2018年のはじめ、Twitterで話題になった『仙境異聞』。2018年12月22日に、訳しおろしの文庫版(抄訳)を発売します。このたびは、刊行に先がけて、書籍の一部を限定公開!
時は江戸時代後期の文政年間。天狗や山人が棲むという「仙境」と、この世を行き来できると語る少年が現れました。少年の名を寅吉といいます。
お話しは、国学者である平田篤胤のところに知人が訪れ、「天狗少年のところに行ってみないか」と声をかける場面からスタートします。
さあ、世にも奇妙な天狗譚の、はじまり、はじまり――。
天狗小僧の噂
文政三年(一八二〇)、十月一日の夕七つ時(午後四時頃)のことだった。私(平田篤胤/注1)のところに屋代弘賢翁(注2)が訪ねてきて、次のようにおっしゃった。
「山崎美成(注3)の許に、いわゆる天狗に誘われた後にだいぶ年月が経ち、天狗の使者となっている童子が来ているそうです。その子が彼の境(この世ではない場所。仙境)にて見聞きした事を語った由を人から聞くに、あなた(篤胤)がかねてから考え、また文章に記している説などと、よくよく合致する事が多い。私は今、美成のところに行って、その童子を見ようとするところです。ついてはご一緒なさいませんか」
私は常々、このような者(彼の境の様子を知る者)に直接会って色々なことを問いただしたいと思っていた。そのため非常に嬉しくて、ちょうど伴信友(注4)が訪ねて来ていたところではあったが、「すぐに戻るから」と言い置いて、美成の許へ、屋代翁と連れ立って出かけたのである。
山崎美成というのは長崎屋新兵衛という薬種商で、かつて私の許で学んだ後は小山田与清(注5)に従い、今は屋代翁の許で学んでいる、幅広い読書を好む男である。家は下谷の長者町(現在の東京都台東区上野界隈)にあり、私が今住んでいる湯島天神の男坂下(現在の東京都文京区湯島天神男坂下界隈)という所からは、七、八町(約七六〇―八七〇メートル)ばかりもあろうか。屋代翁の家と、美成の家とは、四、五町(約四四〇―五五〇メートル)ばかり離れている。
さて、私は美成の家を目指す道すがら、屋代翁に次のようなことを言った。「神誘い(注6)になった者は、その言葉がおぼろおぼろとしていて確かでなく、ことに彼の境のことに関しては、隠し包んではっきりとは言わないものです。その童子はいかがなのでしょうか」
すると屋代翁は、「たいてい、世間で聞くことのある神誘いの者はそのようなものですが、かの童子は包み隠さずに語るそうです。すでに蜷川家(注7)へ行った時には、遠い西の果てにある国々にも行き、迦陵頻伽(注8)さえも見たことがあると言って、その声も真似て聞かせたと美成が語っていました。近頃、ある所で、彼の境に誘われた者が、その様子を隠すことなく語っていたと聞きました。昔は彼の境のことが世間に漏れることを忌んでいたが、近ごろは、彼の境のことを少しも包み隠さぬようになったものと思われます。くわしく訊ねて、忘れずに筆記なされるように」と、繰り返し繰り返しおっしゃった。
私もうなずき、また心に次のようなことを思った。
昔は厳重に秘されていた現世の様子についての書物や事物であっても、今は世に明らかになっていることが多い。知ることの難しかった神世の道の隅々までも、次第次第に明らかになり、諸外国(注9)の事物、種々の道具などについても、年を追って世に知られることとなってきた。
そうしたことを思うに、これは皆、神の御心であって、彼の境のことまでも聞き知るべきである。いわゆる機運が巡り来たのだろうか、などと思い続けていたところ、間もなく美成の許に到着した。
(注釈)
1 平田篤胤 一七七六―一八四三。平田大角とも。本書(『仙境異聞』)の著者である国学者・神道家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田県)出身で、二十歳の時に国許を出奔して江戸へ出た。夢を通じて本居宣長没後の門人となったことを自認し、日本の神々や、幽冥界の探究に心血を注ぐ。
2 屋代弘賢 一七五八―一八四一。号は輪池。屋代太郎とも。江戸幕府御家人(右筆)、国学者。塙保己一に師事し、『群書類従』編纂・校訂に従事。
3 山崎美成 一七九六―一八五六。号は好問堂。新兵衛、久作とも。国学者の小山田与清に師事し、考証随筆を多く著す。江戸下谷の薬種商、長崎屋に生まれたが、学問に熱心なあまり家業を潰した。
4 伴信友 一七七三―一八四六。若狭国小浜藩(現在の福井県)出身。号は事負。州五郎とも。本居宣長没後の門人で、宣長の養子である本居大平に国学を学ぶ。篤胤とは当時、親しく行き来していたが、寅吉の一件については距離を置いていたようである。
5 小山田与清 一七八三―一八四七。高田与清。字は文儒、号は松屋、擁書倉など。寅之助、仁右衛門とも。 武蔵国多摩郡小山田村(現在の東京都)出身。国学者。擁書楼と名付けた私設書庫の蔵書を国学者の閲覧に供した。
6 神誘い 神隠し、天狗隠しとも。山などの神域に入った者が忽然と姿を隠すこと。
7 蜷川家 不詳。有職故実の学に長じた幕府御小姓組番士、蜷川親常(一七六八―?)の家を指すか。
8 迦陵頻伽 仏教語。人頭鳥身で美しい声で鳴くという想像上の生き物。『阿弥陀経』では極楽浄土に棲むとされる。
9 諸外国 原文「外国々」。江戸後期の知識人は文化・外交の側面から海外の国々を強く意識するようになっていた。幕府の役人だけでなく戯作者の曲亭馬琴なども海防政策に強い興味を持ち、また平田篤胤は『聖書』を含む西洋の神話知識を貪欲に吸収していた。江戸後期知識人の「仙境」への関心は、諸外国への関心とも関わりあっている。
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