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特集

篠田節子作家生活25周年記念作品『インドクリスタル』取材旅行記

デビュー二十五周年記念作品として、インドを舞台にしたビジネス冒険大作『インドクリスタル』を書き上げた篠田節子さん。第10回中央公論文芸賞を受賞した本作が1月25日に文庫化されます。
意外にもこの本のための取材で初めてインドに足を踏み入れたという篠田さんに、特別に取材旅行記を書き下ろしていただきました。

<この記事は「本の旅人」2015年1月号に掲載されたものです>

うっそうとした茂みが広がります

インド人も行ったことのない奥地へ

「朝、ベッドから出たら、靴をはくまえに必ず振るうんだよ。サソリが入っているからね」
「鉱山の帰り道はね、行けども行けどもスラムですよ。一面、灰色なんです。凄まじい光景です、ただただ気分が塞いできますよ……」
「ホテルのベッドは汚いし虫がいますから、袋状のマイシーツはマストです」
「僕の友達の男がさ、寝台車で軍人に犯されたんだよ」
「どんな人でも、絶対、下痢しますから。で、トイレは——以下省略——」
 ビジネスマンからバックパッカー、そして元外交官まで、だれもが怖い話を聞かせる。極めつけは、紺のターバンを巻き付けた旅行会社の社長さん(もちろんインド人)だ。
「そんな田舎、僕も行ったことがない」

チリカ湖。インド東部、ベンガル湾に面したインド最大級の汽水湖。面積は琵琶湖の2倍

したたる緑 美しい家々

 オリッサ州の州都、ブバネシュワールから車で約九時間。共産主義過激派の跳梁跋扈する山中を避け、アンドラプラデッシュ州を経由する高速道路で大回りして先住民族の町ラヤガダへ向かう。
 反対車線を使って追い越しをかける話は聞いていたから驚きはしなかったが、まさか高速道路を山羊、牛、水牛の群れが行進し、籠を頭にのせたおばさんや子供が横断しているとは……。ときおり路面には山羊や牛の轢死体が転がっている(さすがに人間のはない)。

道路には牛

 テンションを極限まで上げ、ヤケクソ気分で到着したラヤガダは、サリー姿でバイクに乗ったかあちゃんたちが行き交う、何やら開放的な感じの町だった。ホテルにサソリは出ず、汚れ具合も我が家と大差ない。
 現地のNGO(非政府組織)の方々に案内していただき、バリ島を雄大にしたようなしたたる緑の中を一時間半ほどかけてマリ族の村、タンディプールへ。車を降りると異臭が鼻をついた。道の両脇に人と家畜の糞が層をなしている。
 踏まないように抜き足差し足で集落に入ると、内部は掃き清められたような赤土の小道が美しく、屋根の低い草葺きの家が整然と連なっている。垣根の間から子供たちが好奇心一杯の視線を送ってくる活気のある村だ。しゃれた文様の描かれた土間から、低い入り口を通って家の中を見学させてもらうと、土間にベッドが置かれただけの真っ暗な寝室と竈やこね棒のある台所を抜け、狭い中庭に出る。植木や神棚の周りを鶏が歩き回るすこぶる心地好い空間だ。屋根が低く開口部が前後にある造りは、風の強い地域でもあり、突風を家の内部を通して逃す工夫らしい。いくつか回った村ごとに家の造りは異なっていたが、緑濃い自然に溶け込む家々の美しいたたずまいは共通している。
 空のペットボトルを差し上げたお返しにと、近隣の村の女性にいただいた小さな茹でトウモロコシは、幼い頃に食べた甲州種に似て硬く、噛みしめるほどに香ばしい。
「部族は怖いから怒らせないように」とNGOの方には忠告されたのだが、行く先々で会った人々のだれもが、苛烈なインドのイメージを覆すように、人あたりが柔らかく、笑顔に濃い情を滲ませていた。

タンディプール村の皆さんと

食堂で食べたミールス。安くて美味しい!

圧倒的な貧しさ 封じられた未来

小学校の建物

 長閑な村に見えるが、人々の生活は、電気は一部だけ、水道、トイレはない圧倒的な貧しさの中にある。平日の午前中から村の小道に子供が群れているのは、義務教育から遠ざけられているということでもある。サリー姿の児童のような母親が赤ん坊を抱いている図は、「文化の多様性」では糊塗できない、未来を封じられた女性たちの姿そのものだ。
 マオイストが入り込み活動拠点を築くのはそういう村だ。貧しいが美しい村は、いつ対政府軍、対警察との戦場に変わるかわからない。
 今回、私たちを案内してくれたインドのNGOが取り組んでいるのは、先住民の経済力の向上や教育の普及だ。マオイスト勢力の動きを根本的に封じ込めるものは掃討作戦ではなく、貧困や差別の解消であることを考えれば、彼らの活動が単なるヒューマニズムを越えた、より政策的で国内の安定に関わるものなのだと納得する。
 雨宿りをさせてもらったバトポラシ村では、母親にだっこされた赤ん坊が私の人差し指をぎゅっと握り締めてきた。その湿り気と意外な力強さを思い出すにつけ、その小さな手が、より明るい未来をつかみ取ってくれることを祈るばかりだ。

赤ちゃんが指をぎゅっと

NGOの皆さんと

しのだ・せつこ 1955年東京生まれ。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。97年『ゴサインタン—神の座—』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。著書に『夏の災厄』『第4の神話』『ブラックボックス』『長女たち』など多数。


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