条件とは関わりなく」人に幸福感をもたらしてくれるものでなければなりません。そこには他と比べる相対的な世間の価値観ではなく、絶対的な出世間の価値観が存在します。
 そのような観点を踏まえて、まず、宗教と擬似宗教の違いついて判断する材料についてお話してみたいと思います。
 まず、判断材料としてのキーワードをいくつか挙げてみましょう。
「神秘体験」「金銭」「権力」「恐怖心」「排他性」「孤立」「依存」です。
 これらのキーワードは、カルト性の高い教団や組織に共通する特徴といってもよいでしょう。以下、オウム真理教などの事例を挙げながら一つずつ説明していくことにします。

神秘体験

 神秘体験を重視する宗教は多くあります。私が学生時代にお世話になった比叡山延暦寺では、いまでも見仏(観仏)のための修行が行われています。仏を見ること、阿弥陀仏を見ることが実際の修行の深まりの一つの尺度とされているのです。
 仏を見たというある高僧に「その仏は幻影ではないのですか」と聞いたことがあります。すると高僧からは「幻影かもしれない。しかしその幻影を見ることが大切なのだ」という答えが返ってきました。見仏は長い修行の一つの通過点ということでしょう。
 ところが、多くの未熟な修行者は、この幻影にとらわれてしまいます。仏を見たことによって自らが悟ったかのような錯覚に陥ってしまうのです。仮にそれが幻影ではなく、真実の仏であったとしても同じことです。そこで慢心が生じた途端に振り出しに戻ってしまいます。いや、振り出しどころかマイナスの世界へまっさかさまということになります。
 オウムの麻原の例がそれを端的に物語っています。麻原は自らの修行の中である一定の神秘体験を経験していたのでしょう。しかし、そこに慢心が生じてしまったがために、独自のヴァジュラヤーナという教えを作り出し、殺人へと突き進むのです。「魔が入る」という言葉がありますが、まさに変性意識の中に魔が宿るのでしょう。
 禅には「仏に会ったら仏を殺せ」という言葉があるようです。空(くう)を説く仏教では、仏さえもが空なる存在である。そして、実際に坐禅の深まりの中で仏に出会うことがよくあったのでしょう。
 私自身も滝行をするなかで神秘体験を経験することがしばしばあります。そのようなとき、体験は体験として受けとめ、叡山の高僧の言葉や禅の言葉を頭に浮かべて、慢心を抱かない様に心の内を整理しています。
 少々長くなってしまいましたが、神秘体験を宗教性の高まりとして絶対視する向きもあるので、あえて長々と説明しました。また、この変性意識下で起こるさまざまな出来事は、しばしばマインドコントロールに利用されます。ここでは詳しく述べませんが、オウムがそうであったように、薬物などを使って一種の神秘体験を経験させることは、人の心や精神をコントロールする上で重要な要素であるということを付け加えておきます。

金銭

 このことについてはあらためて言うまでもないでしょう。人はある一定の環境におかれると、多額の金銭をいとも簡単に差し出してしまいます。マインドコントロールや洗脳技術に長けた者の手にかかってしまえば、さほど疑いもせずに騙されてしまいます。
 多額の金銭を要求する宗教団体と出会ったなら、そこには疑いの視点を持ちましょう。
 そもそも、宗教とは俗世間とは異なった聖なる領域のものであるはずです。あるいは俗を含みつつ超越した存在です。金銭はその俗世間の価値観の象徴で、俗世における欲望の象徴が金銭といえます。それがゆえに、古来仏教では、僧侶は直接手で金銭を受け取ってはならないという戒律があるくらいです。
 オウムでは、出家の際に全財産を寄付させましたし、ステージを上げるために多額の金銭が必要でした。旧統一教会では、霊障を払うといって多額の布施を強要していると報道されています。

権力

 権力もまた俗世間の価値観の象徴です。擬似宗教は自らを権威づけるために政治家をはじめとするさまざまな世間の権威を利用しようとします。時には資金を使って、時には票田を提供することによって……。もし教団の施設の中に、教祖が政治家や有名人と一緒に写っている写真がかかっていたとしたら、擬似宗教の一つである可能性があります。
 そして、彼らは人を利用するばかりでなく、時として自分自身が政治に介入しようと試みます。オウムもまた自らが国会議員選挙に出馬していました。彼らの野望は挫折しましたが、権力に近づこうとする宗教教団は少なくありません。

恐怖心

 恐怖心を煽って人の心を縛り付けるのも彼らの常套手段です。「この教えを信じなければ地獄に落ちる」と脅かしてみたり、「貴方の祖先が非業の死を遂げた。しっかり供養をしないと祟りがある」などと人の恐怖心をかき立てて、人の心を呪縛しようと試みます。そして、時には終末論を強調します。アメリカで教祖や信者の大量自殺事件を起こした教団の多くがこの終末論を掲げていました。オウムもハルマゲドンをとなえ、その結果、自らがハルマゲドンを引き起こすためにサリンやVXガスによる大量殺人をするに到りました。

排他性

 排他性とは、「自分たちが一番えらい」「自分たちの信ずる教えが最高のものである」と標榜し、他の宗教を劣ったものだと声高に主張することです。私自身は宗教と呼ばれるすべてのものに平等に接しているつもりですが、自分たちの信じる教えが唯一絶対の真理であると説く教団・組織に対しては、嫌悪感と欺瞞性を強く感じてしまいます。
 排他性は権威性と密接に結びつき、教団外の人間のみならず教団内の人間に対しても一種のヒエラルキーを適用するようになります。そこにはピラミッド型の権威構造が必然的に生まれることになり、それはすなわち世俗の社会構造と何ら変わりはありません。

孤立

 排他性の作用の結果として、その教団に属する人々は、自分たちの組織の中でしか生きることができなくなります。組織の内を善と見なし、組織の外を悪と見なす価値観を持っているわけですから、当然まわりの人間から相手にされなくなっていきます。
 伝統的な宗教の実践の中では、坐禅や瞑想、ヨーガのように人里離れた山林の中でひとり修行に励む場合があります。このことをもって一般の方は、修行者を世捨て人のように思われるかもしれませんが、事実はまったく正反対であるとお伝えしておきます。誤解を恐れずに申し上げるならば、これらの修行の目的は、個と他の繋がりを精神の深いレヴェルで確認する作業でもあるのです。

依存

 外の世界から孤立してしまった人間は、教祖や教団へ依存していきます。人はよく社会的な動物だといわれます。何らかの社会形成を必要とし、その中でしか基本的には生きてはいけません。彼らは、恐怖心や排他性など、こころの中に楔を打ち込まれ、知らず知らずに依存度を高めてしまいます。
「自灯明、法灯明」すなわち「自らを灯とし、法を灯とせよ」と語ったのは釈尊ですが、カルトなどの悪質な擬似宗教では、あくまでも「教祖灯明、教団灯明」なのです。いかなる場合でも教祖の言うことが真理であり、同時に組織の権威を強調します。そこには、教祖を頂点としたピラミッド構造の組織体系が存在します。
 さらに言うならば、軍事組織の構造や体質にかなり近いものがあります。オウムを含めた国内外のカルト教団が、末期には仮想の敵を想定し、武装化していったことも、ある意味では当然のことだったのでしょう。
 宗教とは「真の幸福を人にもたらすもの」だと先に述べました。それは、深い精神レヴェルにおける「自己の確立」であり「自立の道」でもあります。繰り返し申し上げますが、これは孤立することとは明らかに異なります。真理(仏や神)に包まれた自己の生命を観ずるとき、そこには禅で言う「自他一如」の世界が現れ出てくるのです。

 ここに挙げたキーワードは、あくまでも参考でしかありませんが、宗教を見分けるためにある程度役立つものではないかと思います。自分が信じている宗教や所属する組織が、これらの項目に照らし合わせて、どれほど当てはまるかよく考えていただければ、その宗教の健全性がそれなりに明らかになるでしょう。

宗教という枠組みを超えて

 しかし、ここであらためてよく考えてみたいと思います。よく言われるように、百人の宗教学者がいれば百通りの宗教の定義があるとされます。このことはつまり、その人間が一端信じてしまえばそれはすべて宗教だということにもなります。だからこそ話がややこしくなります。ときには人を殺すことも、宗教の一部として包含されてしまうことさえあるからです。人を殺すような宗教は本当の宗教ではないと言ったところで、信じてしまった人間にとって、その時点ではあまり意味をなしません。善悪を判断する基準は、あくまでも人間の意思によって作り出された相対的なものですから、当然、時代や社会環境によって異なってきます。
 誤解を恐れずに申し上げるならば、「人はそろそろ“宗教という形”を超えなければいけない」というのが、私の本音です。宗教という手垢のついた枠組みではなく、もっともっと個人の精神性や霊性に焦点を当てていくべきだと思うのです。それは、世界各地において、未だに宗教を口実とした戦争という大量殺人が行われている世相を見るにつけ、思いがますます深まってきます。
 私は仏教徒を自負している人間ではありますが、実は、仏の教え、釈尊の教えをなるべく宗教としてとらえないようにしています。では、宗教でなければ何なのでしょうか? 私にとって仏教は「より良く生きるための道」です。イエス・キリストも「より良く生きるための道」を説いたのだと理解しています。それは同時に「より良く死ぬための道」でもあります。
 これらの「道」は誰もが追体験可能なものといえましょう。再現性というその性質において、自然科学とも共通性があります。志を持つ誰もが、貧富や性別、年齢の如何(いかん)を問わずに追体験できるもの、真の幸福、悟りや救いへと導かれる道です。お布施や献金の額の多寡、そして、教祖の覚えの良し悪しに影響されるものではないのです。

プロフィール



全国青少年教化協議会常任理事 
じんひとし


1961年生まれ。臨床仏教研究所研究主幹、公益財団法人全国青少年教化協議会常任理事。公益財団法人国際宗教研究所顧問。東京慈恵会医科大学附属病院SCW。大正大学、駒澤大学で仏教学を専攻。87年日印政府文化交流プログラムによりインド国立バナーラス・ヒンドゥー大大学院へ留学。帰国後の90年代より、日本脱カルト協会、日本弁護士連合会消費者問題対策委員会等と協働し、オウム真理教をはじめとするカルト教団の脱会信者やご家族の心理的ケアにあたる。田中雅博著『軽やかに余命を生きる』にて、対談を行う。著書に『仏教教育の実践』(国書刊行会)、『ブッダからガンディーへ』(しごとの自習室・Audible版)、『「臨床仏教」入門』(白馬社・共著)、『家族再生』(佼成出版社・共著)などがある。


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