1月31日(木)、重松清さんの新刊『木曜日の子ども』が発売となります。
本作の発売を記念して、1月21日(月)~30日(水)まで10日間連続での発売前特別試し読みを行います。(第1回から読む)
>>第7回はこちら
【第8回】
結婚を機に引っ越してきた旭ヶ丘ニュータウン。7年前、上田祐太郎という14歳の少年が同級生を無差別に毒殺し全国的に知られたが、今はすっかり閑静な住宅街となっていた。隣人の大谷さん一家にバーベキューに招かれた際、長女の摩耶ちゃんが〈不審者情報〉との回覧板を持ってきて、私はこの街にどうしようもなく重苦しさを感じる。
数日後の夜、駅からのバスを降りて家路を急いでいると、少し先を摩耶ちゃんが歩いていた。
夜九時を回っている。着ているのはブラウスにベストの制服だったが、手に提げているのは通学用のカバンではなく、トートバッグだった。塾の帰りなのだろう。中学三年生の秋──受験勉強も正念場にさしかかる時期だ。
驚かせないよう、わざと足音をたてて少しだけ距離を詰め、「こんばんは」と背中に声をかけた。にこやかに、おだやかに、幼い子どもの挨拶のような声を出したつもりだったが、摩耶ちゃんの背中は、ひゃっ、とすくんだ。
振り向く顔もおびえていた。私だと気づいて、なんだ、と肩の力を抜いても、まだ表情はこわばったままだった。
「ごめんごめん、びっくりさせちゃったかな」
「いえ……」
声も震えている。
「このまえの回覧板じゃないけど、やっぱり夜道は物騒だもんなあ」
女の子なら、なおさらだろう。
「自転車は乗らないの?」
「坂が多いから……押して行くほうが長くなっちゃうんで……」
「あ、そうか、そうだよな」
旭ヶ丘は、名前どおり、丘のてっぺんから中腹にかけて造成したニュータウンだ。街並みにも細かな高低差がそのまま残されている。
「塾の帰り?」
「はい……」
「大変だなあ、三年生だもんなあ」
「いえ……」
「勉強難しい?」
「ええ……」
「特になんの科目が?」
「数学と英語」
「そっか、うん、難しいんだよなあ。三年生になるとなあ」
話はそれで途切れてしまう。考えてみればあたりまえなのだ。女子中学生としゃべったことなど私自身が中学生だった頃以来だし、一対一で話した記憶は、その当時を振り返ってみても、一度もない。
わが家と大谷さんの家までは、まだワンブロックある。とても間が持ちそうにない。軽い気持ちで声をかけたことを、いまになって後悔した。なにかあたりさわりのない話題はないだろうか……と考えをめぐらせていたら、摩耶ちゃんのほうから「おじさん」と話しかけてきた。
「うん?」
「おじさん、ウチの中学で昔あったこと、知ってます?」
事件のこと──だろう。
「ああ……」
うなずくと、「犯人の名前は?」と重ねて訊かれた。適当に思いついた話題というより、最初からこれを話そうと決めていたような、しっかりとした口調だった。
「上田っていうんだよな」
上田祐太郎だよな、とつづけた。ほんとは名前がわかっちゃいけないんだけど、と苦笑すると、摩耶ちゃんは「でも、みんな知ってますよ」と言った。私の薄っぺらな笑いを払いのけるように、速く、強く、どこか冷たい声──バーベキューのときに、にこにこ笑っていた印象が微妙に揺らぎはじめた。
「伝説の男になったってわけか……」
私も今度は笑わずに言った。「七年たっても、そう簡単に忘れるわけにはいかないんだな、地元は」
摩耶ちゃんはこくんとうなずいて、「清水くん」と言った。一瞬誰を指しているのかわからなかったが、「晴彦くん」とつづけたので、ああ、そうか、と納得した。そういうところが、やはり父親としての初心者なんだという証になるのかもしれない。
「清水くん、学校で噂なんです」
「え?」
「似てる、って」
息を吞んだ。上田祐太郎の隣人だったおばあさんの悲鳴と、小川先生の苦しそうにゆがんだ顔が、頭の片隅に浮かんだ。
だが、まだ私は冷静でいられた。それはおかしいじゃないか、と理屈の筋道をすぐに立てることができた。
「似てるっていうのは……上田祐太郎と?」
「そう」
「でも、それ、ヘンだぞ。だって、いまの生徒は知らないだろ、上田祐太郎の顔なんて。きみだってそうだろ? きみ、写真とか見たことあるのか?」
「いいえ」
「ほら、おかしいじゃないか」
憤然とした口調になった。摩耶ちゃんを責める口調にもなってしまった。おとなげない態度だとはわかっていたが、ここはしっかり、毅然としておくべきだ、と自分に言い聞かせた。
「それって、ウチの子が転校生だからなのかな。よそものだから、そんなふうにでたらめなこと言って、いじめてるんじゃないのか?」
もしもそうだとしたら、許さない。
「誰が言ってるんだ?」
同級生だろうか。先輩だろうか。意外と女子ということもありうる。女子が相手だとなんとなく厄介そうだが、見過ごすわけにはいかない。私は晴彦の父親なのだ。
「誰って……」
摩耶ちゃんは初めて言い淀んだ。彼女を責めてもしょうがない。わかっている。むしろ感謝すべきだ。学校での生活を訊いても「面白いよ」としか言わない晴彦に代わって、とても大事なことを教えてくれたのだから。
「いや、べつにおじさんは怒ってるわけじゃないんだ。ただ、なあ、やっぱりそれ、よくないことだからな。もし、そんなでたらめな噂を最初に流した生徒がわかるんだったら、ちょっと先生に相談して……」
言葉は「でも」でさえぎられた。
「でも、最初に言ったのって、先生だから」
私は再び息を吞んだ。
「清水くん、家でなにも言ってませんでしたか? 清水くんのクラス担任の内藤先生、おととい、教室で倒れたんです」
「……なんで?」
「パニックになって、貧血起こすかなにかしちゃって」
「だから……なんで?」
摩耶ちゃんは、わたしが直接見たわけじゃないんだけど、と前置きして教えてくれた。
朝のホームルームの時間だった。
内藤先生が教室に入ってきたとき、晴彦は窓際に立って、友だちと話していた。
朝陽が射し込んでいた。先生から見る晴彦は、ちょうど逆光になっていた。
晴彦が振り向いて先生を見た──その瞬間、先生は絶叫した。真っ青な顔になって、あとずさり、壁に背中がぶつかると、膝からずるずると崩れ落ちて、床に倒れ込んだ。
震える声でうわごとのように、「なんで……」と言った。「上田くん……なんで……」
そこから先は口がわななくだけで声にならず、隣のクラスの先生が急を聞いて駆け込んでくるまで、激しい身震いは止まらなかった。
話し終えた摩耶ちゃんは、「上田くんって言ったんです、内藤先生」と念を押した。「二年三組のみんなが聞いた、って」
(第9回へつづく)
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