1月11日(金)発売の「小説 野性時代」2019年2月号では、長浦京「ルーザーズ1997」の連載がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開します。
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中国返還直前の香港で負け犬たちの復讐が始まった!

農水省を逐われた元官僚の古葉慶太は、再就職した証券会社でイタリアの富豪から、ある計画を持ちかけられる――。




    二〇二一年五月二十四日、月曜日

 更衣室のドアがノックされ、着替えの途中で店長に呼ばれた。
 すぐに出てきてほしいと緊張する声でいわれた瞬間、外に何が待っているのかわかったし、不思議なくらいに怖さもなかった。
 なのに、「待ってください」と答え、脱いだばかりの制服をハンガーにかけたあと、私は少しの間、ロッカーの中で揺れるマルーン色のエプロンをぼんやり見つめていた。
 自分でも驚いたけれど、名残惜しかった。
 大学時代にバイトをはじめて五年。焙煎したコーヒーや温めたマフィンの香りに、こんなにも愛着と居心地の良さを感じていたなんて、ずっと気づかずにいた。
 でも、そんな身勝手な感傷はすぐに断ち切られた。
「開けていただけませんか」強いノックとともに女の声がいった。「そうしないと鍵を壊すことになりますよ」
 引き延ばす理由はない。だからすぐにドアを開いた。
 まだボタンを留め終わっていないブラウスの胸元から覗くブラジャーを見て、外で待ち構えていた何人かの背広の男と店長はすぐに顔を背けた。
 先頭に立つパンツスーツの女ふたりは、臆することなくこちらを見ている。
古葉こばアン・スアン瑛美えいみさん。不正アクセス禁止法違反と電子計算機損壊等業務妨害罪の疑いで逮捕します」
 女のひとりが逮捕状と警察の身分証を見せ、もうひとりが私の腕からバッグと上着を奪ってゆく。
「手錠をかけるのは車内に移ってからにしますから。暴れないでくださいね」
 私は胸元のボタンを上まで留めながら頷いた。
 警察官たちに囲まれ、コーヒーショップのバックヤードを進んでゆく。バイト仲間たちが、気味悪がっているような、哀れんでいるような顔で見ている。悲しくはない。仕事以外で話したことはないし、友達でもなかったから。
 ただ、店長にだけは「ご迷惑かけました」と頭を下げた。接客マニュアルに載っていることしかいえず、五年勤めても下手な作り笑いしか見せられなかった私を、半ば呆れながらも使い続けてくれたのはこの人だった。
 裏口の前に停まったバンの後部座席に押し込まれると、すぐに手錠をかけられた。
 平日の昼、渋滞する昭和通りを進んでゆく。
 スモークガラスの向こう、ビルの隙間に東京証券取引所が見えたときは、感謝に近い不思議な気持ちが湧いてきた。何をしてもらったわけでもない。でも、あの建物の周りに集まる人たちのデータを奪い取ることで、普通の二十代の女性より少し贅沢な生活を、私は今日まで続けることができた。
「仕事場に押しかけてごめんなさいね」
 右隣に座る女性捜査官がいった。
「申し訳ないけど、こっちの都合でそうさせてもらったの」
 どうして店だったのだろう? 逮捕なら自宅マンションを出たところで十分だったはずだ。ただ、建物の周りを囲んでいる段階で気づかれる可能性もある。
 逮捕が近づいていると私に知られれば、部屋にあるデータをすべて消去される危険があったからだ。わざわざバイト先で逮捕したのは、狭く窓のないドアひとつの更衣室で声をかけ、逃げ場のないことを悟らせるため。それに、携帯からの遠隔操作では、部屋に残してあるデータの痕跡を完全には消せないことも、警察は調べて理解していたのだろう。
 ――この人謝ってるんじゃない。すべて掴んでいると穏やかに恫喝しているんだ。
「あなたは自分で組んだスパイウエアを、バイト中に携帯から客のモバイルに無作為に飛ばし、持ち帰らせ、オフィスのパソコンに二次感染させた。主な標的は証券会社。あのバイト先の店は流行ってたし、SNSであなたに関する書き込みや隠し撮りの画像を見つけたわ。あなたのファンみたいな客も多かったんでしょう? 一日百人単位で感染させれば、セキュリティーにルーズな人間も必ず週にひとりふたりは見つかるものね。そして社外秘の短期株価分析や投機計画を、違法に入手した他人名義のメールアドレスに転送させた。スパイウエアは三時間後には自己消滅してしまう。証拠が残りにくくて難しかったけど、半年間追いかけさせてもらったわ」
 何もいわず前を見ている私に、彼女は言葉を続ける。
「盗んだデータを元に投資してたんでしょ。少額ずつこつこつ続けて、ずいぶん儲けたみたいね。そりゃ、大手のプロが全力で分析した結果にタダ乗りしてたんだもの。あなたの個人的な問題についても調べさせてもらったの。スキゾイドパーソナリティ障害。他人と親密な関係を持ちたいと思わず、一貫して孤立した行動を取る。ただの孤独好きとは全然違って、人づきあい自体が大きな精神的負担になるんでしょ。確かに生き辛いだろうし、会社勤めも難しいかもしれない。でも、だからって誰かの知的財産を横取りしていいわけじゃない。あなたのしたことは、れっきとした犯罪行為だから」
 かぶと町の中央警察署に着くと、はじめに両手の掌紋と指紋、顔の立体写真を撮られた。
 取調室は狭くて細長く、ついさっきまでいた更衣室とあまり変わらない。部屋の奥に座らされ、目の前に置かれている事務机がバリケードのように感じる。確かにこれじゃ逃げられないな。窓はなく、人権的な配慮なのか、入口のドアは開いたまま。外のフロアーで働く警察官の話し声や電話の音が聞こえてくる。
 バンの中で手錠をかけた女性捜査官が前に座った。彼女が取り調べをするようだ。パイプ椅子に手錠と腰縄でつながれ、はじめに弁護士を手配する権利について説明された。
「呼んでください」と私はいった。
「じゃ、当番弁護士に連絡するから」
「いえ、私の指名する方をお願いします」
「電話番号わかる? 何ていう弁護士さん?」
「財布の中に事務所の名刺が入っています」
「わかったわ。連絡させておく」
「私に電話させてもらえませんか」
「あなたが直接連絡を取ることはできないの。担当の人の名前をいってくれれば、必ず今日中に伝えるから」
 義父に教えられた通りだ。弁護士との接見をなるべく遅らせ、その間に取り調べを進めようとしている。
「じゃあ私の目の前で、今すぐ連絡を取っていただけませんか。できますよね」
 捜査官は露骨に嫌な顔をしたが、五分後には若い男の警察官が私の財布を持って入ってきた。その男が財布からグールド&ペレルマンという法律事務所の住所と連絡先が書かれたカードを出し、電話をかけた。
「いきなり英語で話したりしないよね」男に半笑いで訊かれたけれど、相手にしなかった。
 漏れてくるコール音を聞きながら、私も緊張していた。知っているのはグールド&ペレルマンが、ワシントンD.C.に本部のある外資の事務所ということだけ。問題が起きたら電話するよう亡くなった義父からいわれていたけれど、これまで一度も連絡したことはなかった。
 男が話し出した。電話の向こうの女性の日本語に従い、カードの裏にあるアルファベットと数字の交じった登録番号を伝えてゆく。
「すぐに来るそうですよ」男がいった。
「顧問弁護士?」女性捜査官が訊いた。
「違います」
「ふうん」といってから、何か飲むかと訊かれた。

(このつづきは「小説 野性時代」2019年2月号でお楽しみください)
☆本誌では、著者・長浦京さんへのインタビューも掲載!

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書籍

「小説 野性時代 第183号 2019年2月号」

小説 野性時代編集部

定価 864円(本体800円+税)

発売日:2019年01月11日

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