対談
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『どん底名人』刊行記念破天荒対談 <前編> 「オール1の劣等生が名人になれた理由とは?」
撮影:奥西 淳二 取材・文:桝 由美
囲碁のビッグタイトル「名人」位を四連覇するなど、囲碁界の頂点を極めた偉大な棋士ながら、子どものころの成績は「オール1」。女、酒、ギャンブルに明け暮れた“囲碁界最後の無頼派棋士”がその人生を自ら書き下ろした新刊『どん底名人』が大きな反響を呼んでいる。
「劣等生」だった依田紀基九段は、なぜ囲碁界の頂点を極められたのか? 自らも囲碁をたしなむという教育のスペシャリスト、「花まる学習会」代表の高濱正伸氏との対談を通じ、その理由を探った。
教育に必要なものは「えこひいき」!?
高濱: (本に掲載されたオール1の通知表を見て)本当にオール1ですね!
依田: オール1だからこそ、碁で一生生きていく覚悟が決まったのではないかなと。大自然の中で育ったので、学校が終わると野原を駆け回って日が暮れるまで遊んでいました。それでも小学校3年生くらいまでは、「少し出来が悪い」くらいだったのですが、囲碁を始めてからは碁しかやらなくなったので、ますますひどくなりました。
高濱: 授業の間はどうしていたのですか?
依田: ノートに碁盤を書いて碁のことばかり考えていたので、授業はまったく聞いていません。勉強する気がなかったし、しようとする態度でもないので、学校の先生は気に入らなかったと思います。
高濱: 依田先生は、「碁が強くなるために必要なこと」しかやらなかった。本当に大事なことに賭けていたんでしょうね。
――囲碁を始めて1年くらいで高段者になって、周りから褒められて嬉しかったと本に書いてありましたね。
依田: それまであまり親にも褒められた記憶がなかったので、嬉しかったですし、ますます囲碁にのめりこみました。
高濱: 褒められること、いわゆる「成功体験」は大事です。全日本女子バレーボールチームの中田久美監督がテレビで「選手を育てる秘訣は?」と聞かれて「全員を『えこひいき』することです」と言っていたのですが…
依田: 全員をえこひいき!?
高濱: 矛盾していると思うかもしれませんが、人間は、特に子どもは「みんな平等だよ」と言われるよりも、「おまえ、すげえな!」と特別扱いをされるほうがやる気が出る。ちょっと自分の話になってしまいますが、僕が小学校6年生の時の担任が素晴らしい教師で、放課後に呼び出されて、怒られるのかなと思ったら、「君は本当に頭がいい。どんな名門校でも行けるかもしれない。自習して持ってきたら、俺が見てあげる」と言われて、特別に認められた感じがしてめちゃくちゃ勉強したんですよね。ところが最近になって、小6の時の同級生から「実は俺、先生にひいきされとったんよ」「俺だけ残してもらって、勉強教えてもらってた」と(笑)。その先生は全員に同じことをしていたんです。
依田: 素晴らしい教育者ですね!
高濱: 今でも尊敬しています。依田先生も、そういう先生に出会えていたら違ったかもしれません。
依田: 僕の出会ってきた教師、ひどかったからなぁ。
高濱: 中学生の時に、教師に殴られた話が本に書かれていましたね。
依田: 中学の時はもうプロ棋士だったので、まったく勉強していないから授業がわからないわけです。すると、居残りさせてアルファベットをひたすら書き取りさせるんですよね。バカバカしいから帰っちゃったら、電話かかってきて学校に呼び出されて、英語教師と体育教師が待っていて、顔が変形するまで殴られたという。
高濱: 負の「えこひいき」ですね。
――そういえば依田九段は色紙にサインする時に、「えこひいき」と書かれていますね。
高濱: エーッ!?
依田: 書いています。「えこひいき」の「えこ」は、頼りになる人を大事にするという由来みたいですが、これは人間関係の基本ではないかと。
高濱: まさに基本です。恋愛もそうだし、母親の愛もそう。お母さんは我が子を「えこひいき」する存在なんですよね。「あなたは他の子とは全然違う」という心でいるので、「えこひいき」感がレベル違いなんです。それにしても偶然だなぁ!
依田: サイン持ってくればよかったですね(笑)
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子どもの得意分野を伸ばすために、親がやってあげられることとは?
――オール1の劣等生だった依田九段が、囲碁で頂点を極められたのはなぜだと思いますか?
高濱: 集中してやり切る力があったからだと思います。「頭の良さ」の本質というのは、たとえば、補助線や立体の裏側や、囲碁のように何手先を読むといった、「イメージする力」と「最後まで詰め切る力」があることだと思います。依田先生にはその両方があったのかな。
依田: 今おっしゃった「頭の良さ」に必要なものは、囲碁をやるとかなり身につくかもしれません。
高濱: 囲碁にはその要素がほとんど入っています。子どもたちが「メシを食う力」を育てるためには、何か一つのことにものすごく打ち込むというのが一番で、そして、筋の良いものとして僕が最も勧めるのが囲碁だと、20年くらいずっと言い続けています(笑)。あとはイメージしたものを言語化する国語力があれば、次の世代の子どもは育つと思っています。
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――囲碁をやると頭が良くなるとか、いい学校へ行けるというイメージがありますが、それはあながち間違っていないのですね。
高濱: データを集めている途中ですが、かつて囲碁の全国大会に出た子どもたちが、その後一流大学に進学したケースは多いようです。一度囲碁に本気になった子どもは、学業に頭が切り替われば強いというのは、間違いないと思います。
――依田九段も子どもの時に、いい先生に「えこひいき」されて、勉強に目覚めていたら…
高濱: 普通に東大に行けたでしょう(笑)
依田: 子どもの頃に高濱先生に会っていたら、学者になっていたかもしれない。
高濱: そうなったら、「自慢の弟子です」と言っています(笑)。一方で依田名人は誕生していないので、教育って何なのかなと思ったりもします。
――子どもの得意分野を伸ばすために、親がやってあげられること、やってはいけないことはありますか?
高濱: 親は引き出しを多く用意してあげて、この子はこれがやれる子だ、これが向いているといった見立ては重要だと思います。好きなことはやめないし、ずっと練習していられる。ただ、「やらされ感」を感じた途端にやりたくなくなるので、「自分で決めた」ということが重要です。あとは、いい師匠につけること。親はある程度でやることがなくなりますから、早いうちに筋の良い人と接するのが一番です。
――依田九段のご両親はどうだったのですか?
依田: これは本には書かなかったのですが、碁を覚えたばかりの頃、家で父親と囲碁を打っていたら、覚えたばかりだからわかるわけがないのに、「何でわからないんだ」って扇子でひっぱたくんですよね。よく碁をやめなかったなと思いますよ。
高濱: 普通はすぐやめます(笑)
――特化したものがなかなか見つからない子はどうしたらいいのでしょうか?
高濱: 大半はそうで、特別な才能を持つ子なんて一部です。ですから「みんなとは違う」ところを大事にすればいいと思います。あらゆる業界で言えますが、たとえば学習塾なら「他の塾がやっていることはやらない」とか。今まで誰もやっていないことであればトップになれる。
――囲碁も、誰も打たなかった一手を追求する、という点では同じかもしれませんね。
依田: 囲碁はまず、強い人同士の対局の記録を1手ずつ並べるという「真似」から入るのですが、繰り返し並べていると、「どうしてここに打ったのだろう?」などと疑問を持ちます。そして感動すること。感動したら、「自分もこういう手を打てるようになりたい」と念じながら繰り返し練習していくと、やがて「ここに打ったらどうなるのだろう?」という興味がわいてきます。僕は、既存の手と自分が考えついた手と、どちらに価値があるのかわからない時は、自分の考えた手を打ったほうが良いと思っています。従来の考え方に対して、少し工夫をくわえて、新しいものを作り出していくのが重要で、一流になるには近道なのではないかと思っています。
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必要なものは覚悟と信念
――これから囲碁界の頂点を目指す子どもたちにアドバイスをお願いします。
依田: この間、いちばん下の七歳の息子が七夕の短冊に「七冠になりたい」「アルファ碁と同じくらい強くなりたい」と書いていたのですが、まず「好きなことをとことんやる」ことだと思います。頂点を極めるのはその先の話で、「好きなことをして生きていく」というのが一番幸せだと思っているし、いずれは頂点に立つことを目指して進んでいく、ということに意味があると思います。
――囲碁が好きで一所懸命勉強してプロになれたとして、トップ棋士になる人と、そうなれない人がいますよね。その差はどこにあるのでしょうか?
依田: 覚悟と信念の違いだと思います。本の中にも書きましたが、囲碁界では「出身地が遠いほど強くなる」というジンクスがあります。腕一本で結果を残さなければならないという覚悟。それが信念となって、その人を強くすると思っています。なので、出身地が遠いほど強くなるというのは偶然ではなく、実際に、外国出身の棋士はタイトルホルダーの割合がひじょうに高いです。僕の場合は出身が北海道で、小学生の時に単身で上京し、さらにオール1だったので、「碁が強くならなかったらどうにもならない」と強く思っていたのがよかったと思います。
――出身地が遠いほど強いとおっしゃいましたが、先日、七冠を再達成した井山裕太さんは該当しませんね(注:井山裕太七冠は大阪府出身。所属する日本棋院関西総本部は大阪に拠点がある)。
依田: そうなんだよ。井山君って内弟子じゃないんだよね。
高濱: 新世代じゃないですか? 将棋の羽生善治(永世七冠)さんや藤井聡太四段にも通じるかもしれませんが、なんというか、冷静で「人間くささ」を感じないというか…。おそらく井山さんに『どん底名人』は書けないですよね(笑)