6月12日発売の「小説 野性時代」2018年7月号では、吉田修一『逃亡小説集① 北九州市/13キロ 前編』の新連載がスタート!
カドブンではこの試し読みを公開いたします。
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北九州市小倉の国道10号線を、一台の白い逃走車が疾駆する。
車中の犯人は職務質問を受けている最中に突然逃走を始めたらしいのだが……。
各紙誌で絶賛を博した『犯罪小説集』に連なる、待望の新シリーズ!
「隆士さん! 早よ、風香にごはん食べさせてや! お迎えのバスにまた遅れるで!」
ベランダに抱えてきた洗濯物を慌ただしく干し始めたかもめは、苛々しながらも先日試しに買ってみた柔軟剤の香りに、ふと一息つく。
狭いベランダで物干し竿にぶつかる腹の感触に、少し太ったことを教えられるが、「いやいや、物干し竿の方が太ったんちゃう?」と気づかなかったことにする。
ここ大阪は阿倍野区にある新築マンションのベランダからは、すぐそこに建つあべのハルカスが見える。日本一の高さを誇るこの高層ビルが完成したとき、かもめもまた大阪人の妙な矜持が刺激された一人だった。日ごろは気にしていないふりをしている「東京がなんぼのもんやねん」という大阪人のルサンチマンが、この近未来的な高層ビルの出現に少しだけ解消されたのである。
実際、かもめは東京のことが苦手ではないが得意でもない程度である。何より人生の伴侶と決めた隆士がその東京の人であり、「それ、面白いよね」などと、せっかくの面白さを台無しにするような喋り方にムカッとくることは多々あれど、それでも中堅菓子メーカーで営業マンをやっている彼との日々の暮らしに小さな幸せが詰まっていることは間違いがない。
バスタオルを干していると、急いでくれと頼んでいるのに、隆士がのんびりと風香を抱いてベランダに出てこようとする。
「なあ、何してんの?」
風香の頭にはティアラが載っており、保育園の制服に着替えてもいない。
「……早よ、食べさせてって」
「うん、分かってる」
「分かってないやん」
「いや、良い天気だなーと思って」
隆士が風香を抱いたまま、片方の手だけで背伸びをする。こうなると、あとはこっちが苛々させられるだけなので、お好きにどーぞ、とばかりに濡れたバスタオルをバサッと広げる。
「なんかさ、あのビル、見るたんびに色が薄くなってくような感じしない?」
隆士が見つめているのは、あべのハルカスである。
「薄くって?」
無視するつもりが、かもめもつい気になる。
「なんか、だんだん溶けていくような」
「アホか、氷やあるまいし」
言いながら振り返ってみると、元がどんな色だったか覚えていないが、たしかにちょっとだけ薄くなっているような気がしないでもない。
「……陽の当たり方ちゃう?」
と応えてみるが、自分で話を振っておいて、すでに隆士は部屋へ戻ろうとしている。
「……あ、せや。今日のお迎え頼むで。ほんま隆士さんの会社がフレックスになって助かったわ」
「お迎えは大丈夫だけど、今日、劇場?」
「うん、劇場は五時に終わるんやけど、後輩の子らとごはんの約束あんねん。ほら、『オリオリ』って若い兄弟漫才師おるやろ」
「ああ、あの子たち最高に面白いよね」
ほら来た、ぜんぜん面白そうやないやん、と思いながらも、残りの洗濯物を干してしまう。
カゴを抱えて部屋へ入ると、隆士がテレビのボリュームを上げた。
「早よ、食べ……」
言いかけて画面に釘付けになる。
「……え? 何何? なんなんこれ?」
「なんか、カーチェイスだって。ずっと逃げ回ってるみたい」
年末に思い切って買った55型の有機ELテレビの大画面には、どこかの市街地を疾走する白い乗用車と、それを追うパトカーが映っており、上空から撮影するヘリの音と、興奮したアナウンサーの声が重なっている。
『あっ! 危ない! 横からバイクが! 今、車が赤信号を突っ切りました! 車は国道10号線を黄金二丁目から一丁目と、小倉駅の方へ向かっております!』
絶叫に近いアナウンスの通り、白い逃走車が赤信号の交差点を突っ切り、危うくバイクと接触しかける。この国道10号線にはモノレールが走っていて、猛スピードの逃走車と比べると、やけにのんびりして見える。
アナウンサーの説明によれば、車はすでに二十分近くパトカーから逃走を続けているらしかった。幸い今のところ、他の車や通行人との事故はないが、さっきはカーブを曲がり切れず歩道に乗り上げたらしく、このままでは必ず惨事が起こるとアナウンサーが興奮気味に伝えている。
「あー! 危ない! 渡ったらアカン!」
思わず、かもめも声を上げた。上空からの映像で、逃走車の向かう先の横断歩道を幼稚園児たちの列が渡ろうとしているのが見えた。
「あーーー、アカンアカンアカンアカン! 出たらアカン!」
思わず画面の園児たちを、自分の手で歩道に押し戻そうとする。しかし逃走車は近づいてくる。かもめはもう一度「アカン!」と叫んで、画面の逃走車を手で払った。
まさかその思いが伝わったわけでもないのだろうが、次の瞬間、車が急ハンドルを切って交差点の手前を左折した。
路地に入った車はそれでもスピードを緩めない。通行人も対向車もおり、ぶつからないのがほとんど奇跡に思える。
「ちょっと、ここどこなん?」
今になってかもめが問うと、
「北九州市だって」
と、教えてくれた隆士もいつのまにかかもめの横に立っていた。
「北九州市て、小倉? いややー、先週、営業で行ったばっかりやんか。あーほら、この橋! この橋、渡ったところに劇場あってん。なんとかソレイユいう大きなホールや」
路地を抜けた逃走車が橋を渡る。逆車線に飛び出して前の車を抜き去る様子は、見ているだけで、ひやっとするのだが、よほど運転が上手いのか、パトカーとの距離が次第に開いていく。
「あ、せや。早よ、風香にごはん食べさせて」
隆士の肩を押しながらも、かもめはその場を離れない。なぜか先週この町のお笑いフェスの舞台で、まったくウケなかったことが頭をよぎる。客のほとんどが今人気爆発中のオリオリファンの若い女の子たちだったこともあるが、それは大阪の劇場でも同じことである。
かもめは、妹のつばめと「天王寺かもめ・つばめ」というコンビを組んで、今年で二十二年目を迎える女漫才師である。毎年のように生まれては消えていくお笑い芸人が、現在、大阪だけでも八百人もいるという時代に、関西のローカル局だけとはいえ、週に三本のレギュラーがあり、曲がりなりにも二十年以上、劇場の舞台に立ち続けているのだから、自分たちは芸人として生き残ったのだろうとかもめは思う。
ただ、最近舞台に立っても、昔のように体の芯がカッと熱くなるような瞬間がない。もちろんどこのどんな舞台であろうと全身全霊で務めているつもりだが、もう何百何千回と繰り返してきたボケを、妹つばめの前でやりながら、ふと頭のなかで、「せや。今晩、手羽にしよ」などと考えていることがある。
「しかし、すごいな。この犯人の運転。何やって逃げてんだろ? こんな朝っぱらから飲酒?」
隆士の声が聞こえ、かもめは我に返った。
通りの先をパトカーが遮断しているが、逃走車はその少し手前でまた路地に入る。
「ヘンな薬とかやってるんちゃうん? こんなんに巻き込まれて、それこそ撥ねられたりでもしたら、死んでも死にきれんで」
かもめの声に重なるようにアナウンスが入る。
『今、犯人の情報が入ってきました! 逃走を続けている犯人は、三十代から四十代の男で、三十分ほどまえ、市役所まえの一方通行を逆走したところを巡回中のパトカーに停められ、職務質問を受けている最中に、とつぜん逃走を始めたということであります!』
(このつづきは「小説 野性時代」2018年7月号でお楽しみいただけます。)
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