うちの執事が言うことには
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King & Prince永瀬廉初主演映画『うちの執事が言うことには』 原作小説試し読み①
King & Prince永瀬廉さん初の主演作として話題の映画『うちの執事が言うことには』がいよいよ、5/17(金)に公開となります。
カドブンでは、原作となった同名小説第1巻の試し読みを
映画の公開日までの5日連続で毎日配信いたします。
この機会に「最強不本意主従が織りなす上流階級ミステリー!」をお楽しみください!
第1話 はだかの王様と噓吐き執事
1
「僕が主人だ!」
花穎は声高らかに宣言して、唇の端を不敵に引き上げた。
聞く者のいない声が、寝室の白い天井に反響する。突き出した両の腕に血液が巡り、拳がじわりと熱を帯びる。裸足の下には起き抜けのベッドがまだ温もりを持っていて、夢と現の世界を微かに繫ぎ止めていたが、それもすぐに冷め、彼に眠りから覚めた実感を伴わせた。
「寒い」
春の早朝はまだ冬の領域だ。隙あらば体温を奪いにかかる。骨の髄まで冷やす真冬の寒気に比べれば手緩いが、それでもパジャマ一枚でいれば充分に風邪を引ける寒さだった。
花穎は捲れた掛け布団に腰まで潜り込ませて、室内を見回した。
昨日まで寝起きしていたマンションより手狭な、十二畳しかない寝室だ。
幼い頃には人の顔に見えて恐ろしかった木目も、今では歴史の趣ある風合いだと感じ取れたし、ドアとベッドを隔てる格子細工は熟達の職人技で、カーテンの手触りの良さは埃のたまったブラインドの比ではないと昨夜、充分に堪能している。
しかし、曾祖父の代より以前、明治の時代に建てられた古い家には、全室に床暖房が行き届いておらず、彼の部屋を暖める設備はセントラルヒーティングしかない。
「…………」
花穎はシルクのパジャマの袖口を無駄に整えながら考えた。
呼んでも良いだろうか。
花穎にはその権利がある。
しかし、呼ぶまでもなく動くのが『彼』の役目ではないだろうか。呼ぶ、という行為が、花穎の器を小さく見せ、また、『彼』の名誉を傷付ける恐れもある。
だが、寒い。
花穎は意を決して扉の外に呼びかけた。
「バトラー」
それは、家の一切を取り仕切る役職の名称。
「バトラー。僕は起きたぞ」
即ち、執事だ。
コンコン。
扉が叩かれる。ドアノブが回る。
皺のないスーツに身を包み、老いて尚、引き締まった体型と美しい姿勢は損なわれない。清潔な白髪は経験を、穏やかな面差しは心根を、上品な立ち居振る舞いは有能さを物語り、全幅の信頼を寄せるに値する確信を与える。
親の代から当家に仕える唯一無二の執事――
を、期待していた花穎は、上体を捻ってベッドサイドに手を伸ばし、眼鏡を掛けて再び戸口の方を見遣った。
スーツ姿の男がテーブルに銀のトレイを置いた。
「おはようございます、花穎様。お茶をお持ちしました」
「お前、誰だ?」
花穎は表情筋の限界まで顔を顰めた。
スーツは着ている。身長は高く、贅肉が少なく、身軽に動けそうではある。
しかし、髪はミルクティー色、顔立ちは整っていると言えるかもしれないが若い鋭さがあり、物腰は何処か硬い。訓練に依って身に付けた、正し過ぎる正しさを感じる。
男は、ヘレンドの黒色が優美なティーカップに紅茶を注ぎ、小さなトレイに移して、花穎の元に運んだ。
「どうぞ」
「僕の質問が聞こえなかったのか?」
花穎は紅茶に目線もやらず、得体の知れない男を睨め付けた。
男の眼差しが無感動に花穎を見下ろす。
紅茶の湯気が立ち上り、儚く消えていく。
花穎は到頭、痺れを切らして、手の平で枕を叩き、足をベッドから下ろした。
「鳳は何処だ。バトラー!」
「はい」
裸足に構わず、扉の方へ歩き出した花穎の後ろから、男が返事をする。
状況が飲み込めないまま花穎が振り返ると、男はベッドサイドテーブルにトレイを置き、花穎に向かって恭しくお辞儀をした。
「本日より、バトラーに就任致しました。衣更月と申します。よろしくお願い致します」
「噓だ!」
花穎は反射的に言い返していた。
よく考えてみても、やはり悪い冗談にしか思えない。
「僕は、烏丸家二十七代目当主だぞ。烏丸家の執事はこの四十年、一日も欠かさず鳳と決まっている」
頭に血が上って妙な日本語を使ってしまったが、今は良い。花穎の目の前にいる、この男の方が問題だ。
「……これを」
衣更月と名乗った男が、スーツの内ポケットに手を差し入れる。
花穎は咄嗟に身構えた。
衣更月が取り出したのは、三つ折りにされた紙だった。花穎は彼と紙を見比べてから、慎重に受け取って、折り目を上へ広げた。
上半分に書かれていたのは、パソコンで打ち出された『辞令』の文字。衣更月というこの男を執事に任ずるという内容だ。次いで、下半分を広げると、手書きの署名で鳳の名がある。
父からの手紙の代筆で幾度となく見てきた。
間違いなく鳳の筆跡だ。
「何故だ。鳳が任を退いて、しかも、後継がこんな何処の誰とも知れない若造だって?」
花穎の手がわなわなと震える。怒りか、動揺か、悲しみか、自分でも定かではない。
辞令に皺が寄り、折り目が筋を増やしそうになる寸前で、衣更月が花穎の手から辞令を抜き取る。彼は紙を丁寧に畳んで内ポケットに戻した。
「花穎様」
「な、何だよ」
別段、花穎が特別に臆病な訳ではないと断わっておくが、衣更月は花穎より上背があるので、凝視されるとたじろがざるを得ない。
そして、話し始める前に時間を置くのは、おそらく衣更月の癖だろう。衣更月は、今時の若者らしい外貌とは裏腹に、重々しい口調と物々しい言葉遣いで話を接いだ。
「私共は御主人様にお仕えする身の上。唯お一人である御主人様が複数人いる使用人へ、私共が御主人様へお向けするほどに多くの注意を払われない事は、至極、当然ではございますが、花穎様は今現在、烏丸家が何人の使用人を雇い入れていらっしゃるか、御存知でしょうか?」
「どうして僕がそんな質問に答えなければならない」
「当家の主人なれば」
そう言われては、拒否し難い。
花穎は冷えた指を渋々折り曲げて、家に出入りする常任の使用人を数えた。
「執事の鳳だろ。通いでは、庭師の桐山と、ハウスキーパー兼料理人の雪倉」
「彼女は現在、ぎっくり腰で療養中です」
「そうなのか? そんなに歳でもなかっただろう。具合は? 大丈夫なのか?」
「先月で五十一歳になったと聞いております。お医者様の診断では、数日で回復するとのお見立てでした」
花穎が日本にいたのは、中学校の寄宿舎に入るまでだったから五年前になる。だが、おそらく五年という歳月が雪倉を変えたのではなく、小学生だった花穎には、雪倉は生まれてからずっと変わっていないように思えていたのだろう。
「臨時で料理人は雪倉の従姉妹の片瀬優香、ハウスキーパーは雪倉の息子の峻が務めております。どちらも真一郎様と鳳の承認を得ております」
「そうか」
父と鳳の判断ならば間違いない。花穎は息を吐いて、中途半端に曲げた三本目の指を思い出し、改めて折り畳んで四本目を数えた。
「あとは、誰がいたかな。乳母は僕が看てもらう年齢ではなくなったし、家庭教師は鳳が兼任していたし、守衛は昔から警備会社任せだから……あ、運転手の駒地がいたか」
家中、庭の隅々まで脳裏に思い描いて、それぞれの持ち場から担当者を考える。大掃除時期に入る清掃業者や家屋の手入れを頼む大工は使用人とは性質が異なるだろう。
花穎がそれ以上、思い当たらないでいると、衣更月の切れ長の目尻に、微かに失意の色が滲んだように見えた。
「花穎様がイギリスへ渡られた以後に雇われた為、仕方のない事だと存じます」
「うん?」
「私は、昨日まで当家でフットマンをさせて頂いておりました。鳳様が家令に昇格され、私が執事に任じられた次第です」
衣更月は飽くまで落ち着いた声音で、花穎の不備を正当化する。
「むう……つまり、鳳は出世したという事か」
「その通りでございます、花穎様」
衣更月が頷く。
「話は解った。それで、家令というのは具体的に――ックシュン!」
くしゃみが出て、花穎の背筋を悪寒が駆け上がる。足の指先が感覚を失うほどに冷たい。
「どうぞ、花穎様」
衣更月がボア付きのスリッパを花穎の前に揃え、更にオットマン――ベッドの足許に置かれた長持ベンチからガウンを取り出し、彼の冷えた肩に掛ける。
花穎は一瞬、撥ね付ける事も考えたが、床板がとにかく寒い。ガウンとスリッパは暖かい。
(鳳の顔を立てる為だ)
花穎は彼自身に尤もらしい理由を与えて、肩越しに衣更月を見上げた。
「ひとまず認めよう。お前は当家の新しい執事だ」
「ありがとうございます」
「執事なら、主人がくしゃみをするより前に、ガウンとスリッパを用意すべきじゃないのか?」
花穎が心に燻る反抗心を、ささやかな厭味にして投げかけると、衣更月は感情もなく一言、
「失礼致しました。たった今しがた、執事と認めて頂けたばかりなもので」
温かい紅茶を注ぎ直し、呆気に取られる花穎の手にソーサーごと手渡した。
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