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薬丸岳さんの衝撃と感動の社会派ミステリ、『悪党』がWOWOWでドラマ化!
5月12日の放送開始を記念して、『悪党』の冒頭部分を特別に公開します。
ドラマの前に、まずはこちらでお楽しみください!(全5回)
<<第1回へ
第一章 悪党
「よかったら一緒に飲まない?」
カウンターの端から声をかけられて、警戒心を持ちながら、振り向いた。
三つ向こうの席で酒を飲んでいた坂上洋一が、カウンターの上の酒瓶を指さしている。マッカラン18年。名前やだいたいの値段は知っているが、薄給の身なのでもちろん飲んだことはない。
「いやあ、そんな、悪いから」
そう言って、目の前のハーパーのストレートに口をつける。気づかれたのではないだろうかと、横目で坂上の様子を窺う。
「巨人ファンだろう。一緒に祝おう」
先ほどまで坂上とバーテンダーはナイターの話で盛り上がっていた。バーテンダーから話を振られて、巨人ファンだと話をあわせた。本当は野球になど興味はない。
坂上がバーテンダーに目配せをする。私の前にマッカラン18年のストレートが差し出された。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
グラスを坂上にかざして、高価な酒を遠慮なく喉に流し込む。芳醇な香りが口中に広がってきた。だが、坂上のおごりだと考えると、気持ちよく酔うことはできない。
「あまり見かけない人だな」
坂上が訊くと、バーテンダーが「初めてですよね」と言い添えた。
「少し飲みたくて。いい店だね」
当たり障りのない言葉を返す。調査対象者に近づき過ぎたのではないかと心配になる。
坂上を尾行していた私は、このバーに入るべきかと悩んだ。本来なら、今までの時点で調査は終了になる。必要以上に深入りすべきではないとわかっていたはずだ。だが、この男の過去が、私に仕事の一線を少し踏み越えさせたみたいだ。
「仕事は何をやってるんだ?」
人懐っこい笑顔で訊いてきた。
坂上の表情を見ているかぎり、どうやら、私の存在には気づいていなかったようだ。
酒場で話をしているだけなら気のいい兄ちゃんに思えた。センスのいいブランド物のスーツが、本来持ち合わせているであろうこの男の粗暴さを包み隠しているのだろう。
「今はちょっとふらふらしている……」
まさか探偵をやっているとは言えない。適当な職業を騙って、後で墓穴を掘るのも面倒だ。世間で話題になっている日雇い派遣で何とか食いつないでいると答えておいた。
「いくつ」
「二十九」
「おれと同い年だ。派遣じゃ生活も安定しないだろう」
坂上が微笑みながらちらっとバーテンダーを見た。
優越感に浸っているのだろう。傍から見れば、まさに勝ち組と負け組の典型だ。
「ああ、大変だね。いつ首を切られるかわかったもんじゃない。そういうあなたはどんな仕事をしているんだ? 見たところ、おれとは違って一流企業かなんかにお勤めのようだけど。おれなんか一生かかってもこんな酒をボトルになんかできない」
「一流企業なんかじゃないさ。おれは学がないから一流企業には入れない。だけど頭は使いようで、それなりの知恵と度胸があればこの程度の酒は飲めるようになるさ」
坂上が得意げな表情で語った。
「どんな業種かな」
一応、訊いてみた。
「セールス業みたいなもんかな。おれはそこの部署の営業マンたちを束ねる管理職といったところだ」
セールス業か──物は言いようだ。
坂上が勤めているという会社の光景を、隣のビルの非常階段からずっと見ていた。数人の若者たちが一日中とっかえひっかえ携帯電話をかけている。怪しげな会社だ。断言はできないが、おそらく振り込め詐欺グループの拠点になっているのだろう。
「おれなんかでもあなたみたいな生活ができるかな」
皮肉交じりに訊いてみる。
「どうだろうな……それなりの生活を求めれば、それなりの苦労もある」
ドアが開いて、女性が入ってきた。
「りさ、遅かったな」
坂上が女性に手を振る。
女性はショートカットの髪にジーパンとTシャツという身なり。肩から大きなバッグを提げていた。坂上の連れにしては地味な印象を受ける。
私に軽く会釈をして、りさは坂上の隣に座った。
りさという女性に見覚えがある。池袋から四駅目の本郷三丁目駅の近くにあるマンションで坂上と一緒に生活している女性だ。マンションを張っているときに何度か目撃した。表札には坂上と遠藤というふたつの名前があったから、ふたりは同棲しているのだろう。
私にはもう興味を失ったように、坂上がりさと話し始める。
ハーパーのストレートにスイッチして、それとなく聞き耳を立てた。
りさは介護ヘルパーの仕事に就いているようだ。今日世話をした老人の話や、仕事の大変さを恋人に語っている。坂上はりさの話に相槌を打ちながら聞き入っていた。
ふたりの会話を聞きながら、疑問を感じている。
毎日、老人の介護に追われるヘルパーの女性と、人を騙した金で豪遊を繰り返す坂上のような男との結びつきはいったいどういうものなのだろうか。りさは坂上のことをどれだけ知っているのだろう。坂上の過去と、坂上の今を──
興味はあったが、これ以上この男の近くにはいたくなかった。その気持ちが勝った。
「ごちそうさま」
チェックを済ませると、立ち上がって、坂上に会釈した。
「もしさっきの話に興味があったらまたこの店にきなよ」
坂上が私に声をかけた。
「そうするよ」
「名前は」
「佐伯──」
本名を名乗った。もう会うことはないだろうと思ったからだ。
ショットバー『ドール』を出て、池袋駅に向かった。まだ終電に間に合う時間だ。
東武東上線に乗って川越に向かった。仕事場は大宮にあるが、今夜はこのままアパートに帰って寝るつもりだ。十日間の調査活動で疲れ果てていた。
明日の朝一番に出勤して調査報告書を作成しなければならない。それから依頼人である細谷博文に連絡をする。
吊り革につかまりながら、窓外の暗がりに目を向けていると、陰鬱な感情がこみ上げてきた。細谷夫妻の顔が脳裏によぎったからだ。
初めて対峙したとき、初老の夫婦の表情は弱々しかった。だが、そんな弱々しさの中に、切羽詰まった憎悪を心の中で煮えたぎらせていたであろうことが今回の調査でわかる。
細谷夫妻が私の勤める『ホープ探偵事務所』を訪ねてきたのは十日前のことだった。
最初の直感で、家出人の捜索のために来たのだろうと思った。夫婦揃ってやってくる場合、たいていは身内の、特に子供が家出をしたので捜索してほしいというケースが多いからだ。
だが、細谷夫妻の依頼は、十一年前まで埼玉県の川口市内に住んでいた坂上洋一という男が今どこに住んでいて、どんな生活を送っているのかを調査してほしいというものだった。
さっそく十一年前からの坂上の足取りを調査していくと、依頼人と坂上との関係がくっきりと浮かび上がってきた。坂上は十一年前に細谷夫妻のひとり息子である健太を殺していたのだ。
坂上は高校二年生のときに学校を中退している。恐喝や窃盗を繰り返す地元でも有名なワルで、健太とは中学校のときの同級生だった。病弱な両親のために高校在学中から近くの工場でアルバイトをして家計を助けていた健太を、坂上はたびたび恐喝していた。抵抗を示す健太への暴行はどんどんとエスカレートしていく。そして給料日の夜、待ち伏せしていた坂上は健太を公園に連れて行き殴る蹴るの暴行を加える。給料の四万円を奪うと、ぐったりとした健太をそのまま放置して、夜の街に繰り出した。健太はその夜、外傷性ショックのため亡くなったのだ。
傷害致死の容疑で逮捕された坂上は家庭裁判所の審判で少年院に入った。だが、事件後、坂上の家族は行方をくらまし、坂上も家族も細谷夫妻のもとを訪ねて謝罪することはなかったという。
自分たちのひとり息子を殺した坂上が、今どこにいて、どんな生活を送っているのかを知ることは、依頼人にとってみれば切実な願いなのだろう。
調査自体は容易いものだった。坂上は事件から二年後に少年院を出ている。事件当時住んでいた川口市内から出ていたが、昔の悪い仲間たちとはいまだに交遊を持っていた。
行きつけだという飲み屋を知り合いから聞きつけて三日間張っていると、簡単に坂上の姿を捉えることができた。それから今日を含めて四日間、坂上を尾行して、本郷のマンションや、毎日出勤している池袋の雑居ビルを確認したのだ。
昼前、坂上がマンションを出て池袋の雑居ビルに向かう。夜の七時ごろには仲間たちとビルから出てきて、一緒に食事をとり、高級クラブをはしごする。経費が少ないから、さすがに店内での様子は確認できなかったが、これがこの四日間の坂上の日常だ。
今夜はクラブから出てきて仲間たちと別れた坂上が、ひとりで先ほどのバーに入っていった。迷ったすえに、二十分後、店内に入ってみることにした。
依頼人と坂上との関係を知ってから、胸糞の悪い思いを抱きながらの調査だった。
だが、それも今夜でお終いだ。この調査結果を細谷夫妻に知らせれば仕事は終わる。坂上の居場所を知った依頼人が、これからどうしようというのか、それは考えないことにしよう。
「調査を続けていただけませんか」
向かいのソファに座っていた細谷が切り出した。隣に目を向けると、細谷夫人もうなだれた恰好で、小さく頷いている。
「今回の調査では不十分ですか」
私の隣に座って話を聞いていた所長の木暮正人が、口ひげに手をやりながら言う。
三十分前に細谷夫妻が事務所を訪ねてきてから、四人で向かい合って、調査結果について話をしている。
「けっして今回の調査に不満があるわけではありません。あの男がどこに住んでいて、どんな生活を送っているのかをきちんと調べてくださった。私たちが自力で調べようと思っても難しいでしょう。ですから、これからの話はあらためてのお願いということです」
六十に手が届こうかという初老の細谷は相変わらず弱々しい表情をしている。だが、言葉のひとつひとつには揺るぎない強さを感じさせた。
「健太を殺した坂上は逮捕されて、二年間少年院に入っていました。法律的には罪を償って社会に出てきたということになるのでしょう。ただ、私たちにはとうてい納得などできないのです」
「では、これからどういったことを調査するべきでしょうか」
木暮が問いかける。
「あの男を赦すべきか、赦すべきでないのかが知りたいのです。赦すべきならばその材料を見つけてほしい」
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