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試し読み

【映画公開記念!原作小説試し読み】森見登美彦『ペンギン・ハイウェイ』③

小学4年生のぼくが住む郊外の町に突然ペンギンたちが現れた。
この事件の謎を研究することにした僕は――。
映画公開を記念して、本作の試し読みを「カドブン」にて3日連続で実施します!

>>第1回から読む
 

 ぼくは雑誌をパタンと閉じた。スズキ君がびくりとした。
「スズキ君」とぼくが声をかけると、彼はもっとびくりとした。眉を寄せ、「なんだよ」と言った。
「君もあの病気? 顔色を見ればぼくには分かるな」
「あの病気って?」
「スタニスワフ症候群さ。歯の中にばい菌がいっぱいになって、歯をぜんぶ抜かないと治らないやつ」
「なんだよそれ。知らない」
「え? 知らないの。ぼくはもうぜんぶ抜いたよ。一度にぜんぶ抜くとごはんが食べられなくて死んでしまうから、毎週少しずつ抜くんだ。そうして抜いたところに人工の歯を差していく。君も同じ病気だな、おそらく」
「俺はそんな病気じゃないってば」
 彼は怒った。「歯のつめものがとれちゃったんだ! 母さんが言ったぞ」
「母親はみんなそう言って安心させるものだよ。なぜならば、歯をぜんぶ抜くって言ったら、子どもがこわがって歯医者に行こうとしないから。でもこれから何をされるか、君には知る権利があるとぼくは考える」
「まじかよ……」
「病気の進行を食い止めるためには、歯を抜くしか方法はない。ばい菌が歯茎から体の中に入ると、顔がおまんじゅうみたいに|腫《は》れ上がるよ。高熱が出て、歯の隙間から苦い味のエノキダケみたいなものが生えてくる。顔も別人みたいに変わってしまって、苦しんだあげく死んでしまうんだ。ヨーロッパから来た奇病で、今政府は大騒ぎをしているんだよ。新聞に毎日のってるじゃないか」
「俺、新聞なんか読まないもん……」
「だから先生に頼んで、早めに歯をぜんぶ抜くことを勧める。口にキノコが生えるよりマシだろ。一ヶ月ぐらい痛いのをがまんすればいいんだからカンタンだ」
 窓口から「スズキ君、どうぞ」と呼ばれた時、スズキ君帝国初代皇帝の顔は凍りついたように固まっていた。彼が診察室へ入っていった後、しばらくするとお姉さんが出てきた。閉じかけたドアの向こうから、スズキ君がしくしく泣く声が小さく聞こえていた。ぼくが雑誌を読んでいると、お姉さんはぼくのとなりに腰かけた。良い匂いがした。「こら、少年」と言い、お姉さんはぼくから雑誌を取り上げた。「なんであんなことを言うの、君という少年は」
「あんなこととは、なんですか?」
「このウソつき野郎。スズキ君に変なこと吹きこんだね。かわいそうじゃないの」
「かわいそう? かわいそうなのはウチダ君です」
「だれ? ウチダ君ってだれよ」
「教えてあげません。これはぼくらだけの問題だからです」
「この根性ワルが。はぐらかし方を覚えてきたな」
 お姉さんは「ああナマイキナマイキ」と言うと、ソファにどっかりと腰を下ろして、雑誌を太ももの上でめくった。受付の人が「ねえ」とささやくと、誌面に目を落としたまま「ちょっと待って」と言う。「今この子に教育的指導をしてるとこ」
 そのまま彼女は雑誌を読んでいる。
 ぼくは手を膝に置いて、背筋をのばした。それからお姉さんの横顔をのぞき見た。彼女はいつも「海辺のカフェ」で本を読んでいるときのように、ふんふんと繰り返しうなずきながら、雑誌の記事を読んでいる。まるでぼくのことなど忘れているかのようである。時計がコチコチ鳴っている。受付の人は心配そうな顔をしている。ぼくはこのままお姉さんがサボっていると先生に叱られるのではないかと考えた。
「ぼくは少しおとなげないことをしたかもしれません」と言った。
「いや、君、オトナじゃないだろ」
 お姉さんは顔を上げずに言った。「だから、好きにすればいいんじゃない?」
「スズキ君はウチダ君にひどいことをするんだけれども、でもウチダ君はぼくに何かしかえしをしてくれと言ったわけではないです。だからスズキ君に対してぼくがウチダ君の代わりにしかえしする権利はなかったんです。少なくともぼくはウチダ君と話し合ってから、こういうことをすべきでした」
「君もややこしい子だねえ……おお、あったあった。ねえ、見てごらん、これ」
 お姉さんがじっと見つめているページには、岩場をうめつくしてならんだペンギンたちの写真がのっていた。お姉さんは鼻を鳴らし、「ペンギンってのも謎だね。わけが分からんねえ」と言った。その時、ぼくは朝のペンギン事件について、お姉さんに話してみようと思った。なにしろ事件現場は歯科医院のおとなりの空き地なのだ。けれどもお姉さんが「私はペンギンが好きよ。シロナガスクジラも好き。カモノハシもね」と言ったので、思わず「カモノハシ科カモノハシ属ですね」と言ってしまった。
「なにが?」とお姉さんはけげんそうな顔をした。
「カモノハシが」
「カモノハシが何だって?」
「カモノハシ科カモノハシ属です。図鑑でしらべたんです」
「ふうん、そなの。でもまあそんな事実も、彼らの妙なかわゆさの前ではどうでもよくなるよ」
「そうですね」
「これ、今のうちにもらっとこ」
 彼女は雑誌のページをびりりと音を立てて破った。そうして、自分のものにした写真を眺めながら「これ、ちょっと君に似てるねえ」と言った。「ちっちゃいくせして気取っちゃって」

    ○

 歯の治療が終わるころには夕陽がさして、街は金色になった。
 歯科医院を出たあと、ぼくはとなりの空き地に入った。ペンギン出現地点をもう一度調査してみようと思ったのだ。サバンナみたいに草が風にゆれているだけで、ペンギンは一羽もいない。大人たちがトラックにのせて、どこかへ運んでしまったのだろう。空き地はいっそうからっぽになったみたいに感じられた。
 空き地の真ん中までいって空を見上げると、自分がサバンナにころがっている石ころになったような気がした。とはいっても、これはあくまでたとえである。石ころの気持ちは、さすがのぼくにも分からない。
 空はクリーム色のまじった水色で、宇宙科学館のプラネタリウムで見た空に似ていた。ドームのようにまるい空を、くっきりした飛行機雲が横切っている。飛行機雲の先端には小さな旅客機があった。じっと見つめていると、旅客機はすべすべした曲面を滑るように動きながら、今も飛行機雲をちょっとずつ延長しているのだ。
 小さな銀色の粒がゆっくり動いて線を描いていくのがおもしろいので、ぼくはずいぶん長いこと空を見上げていた。おかげで首が痛くなった。飛行機雲があると、ついずっと見てしまう。ぼくはウチダ君といつの日かスペースシャトルの発射を見にいく約束をしたことがあったけれど、そんなに面白いものを見物したら、ぼくの首は当分もとに戻らないだろうと思う。
 ペンギンたちは今ごろどうしているだろうか。なぜ彼らは急にこの街にやってきたのだろう。ひとつ、この事件を研究してみなくてはならない。
 ぼくは名探偵シャーロック・ホームズみたいに手を後ろで組んで、ゆっくり歩いた。空き地の向こうには歯科医院の窓が見えていた。ふいにお姉さんが窓から顔をのぞかせて、ニッと笑った。
 彼女はぼくのことを「ナマイキ」と言う。ぼくが小学生だと思って、油断しているのだろう。ぼくが日頃の努力の結果、めきめきと頭角を現していることを知らないのだ。
「なめてもらっちゃ困るな!」とぼくはつぶやいてみる。
 草をゆらすひんやりとした風にのって、どこかの台所からおいしそうなカレーの匂いがただよってきた。それはひょっとすると、ぼくの家の台所からただよってきた匂いかもしれなかった。裏口のドアを開けて手をふる母の姿が見えるような気がした。
 そのとたん、ぼくはお腹がすいてしまい、そのうえねむくなりさえした。

(このつづきは、本編でお楽しみください)
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。



8月17日(金)全国ロードショー
>>映画「ペンギン・ハイウェイ」公式サイト

◎一冊一冊、未来に進め。
>>カドフェス2018 特設サイト

※『夜は短し歩けよ乙女』、『四畳半神話体系』も対象!


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