1月31日(木)、重松清さんの新刊『木曜日の子ども』が発売となります。
本作の発売を記念して、1月21日(月)~30日(水)まで10日間連続での発売前特別試し読みを行います。(第1回から読む)
>>第6回はこちら
【第7回】
香奈恵との結婚を機に旭ヶ丘ニュータウンに引っ越してきた私。妻の連れ子の晴彦は、前の学校でひどいいじめに遭ってこの町の中学に転校したのだが、7年前の凶悪事件の犯人・上田祐太郎に見間違われたりして、私は禍々しい予感を拭い去ることができずにいる――。
第四章 最初の事件(承前)
その知らせは、休日に届いた。
秋分の日の午後──香奈恵と晴彦と三人で大谷さん宅のバーベキューに招かれ、ビールとオードブルを楽しんだあと、「そろそろ肉を焼きましょうか」と大谷さんがグリルの炭火を熾しはじめたときだった。
玄関のチャイムが鳴った。インターホンに出た大谷さんの長女──摩耶ちゃんは、「『至急』の回覧板だって」と庭にいる両親を振り向き、「わたし取ってくるね」と玄関に向かった。
中学三年生という年頃もあるのだろう、決して口数の多いほうではないが、おとなたちの話をにこにこと笑いながら聞く、感じのいい少女だ。長男──中学一年生の真人くんも、大谷さんが話していたとおり、隣にお兄ちゃんが引っ越してきたのがよほどうれしいのだろう、晴彦に「先輩、先輩」とすっかりなついている。
「ここは回覧板があるんですか?」
香奈恵が訊くと、奥さんの迪子さんは「そうなの、古風なのよ」と苦笑する。
通常の回覧板は月に一度回ってくるだけだが、随時「至急」の知らせも回される。
「私なんかは、メールのほうが速いし確実なんじゃないかと思うんですけどねえ……」
大谷さんは火を熾しながら言って、「どうも、それじゃあだめなんですよ」とつづけた。
「だめ、と言いますと?」
私が訊くと、かがんでいた体を起こして「コミュニケーションっていうやつです」と軽く肩をすくめる。
「メールだとお互いの顔を見なくても連絡が行き渡るでしょ」
「ええ……」
「でも、それじゃ住民の交流が生まれないっていうのが、自治会の発想なんです」
回覧板を届ける、受け取る、そのときの一言二言の挨拶があるかないかが、長い目で見れば大きな違いになる──「だから郵便受けに入れるだけじゃだめなんですよ」と迪子さんも夫と同じような口調で口を挟む。
「宅配便じゃないんだから、手渡しなんてねえ……」
あきれ顔で言う大谷さんに、訊いてみた。
「それって、やっぱり……」
そこまでで話は通じた。
「あの事件からです」
心が見えているか──。
心を見せているか──。
中学校に掲げられた言葉が、ふと脳裏によみがえる。なぜだろう、しごくまっとうな言葉なのに、それを思いだすたびに、胸の奥がざらついてしまう。
「まあ、もちろん、そういうきめ細かなコミュニケーションがとれてるところが、旭ヶ丘のいいところでもあるんですけどね」
大谷さんは種火を移した炭をうちわで扇ぎながら、「ときどき、うっとうしくもなるんですよね」と苦笑した。
摩耶ちゃんが戻ってきた。小脇にしたバインダー式のファイルには、「至急」と書いた大きなシールが貼ってある。
「なんだった? 回覧板」
迪子さんに訊かれた摩耶ちゃんは、「うん……」と少し元気のない声で応え、ファイルを母親に差し出した。
「ちょっと、なんかヘンなことが書いてある」
「ヘンなこと?」
「自分で読んで」
迪子さんは怪訝そうにファイルを開いた。すぐに「やだぁ……」と声が漏れ、眉が寄った。プリントを読み進めるにつれて顔はさらに曇ってくる。
迪子さんから大谷さん、香奈恵へとファイルが回された。大谷さんや香奈恵の反応も迪子さんと同じだった。そして、私も──。
〈不審者情報〉
大きく書かれた見出しの文字を見た瞬間、自然と眉間に力がこもった。
もっとも、本文を読んでみれば、「至急」の回覧が必要な話だとは思えなかった。
最近、夜間に不審な人影を見かけたという報告が、自治会に相次いでいる。各世帯とも戸締まりには十分注意し、声かけを徹底していただきたい──という内容のことが、妙に回りくどく書いてあるだけだ。
ただ、私の眉間の皺は最後まで消えなかった。不審者そのものというより、それをこんなふうに伝える街の空気に、なんともいえない重苦しさを感じてしまう。
プリントの末尾に不審者の風体がまとめてあった。性別は男。年齢は十代半ばから二十代半ば。身長は百六十センチから百七十五センチ。やや瘦せ気味。髪形は不明。キャップをかぶっている目撃例も複数あり。
情報としては、あまりにも曖昧だった。これでは、そこらじゅうの若者が不審者になってしまう。
だが、その脇にボールペンの手書きで一言添えてあった。
〈旭ヶ丘中学の生徒の可能性あり〉
回覧板が回ってくる間に、どこかの家の誰かが、それを書き込んだのか。おとなの字だ。子どものいたずらではない。親切心なのだろうか。あるいは偏見にも似た悪意なのだろうか。いや、なんとなく、それは善意に満ちた親切心なんだろうな、という気がする。不審者の情報を少しでも掘り下げて、詳しく伝え、ご近所の皆さんの参考にしてほしい。書き込みをした主の、まっすぐな善意は、決して殴り書きや走り書きではない筆跡からも感じられる。
だからこそ、たとえようもなく、嫌な気分になってしまった。
(第8回へつづく)
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