過去一年間で最も「面白い」と評価されたエンタテインメント小説に贈られる山田風太郎賞。その第9回の候補作品のうちKADOKAWA刊の3作品、垣根涼介著「信長の原理」、恒川光太郎著「滅びの園」、湊かなえ著「ブロードキャスト」の冒頭約40ページを特別公開!
☆俳優・池内万作氏による冒頭の朗読は、こちら
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何故おれは、裏切られ続けて死にゆくのか――。
織田信長の飽くなき渇望、家臣たちの終わりなき焦燥。
その組織構造が不変なる原理を浮かび上がらせ、「本能寺の変」を呼ぶ。
信長の内面を徹底的に描き、行動原理を抉り出したまったく新しい革命的歴史小説。




 
 
私たちがいま住む世界についての理解はもともと不完全であり、
完全な社会などは達成不可能なのだ。
ならば、私たちは次善のもので良しとせねばならない。
それは不完全な社会であるが、
それでも限りなく改善していくことはできる社会である ――ジョージ・ソロス
 
 
 

第一章 骨肉

 

  1

 
 少年は蟻を見ていた。
 暑い夏の午後、しばしば飽くこともなく足元の蟻の行列を見続けていた。
 しかし、そんな少年の様子に興味を示す者は、家中には誰一人としていない。

 生まれた時から、異常にかんの強い乳児だった。
 ひとたび何か気に入らぬとなれば、声を限りに泣き叫ぶ。周囲の空気を切り裂かんばかりであったという。泣き方にも乳児に見られる可憐さや愛嬌などは欠片もなく、ひたすらに周囲を戸惑わせ、苛立たせるだけだった。自然、奥向きの侍女はむろん、実母からも疎まれた。
 ある時、この乳児がまたもかんの虫に襲われ、吸っていた乳母の乳首を噛み切った。乳母は激痛と衝撃に堪えかね、乳児を取り落とした。板の間に頭を打ち付けた乳児は、さらに火がついたように泣きわめいた。
 不幸なことに、現場をたまたま乳児の父親が見ていた。父親は激昂げっこうし、不始末をしでかした乳母を斬り捨てた。血塗れの床の上で、乳児はなおも泣き叫んでいた。
 父の名を、織田信秀のぶひでという。尾張国守護である斯波しば氏の陪臣である。下四郡を支配していた清洲きよす織田氏(織田大和守やまとのかみ)の分家にして、清洲三奉行の一つを務める弾正忠だんじょうのちゅう家の惣領そうりょうであった。
 乳児の名は吉法師きっぽうし――のちの織田信長おだのぶながである。長じても、癇性の質は変わることはなかった。

 二年後、吉法師の母である土田御前つちだごぜんに、再び男児が生まれた。勘十郎かんじゅうろうと名付けられた。この正腹の次子は、尾張東部にある末森城で母とともに育てられた。
 対して嫡男として生まれた吉法師は、平手政秀ひらてまさひでという次席家老の守役が付けられ、尾張西部に位置する勝幡しょばた城で幼少期を過ごした。
 時おり、母と弟に顔を見せに末森城まで赴く。守役の平手にそう諭されてのことだが、吉法師はいつも気乗りがしなかった。
 勝幡城から末森城までは遠い。城を取り巻く様相も、勝幡城は周囲を川と田んぼに囲まれた低い湿地帯にあり、末森城は丘陵地の東端の上にある。同じ兄弟が住む城でも、印象が全く違う。兄である自分と弟の勘十郎とでは、家中の評価はさらに違う。
 曰く、吉法師は気性が激しく乱暴者で、物学びもろくに出来ず、身なりはさらにだらしなく、顔つきにも言動にも可愛げというものが一切ない。
 対して、勘十郎は穏やかな性格で礼儀正しく、学問も出来、見目涼やかで、周囲の言いつけを素直に守る。
 当然、弟は家臣からひどく人気がある。特に、奥向きの侍女どもからの評判は圧倒的だ。反面、吉法師は蛇蝎だかつのように恐れられ、嫌われている。母の土田御前ですら、自分を疎んでいる。
 かと言って、その現実が吉法師の心を憂鬱にさせ、会いに行く足取りを重くさせるということはない。そんな臆する気持ちは、もう数年前にどこかに置き忘れてきた。代わりに生まれたのは、満たされぬ怒りだ。十一歳の今は、鬱屈した憤懣ふんまんが常にくすぶっている。
 ふん――。
 嫌いたければ存分に嫌えばいい。可愛げのある勘十郎のほうが好みなら、後生大事に雛壇ひなだんにでも飾っておけばいい。どうせ会わなければいけないのなら、さっさと済ませるに限る。
 末森城に着くと、家中の案内も請わずにずかずかと廊下を進み、奥向きの部屋に声もかけずに飛び込んだ。
 吉法師の突如の出現により、それまで笑っていたらしき侍女たちの笑みが一瞬にして固まった。土田御前も眉を寄せ、百足むかででも見遣みやるような目つきで顔をしかめている。
 昔からそうだった。この女が自分に向かって優しい笑顔を見せたことなど、一度でもあったか。いっそ他人であったほうが、まだましだ。
 母親の脇には、九歳になる勘十郎が取り澄ました表情で座っている。侍女どもお気に入りの雛人形だ。吉法師の姿を見たその顔が、不意に笑った。兄の珍妙な恰好がおかしかったのかもしれない。
 途端、吉法師の中で何かが弾けた。
 この、なんの気苦労もない極楽蜻蛉とんぼがっ――。
 こらえ性がないのも、吉法師の欠陥の一つだ。
「勘十郎っ」 足を踏み鳴らし、一気に弟の前へと飛び込む。「兄が、会いに来てやったぞ」
 言うと同時に手のひらで弟の頭をはたいた。侍女たちの悲鳴が上がり、母親の叱責しっせきが飛ぶ。
「これっ、なにをしやるっ」
「挨拶でござる」
 答えた時には、弟を足蹴にしていた。ひどくではない。その肩口を、足の裏でやんわりと押しただけだ。しかし、大人の前での演技がうまい勘十郎は、さも強く蹴られたかのように畳の上に裏返った。侍女たちはさらに喚き散らした。
 ごっ、と額に激しい衝撃を感じた。足元を見ると、茶壺が一つ転がっている。弾正忠家の世継ぎに向かってこんなことをする者は、この場には一人しかいない。吉法師は母親を見た。相手は険しい顔つきで吉法師を睨み、右の袖が大きく乱れている。
 一瞬、悲しみが心を横切り、憤怒に、そして軽蔑に変わる。
 感情を制御できないのは、この母親も同じだ。いわば、似た者同士だ。
「へっ」
 何故か、喉の奥からそんなあざけりの声が出た。織田家中はどこもかしこも愚人どもの集まりだ。特に、ここはそうだ。馬鹿馬鹿しい。
 気づいた時には、足元の茶壺を思い切り蹴り上げていた。逃げ惑う女どもの頭上を飛んでいき、柱に当たって粉々に砕けた。
「吉法師っ、われはなにをしに来たのじゃ」
 まるで二度と来るなと言わんばかりの口調だった。母の声に滲む剥き出しの憎悪に、吉法師は物も言わずに部屋を飛び出た。いつものことながら、今回もまた散々な訪問に終わった。

書籍

『信長の原理』

垣根 涼介

定価 1944円(本体1800円+税)

発売日:2018年08月31日

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    書籍

    『光秀の定理』

    垣根 涼介

    定価 821円(本体760円+税)

    発売日:2016年12月22日

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