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◎心あたたまる1位
それは過去から未来へつながる、家族と命の物語。
細田守監督が書き下ろした、映画「未来のミライ」の原作小説!
ほんの少し昔、磯子の街には、丘の上に横浜プリンスホテルがあり、水色の帯を巻くE209系がガタゴトと音を立てて根岸線を走っていた。国道16号を杉田の交差点から南下し、海洋研究開発機構の建物を横目に青砥山の坂道を上がってしばらく行った先の丘陵の、南側に面した傾斜地には、大きくて立派な家々が競うように肩を並べていた。その肩と肩のあいだに挟まれたような小さな土地に、小さな家が建っていた。小さな家には小さな庭があり、小さな木が生えていた。
ある日、結婚したばかりの若い夫婦がやって来て、小さな家と小さな庭と小さな木を見てすぐに気に入った。小さくともふたりで暮らすには十分な大きさで、そのうえ傾斜地のため格安だったので、早速契約を交わすと、不動産会社の担当者にカメラを持たせ、小さな家の前に立つ小さな木の前で、並んで写真を撮った。
彼らは、彼が運転する赤いボルボ240で引越しの荷物を運び込み、新しい生活を始めた。ふたりとも都心で遅くまで働く毎日だったので、休日にゆったりと過ごすことのできるこの家での時間を大切にしていた。本を読んだり、音楽を聴いたり、ちょっとだけ凝った料理を作ったりして過ごした。あるいは何もせず、夕方までただただひたすら眠ったりした。
総合出版社に勤める彼女は、真面目で責任感が強い完璧主義者。いい本を作るためには欠かせない性質を備えていた。が、裏を返せば神経質で、心配性で、ゆえに人の評価に敏感な性格だった。褒められてもわざわざネガティブに捉えてクヨクヨし、挽回しようと必要以上に頑張りすぎて、さらに疲弊する、という悪循環によく陥った。それでも周囲は、彼女の完璧主義を評価し、また頼りにするので、自分は神経質だと自分で気づきにくくさせた。
建築事務所に所属する彼は、芸術家肌のマイペース。元来は一人でいることを好んだ。それゆえに独創的で、世間や他人に流されない強さがあったが、悪く言えば頑固で聞く耳を持たず、ある意味鈍感で、興味のあること以外はいい加減で、協調性がなく、空気も読めず、普段は穏やかなくせに自分のペースを乱されると途端に怒りっぽくなり、仕事の締め切り間際にはしょっちゅうピリピリした。と、欠点を挙げ出せばきりがない。
このように性格的には対照をなしているので、大きなことから取るに足りない些細なことまで、ふたりはよく衝突した。が、それでも別れることなく生活を共にしているのは、性格を超えた相性というか、縁があったからなのだろう。
ある日突然、彼女が犬を飼いたいと言いだした。クリーム色のイギリス系ミニチュアダックスフントで、ペットショップで目が合って心を射貫かれてしまったのだと言った。彼は生活のペースが変わってしまうことを心配したが、結局、渋々承諾した。その翌週、夫婦の家に子犬がやってきた。赤い首輪をしてたまご形のゴムボールにかじりつく姿は、見ていて飽きることがなかった。その日の成長について、散歩の途中でのちょっとしたアクシデントについて、無防備な寝顔の愛らしさについて、いつまでも時間を忘れて語り合った。まるで子犬の親になったような気分だった。
彼女が妊娠したのは、結婚から6年目のことだった。
日に日に大きくなっていく彼女のお腹を、彼は定点観測のように写真に収めた。産婦人科で見せてもらうエコー画像。そのバウムクーヘンを切り取ったみたいな白黒の画面にちょうど収まるように、胎児の大きな頭と小さい体が見えた。足の間に、はっきりと映る男の子の証。心臓がピクピク動いているのを見て、彼の胸もバクバクと高鳴った。これから生まれてくるこの子の将来に、経済的な責任が取れるのだろうか、と。しかしそんな彼の憂鬱を置き去りにするように、彼女のお腹はどんどん張り出していった。彼女は予定通り産休を取り、慌ただしく出産に向けた準備をした。予定日より1週間早く、陣痛がやってきた。申し合わせていたとおり彼女のお母さんが上京してくれた。陣痛を促進させるために、助産師さんの指示で、彼に付き添われて夕暮れの公園をふーふー言いながら歩いた。その7時間半後、彼女は生まれたての赤い顔をした新生児と一緒に自撮り写真に収まり、やり遂げて晴れ晴れとした笑顔を見せた。そばで見守っていた彼女のお母さんは、これであんたもついに親になったんだね、と、長い旅を終えた旅人みたいにつぶやいた。
出産に立ち会ったあと、彼にやるべき仕事が与えられた。名前をつけることだった。新生児を前に、腕組みして唸った。事前に用意していたいくつかの名前候補は、目の前の顔と全く合っていないと思えたので、改めて一から考え直すことにした。産院での短い面会時間のあいだに彼女と相談を繰り返し、彼はついに答えを導き出したのだった。
「訓」。
読みは、くん、と呼ぶ。
かわいい名前だね、あまりほかにない名前だからみんなに覚えてもらえるかもね、と彼女は同意し、新生児に「くんちゃん」と呼びかけた。彼は半紙に筆で「命名 訓」と書いた。
アルバムには、彼と彼女のあいだで笑顔をはじけさせる男の子の、1歳ごろの写真が残っている。また、里帰りして病院にひいばあばを見舞った際、ひいじいじに抱かれて写る2歳ごろの姿がある。それらは同じ子のようでいて、決して同じではない。新生児であったものは、あっという間に乳児と呼ばれるものに変わり、そしてまた乳児は、またたく間に幼児と呼ばれるものに変わる。さらに、乳児の間にも無数のステップが存在し、幼児の間にもまた無数の成長の段階がある。子供を「子供」と一口にくくれないほど、目まぐるしく変化してゆく。親はそれら成長の軌跡を、できれば全て覚えていたいと欲するが、日々の出来事に対応するのが精一杯で、ちょっと前はどうであったかなど、驚くほどあっけなく、信じられないほど簡単に忘れ去ってしまう。子供の「今」をあれこれ気にかけ、またあれこれ「未来」を案じるのみだ。
彼と彼女は、子供が大きくなった時のことを考え、家を建て替えることを決心した。設計は彼がした。小さな庭に小さな木の生えた小さな家の周りに、工事用の足場が組まれた。現場監督にカメラをお願いして、いつかの夏と同じみたいに、並んで写真を撮った。
おとうさん、おかあさん、ダックス、そして3歳になった男の子。
このとき男の子は、まだ知らない。
おかあさんのお腹の中の新しい命を。
今にも雪を降らせそうな白い雲が、横浜の空全体を覆っていた。丘の上にあった横浜プリンスホテルはとっくに取り壊され、かわりに目新しいマンション棟がいくつも連なって建っていた。根岸線の車両も、E209系からE233系に替わった。レールも定尺レールからロングレールへと替わり、ガタゴトという音もしなくなった。何事も少しずつ変わっていく。気付かれないように。息を潜めるように。
小さな庭に小さな木の生えた小さな家は、新しく建て替わった。小さな庭は、前後を母屋と離れによって挟まれるような形となった。つまり、かつて前庭であったものが、場所を移動しないまま、中庭に生まれ変わったのであった。オレンジ色の瓦は再利用されて、新しい家の屋根にしっかりと置かれてある。その屋根でぐるりと囲まれた中庭に、あの小さな木の姿が見える。
クリスマスも目前の12月のある寒い日のこと、小さな男の子が、背伸びして子供部屋から窓の外を見ていた。幼稚園から帰ってきても名札も外さず、小さな台の上でいっぱいに爪先立ちをしていた。名札には「おおた くん(太田訓)」と書かれている。
子供部屋の壁には、幼稚園で描いた絵などと一緒に、男の子が生まれた頃からの写真がたくさん貼ってあった。おとうさんやおかあさんと一緒に撮った、笑顔の写真ばかりだ。9月の誕生日の写真もある。男の子は、4歳になってまだ2か月と半分しか経っていない。部屋のフローリングの床には、プレゼントにもらったおもちゃの鉄道車両とプラスチックのレールが、作りかけのまま投げ出してあった。
男の子は、ガラス窓の向こうに軽自動車が通過してゆくのを見送った。おとうさんの運転する赤のボルボ240を待っていたのだ。だがまだ当分やってくる気配はない。白い息がガラスを曇らせて視界を遮るので、手のひらで拭く。ガラスに額をくっつけると、暖かい息が鼻からぶおっと吹き出て、すぐ曇ってしまう。あれぇ、なんで? とまた手のひらで拭く。
「……まだかなぁ」
ため息が、またガラスを曇らせた。プリウスが、乾いた音を立てて通り過ぎていった。
ばあばが、スマホに耳を当ててリビングから降りてくる。
「そう。よかった……」
キャビネットには、小さなクリスマスツリーが飾ってあり、アドベントカレンダーは22日まで窓が開いている。ばあばはダイニングのガラス扉を開け、サンダルを履いて中庭を通り抜けた。
「うん。待ってるよ。はーい。気をつけて」
電話を切り、子供部屋のガラス扉を開けた。
「くんちゃん。おかあさん、これから帰って来るって」
台の上の男の子──くんちゃん──は、
「ほんと?」
と、嬉しさに目を輝かせた。
ばあばは、くんちゃんの前に目線を合わせてしゃがむ。
「ホントよ。楽しみ?」
「たのしみっ」
くんちゃんは手を広げて台から思いっ切りジャンプし、床に両手をついて、
「わんっ」
と吠えた。
「わんわんっ。わんっ。わんわんっ。わんっ」
電車やレールを蹴散らして、ばあばの周りをぐるぐる回った。おかあさんが帰ってくるのが嬉しくて嬉しくて仕方ない。
「うふふ。まるで子犬ね」
と、ばあばは苦笑し、提案するような口調で続けた。「くんちゃん、赤ちゃんは清潔なお部屋がうんと好き。だからお片付けする?」
「うん」
「自分でできる?」
「うん」
車両やレールを両手に抱え、次々とおもちゃ箱に入れてゆく。
「じゃあおねがい」
「うん」
「ばあば、上にいるからね」
「うん」
くんちゃんは片付けに夢中で、ばあばに一瞥もくれない。
ばあばは子供部屋を出て、ガラス扉を閉めた。
「ワンワン。ワンワン」
ミニチュアダックスフントのゆっこが、羽根ぼうきみたいなしっぽを振って、掃除機のヘッドに吠え立てている。
予定日より早く陣痛がきて産院に行ってしまったおかあさんに代わり、出産を含め1週間、ばあばが地方から上京して手伝いに来てくれていた。それまでおとうさんが少しずつ新生児を迎え入れる準備をしてきたのだが、ばあばはその時ちょうど風邪をひいていたくんちゃんの看病や、ゆっこの面倒などを見てくれたのだった。ばあばは今一度、ダイニングにざっと掃除機をかけ、念のため、リビングの絨毯に粘着カーペットクリーナーをコロコロ転がしてホコリを取り、洗濯済みの肌着の数は充分かを確かめ、もう一度最初から丁寧に畳み直した。畳みながら改めて、まだ新築の香りが残る家の中をゆっくり見回した。
「しかし、おかしげな家を建てたもんだね」
確かにこの家は、普通の一軒家とはかなり違う。傾斜地に家を建てる場合、一般的には擁壁を作り、切土盛土をして平坦な土地にする。しかしこの家は、傾斜した敷地に沿うように段差が作られていた。中庭を含む6つ全ての部屋が、まるで階段のように斜めに連なっているのだった。今、ばあばのいる洗濯機置き場、バスルーム、洗面所が一体になったスペースが、実は最上階である。そこから100センチの段差を降りたところにベッドルーム、さらに降りるとリビングがあり、またさらに降りたところにキッチンダイニングがある。ガラス戸を隔てて一段下がったところに、小さな木が立つ中庭があり、また一段降りると子供部屋がある。100センチの段差が、部屋ごとの仕切り代わりになっていた。ゆえに、ベッドルームから下の子供部屋までを一気に見下ろすことができ、またはその逆に、子供部屋から上のベッドルームを見上げることができた。
しかし、普通の家なら当たり前にあるはずの、部屋ごとを仕切る壁が、この家にはない、ということが、ばあばをなんとも居心地の悪い気分にさせた。
中庭から階段を降りたところに、玄関がある。玄関といっても、木製の分厚いドアがあるだけだ。ここでは靴を脱がず、中庭まで上がってから、ガラス戸の前にあるカーペットの上で靴を脱ぐ、というきまりだった。そういった独自のルールを強いられるところも、ばあばを少なからず苛立たせた。
この「おかしげな」家の設計者は、建築家であるおとうさんだった。
「建築家と結婚すると、まともな家には住めないってことなのかしら」
ばあばは、ほうきで玄関を掃きつつ、
「ねー、ゆっこ」
と、内緒話のように同意を求めた。
あとをついてきたゆっこは、その顔をじっと見て、
「ワン」
と答えた。
「ふうっ」
ばあばは、ゆっこと一緒に玄関から戻って来て、中庭から家中を確認するように見上げた。赤ん坊を迎える準備はこれですべて整った。やれやれこれで一安心、と、子供部屋に降りて扉を開けた。
「……あれ?」
中を見て、啞然となった。子供部屋は、張り巡らされた電車のレールで、足の踏み場もないほどに埋め尽くされていたのだった。
「くんちゃん……。さっきより散らかってるんですけど……」
片付ける、と言ったはずなのに。
くんちゃんは、レールとトンネルに囲まれながら、両手に持った車両を決めかねるように見比べた。
「赤ちゃん、E233系とあずさと、どっちが好きかな?」
「さあて、どっちだろうね」
ばあばは腰に手をあてて、ふうっ、とため息をついてから、中庭を見て聞こえよがしに言った。
「あれ? ゆっこが、お庭で遊びたそうにしているよ」
「ホント?」
「行ってきなよ」手で誘導して促す。
「行く」
電車を放り出して、くんちゃんは中庭へ駆け出す。
「ばあばが片付けておくねー」
ガラス戸をそっと閉めた。
水色のラインの電車が、踏切を通過し高架に上がり鉄橋を渡っている。
赤ちゃんがここへやって来るまで、もう時間がない。ぐずぐずしていては間に合わない。ばあばは一気に鉄橋を大股でずんずんと跨ぐと、ファーンと警笛を鳴らす電車を両手で鷲摑みにして止めた。
「いそげいそげ……」
たまご形ゴムボールのふたつの目が、じっとこちらを見ている。
その向こう、赤い首輪を着けたゆっこが、じっとこちらを見つめている。
「ハッハッハッ」
物欲しそうな目だ。
「いくよー。はいっ」
くんちゃんが投げると、からし色のゴムボールは空中で弧を描いた。ゆっこが白い息を吐いて追いかける。中庭の壁に不規則にバウンドするボールに少々手こずりウウウと唸るが、それでもしっかり咥えると脇目も振らずに戻って来てくんちゃんの両腕の間に飛び込んだ。
「アハハハ」
中庭の大きさは、くんちゃんの足で測ると、大股で十一歩くらいだろうか。四角い地面には自然に生えた草があり、真ん中に樫の木が立っている。庭といってもそれだけだ。樫はシラカシという種類で、幹の太さはくんちゃんが両手で抱えられるよりも少し大きいぐらい。定期的に剪定しているので、高さはそれほどなく、屋根から少してっぺんが出るくらいだ。ゆっこは、この樫の木の周りをぐるぐると回るのが大好きで、それと同じくらいゴムボールも、子犬の頃から大のお気に入りだった。くんちゃんはその使い込まれて今や表面がボロボロのボールを構え、
「いくよー。はいっ」
と投げた。バウンドするボールをゆっこが瞬く間に押さえ込んで咥え、白樫の木を回り込んで戻って来た。
そのとき、
「!?」
ゆっこはハッと空を見上げた。
白いものが、ふわふわと、空から舞い降りてくる。
「あ……」
くんちゃんも、空を見上げた。
小さな白い粒が、音もなく落ちて来る。
思わず手が伸びた。だが空気が軽やかに巻いて、指と指の間をすり抜けてしまう。さっきよりももっと背伸びしたが、余計に摑めない。手を伸ばしたままぴょんと跳ねて、小さな粒のひとつを摑み取った。今度はしっかり捕らえたという手応えがあった。その手を大事に引き寄せ、握った手をゆっくりと開いた。が──、手のひらに白い粒はなく、水滴だけがあった。摑んだはずのものはどこへ行ったのか? 行方を探してふたたび空を仰いだ。
「……」
落ちて来る小さな一片のひとつひとつが、圧倒的な数で空を埋め尽くしている。一体、いまぜんぶで何個が落ちてきているのだろう。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……。数えようとして、その途方もなさに、気が遠くなった。じっと目を凝らしているうちに、落ちてくる一片は、ただのぼんやりした白い粒ではなく、透明な6つの角を持つ氷の結晶であることが、ありありと見えてきた。虫眼鏡や顕微鏡で見たわけではなく、肉眼ではっきりと確認できる。極めて小さなその一粒一粒は、どれも同じようでいて、実は全て違う形をしているのです、とEテレで見たことがある。空を覆うぐらいの尋常でない数なのに、同じ形がふたつとないなんて、誰が信じられるだろうか?
くんちゃんは呆然としながら見上げ続けた。うまく言葉を見つけられず、ただ一言、
「…………ふしぎ……」
と、シンプルにつぶやいた。
そのとき不意に、ヴォオン、と、車のエンジンが吹き上がる音がして、ハッと現実に引き戻された。
「あ」
おとうさんの車の音だ。
ゆっこが到着を知らせるラッパのようにワンワンと吠えたてる。くんちゃんは駆け出して階段を降りると、子供部屋のガラス扉を勢いよく開けた。
「くんちゃん」
ベビーラックを準備していたばあばが呼びかけるが、それには応えず台に飛び乗り、つま先立って窓の外を見た。鼻息がふーっとガラスに吹きかかり、前が見えない。
「あっ」
素早く手で拭いたその向こうに、駐車しようとしているボルボ240の屋根が見えた。何度も前後に切り返している。おとうさんの運転に間違いない。
「来た?」
と、ばあばが訊くが、やはり答えないまま子供部屋を飛び出し、中庭から玄関への階段を降りた。半年前は、お尻を向けてそーっと足を下ろさないと降りられなかったが、今は、頭より上の場所にある手すりに手をかけて、一段ずつ降りることができるようになった。
「おかあさん!」
いつもよりがんばって早く足を下ろしながら、玄関へ向かって呼びかける。
「おかあさーん!」
すると、
ガチャッ。
「さあお姫さま、着きましたよ」
大きな荷物を持ったおとうさんが、エスコートするように扉を開ける。粉雪が家の中に舞い込んでくる。
くんちゃんは階段を降りる足を止めて、見た。
「あ……」
「ただいま。くんちゃん」
真っ白な服を着たおかあさんが、真っ白なおくるみを抱っこしながら、まるで女神みたいに微笑んだ。
「おかあさん、おかえりなさい……」
くんちゃんは応えるなり、
「さみしかったよう」
と、涙ぐみながらおかあさんの膝にぎゅっとしがみついた。
「カゼ治った? ごめんね、家にいなくて」
おかあさんは優しい声で、済まなそうに言った。ふと、くんちゃんは顔を上げて、白いおくるみを見た。
「……それ、赤ちゃん?」
「フフフ」
「見せて! 見せて!」
くんちゃんは、ぴょんぴょん跳ねてせがんだ。
そうなのだ。
1週間ほど前、おかあさんは、産院に行って来るねと言ったまま家に帰ってこなくなった。代わりにばあばが来て、コンコンと咳をするくんちゃんに薬を飲ませたり、咳止めのテープを背中に貼ったりしてくれた。おとうさんは産院での様子をスマートフォンの写真に撮って、たびたび見せてくれた。でも、それがどういうことか、くんちゃんには、よくわからないでいたのだった。
籐で編んだベビーラックの中に、真っ白な毛布が敷かれてある。
おかあさんはその上に、眠る赤ちゃんをそっと寝かせ、それから首に添えていた左手を、起こさないようにゆっくりと引き抜いた。
くんちゃんは、引き寄せられるように、見入った。
赤ちゃんが、細かなレースの飾りのある真っ白な服に包まれ、眠っていた。
驚くほど小さい。砂糖菓子のように、触るとすぐに壊れてしまいそうに見えた。小さい胸が、とても浅く息をしているのがわかる。首を、なんとも不自然な角度で傾げている。その奇妙な感触が、赤ちゃんそのものの危うく儚い存在を端的に表しているようだ。くんちゃんはただただ呆然と、息を殺して見つめ続けた。
「……」
おとうさんが顔を上げてこちらを向き、声をひそめて言った。
「くんちゃんの妹だよ」
「……いもうと」
その単語をくんちゃんは、ほとんど生まれて初めて口に出した。
おかあさんが、横目でチラリとこちらを見て、
「かわいい?」
と、問いかける。
何と言ったらいいのか、わからない。
かわいいかといえば、正直、全然思わない。じゃあなんて答えればいいんだろう?
くんちゃんは言いかけ、黙り、また言いかけて、口を閉じ、それから口を開いたまましばらく考え、そしてようやく、ポツリとひとこと、つぶやいた。
「…………ふしぎ……」
中庭の樫の木に、音もなく雪が降り続いている。
赤ちゃんは、静かに寝息を立てている。
くんちゃんは、人差し指を恐々と近付け、とても小さな手のひらを、ちょん、とつつくと、慌てて引っ込めた。
「そっとね」
と、おかあさんが促す。
もう一度、勇気を出して指を近づけ、そっと触れてみた。やわらかく、ぷよぷよしている。そのまま手のひらに自分の人差し指を入れてみる。あまりに小さい五本の指。その爪。その皺。まるで精巧な人間のミニチュアに触れているみたいだ。一体、こんなものを誰が作ったんだろうか。
と、その時、赤ちゃんの手がピクッと動いた。
「……!」
びっくりして指を離し、思わず身を引いた。
赤ちゃんは目覚め、まるで夜が明けていくように、ゆっくりとまぶたを開いた。
おとうさんが、おかあさんに囁いた。
「起きた。訓をじっと見てる」
「まだ見えてないよ」
「でも、じっと見てる」
くんちゃんは、赤ちゃんに見つめられて、動けなかった。
虚ろな瞳。そこに、自分が映っている。
この奇妙な存在が、こちらを見ている。そのことが、あまりにも不思議でならない。
「くんちゃん。これから仲良くしてね」
おかあさんが言った。
「……うん」
「なにかあったら、守ってあげてね」
「……うん」
まるで上の空のようにくんちゃんは言った。そう言うしかなかった。
それでも、おかあさんは安心したように、
「ありがと」
とニッコリ笑って、おとうさんやばあばと顔を見合わせた。ふたりの口元にも、緊張が解けたように安堵の笑みがこぼれた。
床に座り直したおとうさんが、メガネのブリッジに指を当てて、
「ねえ、くんちゃん。赤ちゃんの名前、どんなのがいい?」
と、訊いてくるので、くんちゃんは、ハッと我に返った。
「名前?」
「うん」
「えーっとねー。うーんとねー」
くんちゃんは、籐の籠の中を覗き込み、そして一言、
「のぞみ」
と言った。なるほど、とおとうさんが腕を組む。
「のぞみ。のぞみか……。なるほどね。うん。悪くないなあ」
「あとねー」
くんちゃんは部屋の隅を見て、さらに言った。
「つばめ」
「つばめ。つばめねえ……」
おとうさんが口の中で繰り返しつつ天井を見上げる。が、どうも腑に落ちず、聞き返した。
「つばめ?」
「それ新幹線の名前でしょ」
おかあさんが苦笑して部屋の隅を示した。おもちゃ箱の中に、東海道新幹線のぞみと九州新幹線つばめの車体が見えた。
「ああ、なーんだ」
おとうさんは、笑って立ち上がった。
ダウンのコートを着たばあばが、玄関で靴紐を直している。
「もう少しいてあげられたらいいんだけど、病院にひいばあばも見に行かなきゃいけないし」
お産直後の今が一番、人手が欲しいところだろう。だが、入院中の自分の母──くんちゃんから見たら、ひいばあば──を、いつまでも放ったらかしにしておくわけにはいかなかった。毎日のように病院に通って世話を焼いていたひいじいじが、春先に突然亡くなってからというもの、すっかり元気がなくなってしまっていることが気がかりだった。着替えの交換などは夫に頼んで来たが、それだけでは心もとない。赤ちゃんの写真を見せれば、少しは元気になってくれるかもしれない。
そんなばあばに、おかあさんは笑顔で答えた。
「大丈夫。助かったよホント」
「またいつでも呼んで」
「ありがとうございます」おとうさんも頭を下げる。
「とうさんによろしくね」
「くんちゃん、新幹線でまた来るね」
「ばいばい」
「赤ちゃんもまたね」
おかあさんが、おくるみの中の赤ちゃんをばあばの方に向ける。
「またねって」
横浜の丘陵に、家々の窓の明かりが瞬いている。慌ただしい街のざわめきの中を、ばあばを乗せた水色ラインの車両が東京方面へ向かって行った。これから新幹線に乗り換えると、家に着くのは夜8時を回るだろう。
夕暮れの冬の空は、寒さで彼方まで澄み渡っていた。
(このつづきは本編でお楽しみください)
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