営繕かるかや怪異譚 その弐
【新刊試し読み】人々の繋がる思いに涙する魂の物語『営繕かるかや怪異譚 その弐』
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来る7月31日(水)「営繕かるかや怪異譚」シリーズ最新作が発売されます。
カドブンでは、第1話「芙蓉忌」の試し読みを、発売前に特別公開いたします!
芙蓉忌
その女は、壁の向こうにいた。
貴樹が書斎として定めた部屋からは、隣の家に住む女の様子を窺うことができた。
歳の頃は二十代の初めか。瘦せた小柄な女だった。おそらく芸妓なのだろう、艶やかに豊かな黒髪を結い、華やいだ着物に身を包んでいる。ときには結った髪を解いて梳る。洗い髪を一つに纏め、団扇で風を送っていることもあった。そんなとき、女は着慣れた様子の浴衣姿だったが、別の日にはくだけた縞の着物姿だったり、さらに別の日にはしどけない襦袢姿だったりした。
女が貴樹に見せているのは、多くの場合、斜め後ろからの姿で、だから目鼻立ちは、はっきりしない。ただ、俯いた細い首の線が頼りなく、しかも抜けるように白かった。どこか身体に不調でもあるのか、病的な印象を抱かせる白さで、どうやらあまり出歩くこともないらしく、翳った狭い部屋の中、囚われたように暮らしている。
文机に向かって書きものをし、別の日には頰杖を突いて物思いに耽り、さらに別の日には鏡に向かい、唇に紅を引いた。紅を引くときにすらどこか哀しげで、女が生き生きと何かをしている様子を、貴樹は目にしたことがない。むしろ何かで繫ぎ留めておかないと消え入りそうな風情があった。
その様子はなぜか貴樹に芙蓉の花を思い出させた。退紅というのだろうか、少し褪せたようにくすんだ薄紅色の花。儚く哀しげに思えるのは、芙蓉の花が朝に咲いて夕には萎む一日花のせいか、それとも近所の墓地にある大樹の印象が強いせいだろうか。
彼女は翳った部屋の中、芙蓉の枝が風に揺れるように、ゆらゆらと暮らしていた。訪ねてくる者もなく、語らう相手もいないようだった。だから貴樹は、女の声を知らない。ただ、幾度となく袂を顔に当て、声を押し殺して女は泣いた。それで、その忍び音だけは耳に馴染んでいる。
何が彼女を哀しませているのかは分からなかった。たぶん、何度も読み返している手紙と無関係ではないだろう。距離があって文面までは判別できず、したがってその手蹟が男のものなのか女のものなのかも分からない。慕わしい男からの手紙なのか、あるいは懐かしい人からの便りなのか。愛おしそうに何度も目を通しては泣く。そのとき、涙を手紙に落とすまいとするかのように、必ず女は顔を背けた。そのたびに白い項と、さらに白く青みを帯びて見える耳朶の裏側が眼を射た。
女は一日、その部屋にいる。だから貴樹も、一日、女を見守っていた。――そんな自分を、心のどこかで尋常でないと感じながら。
貴樹が最初にその女の存在に気づいたのは、実家に戻ってきて半月もした頃だった。
実家は古い町並みの中にある古い町屋だった。小さな城下町の一郭にあって、かつては花街だったというが、現在ではその面影はどこにもない。真っ直ぐな通りの左右に新旧入り交じった住宅が建ち並ぶ、それだけの通りだ。ただし、かろうじて料亭が二、三残っていて、それが往時を偲ばせてはいる。
貴樹はこの古い家で、高校の三年間だけを過ごした。大学に進むと同時に家を出て郷里を離れ、以後そのまま大学に残り続けた。長期の休みの際にも学業やアルバイトで忙しく、実家には数えるほどしか戻っていない。郷里にも実家にも家族にも、我ながら冷淡すぎると感じるほど思い入れがなかった。にもかかわらず、十年以上を経て戻ってきた。学業に固執しても先行きは望めず、生活のためのアルバイトで疲弊していくだけだと見切った結果だ。
貴樹が郷里を離れている間に、両親も弟も鬼籍に入っていた。無人になってから管理を頼んでいた祖母も死んだ。祖母の死を契機に実家を売り払っても良かったのだ。三年間だけ過ごした家には思い出らしい思い出もない。だが、戻ることのほうを選んだ。――戻らない、という選択を諦めた、と言うべきなのかもしれない。
戻ってはきたものの、これからどうするかについては何の展望もなかった。両親が残してくれた貯えが多少あるものの、職はなく、これといってやりたいこともない。教員にでもなって、趣味で研究を続けるか――とは思っていたが、地元で教員として採用されるかどうかは分からなかったし、そもそも募集があるのかすら分かってはいなかった。こんなとき、親や親戚がいればその伝で職を探すこともできたのだろう。しかしあいにく、そんなものは存在しなかった。数少ない友人も全員が郷里を離れて進学し、そのまま遠方で就職している。血縁もなければ地縁もない。こうなると、ほとんど縁もゆかりもない土地と変わらなかった。寄る辺ない異郷に、ただ「実家」という名の容れ物だけが存在していた。
とりあえず実家に住めば住居費は要らない。幸か不幸か、生活を支えてやらなければならない妻子もいない。自分一人、生きていくだけなら何とかなるだろう――いずれ立ちゆかなくなって孤独な死を迎えることになったとしても。それも可だ、と思ってしまうのは、挫折したという倦怠が貴樹を無気力にしているせいなのかもしれなかった。
だが、倦んでいる自分を自覚できているだけましだろう。しばらく何もせずにぼうっとしていれば、そのうち前向きになれるかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、古い家を掃除した。
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