二〇一九年に、本作で第三十二回小説すばる新人賞を受賞した佐藤雫さん。選考委員も「新人離れした豪腕」と絶賛の洗練された筆致で、源実朝の生涯を和歌とともにみずみずしく描き切った本作は、妻・信子との恋の物語としても高く評価されている。著者の佐藤さんにお話をうかがった。
――今回は鎌倉時代の源実朝の物語ですが、どのようなところから着想を得たのでしょうか?
佐藤:三十代になって仕事や生き方のことで悩み始めた時に、高校の頃から好きだった、古典や歴史に立ち返ってみようと思ったのが今回の作品を書き始めたきっかけです。平安から鎌倉時代の古典の世界観、中でも和歌に魅力を感じていました。特に源実朝の和歌が好きで、そこから実朝に関する書籍を読んでいるうちに、私の中の実朝が動き出してきて、彼の人生を書きたいという思いが膨らんで筆を執りました。長編を書き切れたのは、もともと読書が好きで中高生の頃からずっと小説を読んでいたので、その頃の蓄積のおかげかもしれません。
――読んできた本はやはり時代小説が多かったのでしょうか?
佐藤:現代小説よりは時代小説や歴史小説の方が好きですね。小学校六年生の頃に読んだ荻原規子さんの「勾玉」三部作の大ファンで、それが私の読書の入口だったので、歴史とファンタジーがリンクするような作品が特に好きでした。実は今回の作品の前に、長編の歴史ファンタジーを一作書いたのですが、その時に、書くことで違う世界に行ける楽しさに気付いて、また書いてみたいと思ったんです。
――今回の物語を書くにあたって、どのように史実を調べたり、取材したりなさったのでしょうか?
佐藤:御所の跡地や鶴岡八幡宮、由比ヶ浜など、今回の物語の舞台となるような場所には全て足を運びました。建物自体はなくなっているところもありますが、そこに実朝が存在していたことは揺るぎない事実ですよね。そういう場所に行って「ここに実朝がいて、この空を見ていたんだな」「こんな景色を見ていたのかな」と想像するのが好きで、そこから歴史上の事実と事実の間を埋めるように、物語を膨らませていきました。
――実朝と信子が心を通わせる由比ヶ浜のシーンは特に印象的でした。裏切りや内乱など殺伐とした時代背景だからこそ、物語の中の恋愛要素がより一層切実で、魅力的に引き立ちます。
佐藤:私としては恋愛小説を書いたつもりはなかったのですが、いろいろな方から、実朝と信子の恋愛関係がすごく良かったと言っていただけることが多くて、「これ、恋愛小説だったんだ!」と驚いています(笑)。由比ヶ浜で二人が戯れるシーンも、家の中で考えている時には全然思いつかなかった場面でしたが、実際に行って、海の匂いや波の音、水面の煌めきを感じていると、段々と波打ち際で遊ぶ二人の姿が浮かんできた感じです。もしかしたら、自分が実朝のことを好きな気持ちを信子に投影して書いていたところもあるかもしれません(笑)。
――信子だけでなく、政子や阿波局、水瀬など、女性のキャラクターがそれぞれ個性的で、抱える物語に共感する場面も多くありました。
佐藤:自分が歴史小説を読んでいる時に、女性の心理描写をもっと深く読みたい、と感じることがよくあったので、本作の中では、信子も含め、女性たちが持つ背景の物語や行動の裏にある感情の動きを掘り下げて書こうと心がけていました。主人公の実朝だけでなく、周囲の人たちを誰一人脇役にしないよう大切に書いていく中で、彼女たちの物語も自然と膨らんでいきました。
――最後はやはり哀しい結末も待っています。歴史として動かせない事実を小説の中で書く難しさはあったのでしょうか?
佐藤:実朝が殺されて死んでしまうということは皆が知っている不動の事実ですが、この作品を読んでいくうちに、読者にどんどん実朝のことを好きになっていってもらってからラストシーンを迎える、という風にしたかったんです。そのために実朝の人生のどの場面をピックアップしていくかは迷いましたし、彼がその時何を感じ、どう考えてその決断をしたのか、最後の〝結末〟に至るまでの生き方を一つ一つ丁寧に想像して書いていきたいと思っていました。
――最後に、今後はどのような作品を書いていきたいですか?
佐藤:今は、自分が好きな歴史や古典の世界をもっと書いてみたいと思っています。もともと小説家になりたいと思って書き始めたわけではなく、仕事で悩んだ時期に、気分転換になることを探していたのですが、本作で思いがけぬ賞を頂けたことで、歴史上、あまりスポットライトが当たったことのない実朝のような人にも、作品を通じて興味を持ってくれる読者が一人でも増えたらいいなと思うようになりました。