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試し読み

【キャラクター小説大賞受賞作試し読み】路生よる『地獄くらやみ花もなき』

第3回角川文庫キャラクター小説大賞〈読者賞〉を受賞した、路生(みちお)よるさんのデビュー作『地獄くらやみ花もなき』の第1話を、試し読みにてお届けいたします。読者賞は、全国の書店員さんに最終候補作を読んでいただき、一番支持を集めた作品に与えられる賞です。
人生を諦めたニートの青年が、迷い込んだ屋敷で、謎の美少年と出会い、誰にも罰せられずに世の中をのさばる罪人を、閻魔様に代わって地獄に送り届ける〈死の代行業〉を始める物語。本格謎解き、妖怪、成長、ほほえましいコンビ愛……すべてが詰まった、書店員さん支持No.1の、痛快〈地獄堕としミステリー〉を、ぜひお試しください!

 第一怪 青坊主

 
 この世には、嗤う鬼もいるのかもしれない。

 恥の多い生涯を送っている。
 遠野青児(とおのせいじ)にとって、(よわい)二十二に至るまでの来歴は、生き恥そのものと言っても過言ではなかった。なにせ漁師の家に生まれながら(いま)だに船酔いを克服できず、二十五メートルプールでも溺れるほどの重度のカナヅチときては、生まれながらに何かを間違えていたと言うより他ないだろう。
 そして、今や立派なニートである。職なし文なし宿なしの三重苦だ。
 それもヒキコモリ先は、神奈川県の港町にある実家でも、在学中に借りていた都内の貧乏人向け風呂なしアパートでもない――ネットカフェである。
 ネットカフェと言えば、世の人のほとんどが休息や時間潰しのために、一日のほんの数時間利用するだけなのだろうが、そこを渡り歩いて寝泊まりしているわけである。
 そんな放浪ネットカフェ生活も、今日でついに二週間目となった。
 ここら辺では十二時間一九八○円というパック料金が相場なので、夜遅くに入店すれば昼近くまで過ごせる計算となる。しかし、快適かといえばそうでもなく、漫画を読んでジュースをすするには申し分ないリクライニングシートも、ほんの五日も寝泊まりすれば腰の辺りから破滅的な軋みが聞こえ始める。
 お陰で慢性的な睡眠不足で、ただでさえ働きのよろしくない青児の頭は、このところ開店休業状態だ。もともと睡眠に関してはわりと神経質なたちで、もしも近くで高いびきをかいているオッサンがいれば、絞め殺さないかぎり安眠はない。
 (ひど)い時には、明け方の五時近くになってようやくうつらうつらし始めるありさまで、うっかり寝過ごして延長料金に泣いた経験も数知れない。
 では日中はと言うと、これが驚くほど何もしていなかった。
 コンビニやブックオフで立ち読みしたり、路上ライブを冷やかして脳内で採点表を作成したりして、ただひたすら時間をやり過ごしているだけである。夜にはすっかり足が棒になっているわけだが、仕事やバイトで汗を流したわけでもなく、「ひたすら一日中暇潰しをして疲れました」と訴えたところで、十中八九、説教コースに直行だろう。
 去年までは一応大学生と名乗れる身分だったのだ。しかし合コンやサークル活動といった世間一般に馴染み深いはずのイベントを総スルーして、ついには圧迫面接で心が折れてひきこもっている内に、就職活動というラストイベントすら素通りしてしまった。
 巷には就職浪人という結構な身分の者もいるようだが、あいにくと実家の両親は、青児にモラトリアムを許してくれるほど、器がでかくも懐が温かくもない。それどころか現状を知られれば、切り刻まれて魚の餌にされるのが関の山だろう。
 はあ、と人知れず吐き出した溜息が、白い便器に吸いこまれて消えていった。
 場所は、駅前のコンビニにある個室トイレだ。用を足してうがいをすませ、さて次は歯磨きか、と歯ブラシケースに手をのばした途端、視界に滑りこんできた鏡像に、ぎくりと全身が強張(こわば)った。
 鏡の中から虚ろに見返してきた男の、その死相めいた表情。
「っ!」
 危うく悲鳴を呑みこんだものの、今もどきどきと心臓が騒いでいる。
 黄色く濁った白目と、虚ろに焦点のぼやけた黒目。そして隈の滲んだ貧相な顔が、今もしっかりと目に焼きついていた。
 昔から鏡を覗くことは大の苦手だ。
 街中のショーウィンドウも同様で、そのせいで猫背になって足元を睨みながら歩く癖がついてしまった。そして今や鏡の存在は、もはや一秒たりとも直視できないほどの恐怖でもって、青児の日常を閉塞させている。
「はあ、まいったな」
 溜息を吐きつつ、決して鏡を見ないよう歯磨きをすませてトイレを出た。
 飢餓感を訴える胃袋のために、割引おにぎりをつかんでレジに向かう。会計後、残り少ない小銭を上着に押しこんでいると、カウンター越しに見慣れぬ箱を差し出された。
「どーぞーおみくじでーす、引いてくださーい」
 間のびしきった声にうながされて一枚引き抜く。
「え?」
 受け取って開いた店員の顔に驚きと困惑が広がった。そそくさと紙片を折り畳むと、まるでゴキブリの死体でも押しつけるように青児の手の平に返してくる。
「ありがとーございましたー」
 不審な反応に首をひねりつつ自動ドアをくぐった。見上げれば、西の端から焼け落ちそうな夕暮れ空が広がっている。まさに逢魔が刻と呼ぶべき刻限だろう。
 気になってオミクジを開いてみると、予想外の二文字があった。
〈地獄〉
 さすがに唖然としてしまう。大凶のさらに下? どん底?
 誰かがイタズラでまぎれこませたのかもしれない。その一枚を偶然青児が引いたのか。なんたる不運。しかし、この先が地獄であるのは確かなのだ。
 手持ちの金はいよいよ底を尽きかけている。支出ばかりで収入がないのだから当然だ。
 もはやネットカフェに一晩泊まるだけの金もない。マクドナルドで店員の視線に耐えつつ、授業中の居眠りスタイルで一夜を明かすことならできるが、それも長くは続けられないだろう。この先、いよいよホームレス生活を送るはめになるのか。万事休す、打つ手なし、八方塞がり、お先真っ暗、近頃そんな言葉ばかりが脳裏にちらついている。
 そう言えば、この先の公園でホームレスのために冬場の炊き出しがあると聞いた気がする。毎日やっているかどうか不明だが、タダ飯にありつけるのならそれに越したことはないだろう。
 考えるともなしに考えながら、ふらりと青児が歩き出そうとした、その時だった。
 カラン。
 下駄の鳴るような音が聞こえた。
「……え?」
 顔を向けると、そこに一つ目の坊主がいた。僧衣――と呼ぶのだろうか、青く染めた布をまとったその化け物は、次の瞬間、ぎょろりと動いた一つ目で青児をとらえた。
〈首ぃ、吊らんか?〉
 不思議なほどすんなりと唇の動きが読み取れる。直後、にゅっとのびたその手が青児の頭を鷲づかみにしようとした。
 ひ、と悲鳴を上げて後ずさりする。足がもつれて背後の通行人にぶつかってしまった。「気をつけろ、ボケ」と作業服姿のオッサンに凄まれ、慌てて落とした荷物を拾い上げる。と言っても、着替えを詰めたショルダーバッグと雨天用のビニール傘の二つきりだ。
 そして、見た。
 そこにいたのは、清潔感のある身なりの女性だった。高級そうなロングコートにブランドバッグ。細いヒールのパンプスを履きこなした姿は、セレブの若奥様風だ。酔っぱらいとでも誤解したのか、青児を見下ろす目はどこか不審げである。
 そして次の瞬間、彼女こそが一つ目の化け物の正体だと気づいた青児は、矢も楯もたまらず駆け出していた。
 ――また、だ。
 また、あの症状が始まった。
 もはや青児にとっては一向に治らない持病のようなものである。
 昔から他人の姿が化け物に見えることがあった。
 たとえば小学生の頃のこと。当時、通学路の途中には〈駄菓子オジサン〉と呼ばれる人の家があって、下校時に立ち寄るとニコニコ顔でお菓子をくれた。
 持ち前の意地汚さからせっせと通いつめた青児だったが、ある日ぴたりと止めてしまった。ふくふくと丸い〈駄菓子オジサン〉の恵比寿顔が、醜い化け物に見えたからだ。
 それは坊主頭をして口が耳元まで裂けた毛むくじゃらの猿だった。両肘をぴたりと脇腹につけた奇妙なポーズで、鶏でも真似るようにピコピコと両手を動かしている。そして、ふくふくと優しい声で言うのだ。
「よく来たね、ささ、今日もたくさんお菓子があるよ」
 もちろん、猛ダッシュで逃げ帰ったのは言うまでもない。
 翌日、町外れの用水路でクラスメイトの水死体が見つかった。初めは事故による水死と見なされたのだが、変質者の仕業だと噂され始め、やがて〈駄菓子オジサン〉が犯人として捕まった。通っていた子供の一人を連れ出し、用水路に沈めて殺したのだ。そして、青児が最後に〈駄菓子オジサン〉を訪ねたあの日が、クラスメイトの命日になった。
 次の化け物に出くわしたのは、四年後の正月だ。
「そら、青ちゃん。お年玉をあげようね」
 差し出された伯母の腕には、パチパチと瞬きをする目玉がびっしりと並んでいた。震え上がった青児は、それでもお年玉袋だけは死守しつつ、お礼もそこそこに逃げ出した。
 後に聞いた話では、昔から手癖の悪かった伯母は、ママ友の一人からブランド物のバッグを盗んでネットオークションで売りさばき、当然バレて警察沙汰になった。スーパーの万引きを始め、余罪はごろごろあったそうだ。現在、離婚調停中である。
 結論を言うと、どうやら青児の目には、何かしらの罪を犯した悪人の姿が化け物となって映るらしい。そうとわかれば触らぬ神に祟りなしと、その手の人間を見かけるや否や一目散で逃げることに決めていた。
 この世の中は、正体を隠した化け物ばかりだ。
「あれ?」
 はたと我に返って立ち止まった。
 はて、ここはどこだろう?
 いつの間にか景色に見覚えがなくなっている。
 見渡しても、町名や地番を示した標識の類は見当たらない。前も後ろも延々と続く黒板塀だ。通り過ぎるどの家も森閑として、通行人も見当たらない。鴉も鳴かなければ、犬も吠えない。もしかすると風すら吹いていないのではないだろうか。
 こうしていると、まるで別世界の一角に立たされたような心地がする。
「……弱ったな」
 声に出して呟いてみる。どうしよう。本当に弱った。誰かに道を尋ねようにも、どうしたわけか民家の表札すら見当たらない。
「おや?」
 ふと気がつくと、道の先に冬蔦に覆われたトンネルがあった。
 近寄って見ると、入り口の脇に「この先にお進みください」と書いた看板が掲げられている。添えられた矢印はトンネルの奥を指していた。
「何だろう」
 喫茶店でもあるのだろうか。かと言ってコーヒー一杯注文する余裕もないが、まさか道を聞くだけで金を取られはしないだろう。
 善は急げとトンネルをくぐる。すると、出口に緑色の巨人がそびえ立っていた。いや、違う。身の丈十メートルに及ぶ(しきみ)の巨木だ。
 確か田舎の実家で聞いた話では、猛毒の実がなることから、その名を〈悪しき実〉に由来するらしい。天を抱くようにのばされた枝から、茜色の木漏れ日が降り落ちる。その葉陰に隠れるようにして一軒の西洋館が建っていた。
「え?」
 洋館風の喫茶店――ではない。この貫禄は、確実に年号を二つほど跨いでいる。下手をすると文化財レベルだ。
 狐に化かされたような心地で、開け放しになった門扉をくぐった。煉瓦敷きのアプローチを進むと、辿り着いた先はステンドグラスの嵌まった玄関扉だった。片側の扉が誘うように引き開けられ、その上に「どうぞ中へお入りください」と貼り紙がある。
 なぜか〈注文の多い料理店〉を連想してしまった。
「あの、失礼します」
 臆病な亀よろしくにゅっと首を突き出して中をうかがう。
「いらっしゃいませ」
 突然の声に飛び上がって驚くと、中折れ階段の巡る玄関ホールに着物姿の少女がいた。
 十七、八歳くらいだろうか。緋色の着物に黒繻子(くろじゅす)の帯。漆と紅殻に似た黒と朱だ。肩の辺りで切り揃えられたボブカットの黒髪がしっくりと似合っている。
「二十三人目のお客様ですね。どうぞ奥へご案内いたします」
「っ!」
 一瞬、青児が息を呑んだ理由はその目だった。驚くほど黒目が大きい。白目が見当たらないので、眼窩に黒硝子が嵌まっている感じだ。
「あの」
 すでに少女は青児に背を向けて歩き出している。今さら「通りすがりの迷子です」とは言い出せない空気だ。
「ん?」
 右手にのびた廊下を進むと、出窓の一つに金魚鉢があった。
 鱗は緋色。尾びれが蝶の形をして、先の方が黒く染まっている。虎蝶尾(とらちょうび)だ。幼い頃、金魚屋の店先で、最高級品の札が水槽に貼られているのを見たことがある。
(あれ? そういえば)
 黒目がちの目といい、色合いといい、この金魚、目の前の少女そっくりではないか。
紅子(べにこ)です。お客様をお連れしました」
 はっと顔を上げると、突き当たりに立った彼女が扉をノックしたところだった。
「あ、あの、実は」
 ここを逃すと後がない。
 焦った青児がついに用件を切り出そうとしたその時、くるりと振り向いた黒目に射られ、思わずぎくりと口を閉じた。途端に少女は、うながすように一歩下がって一礼する。
「私の案内はここまでです。どうぞ中へお入りください」
 どうしてだろう。敵前逃亡は許されない空気を感じる。
 内心泣きたい気持ちを抑えながらも、青児はドアノブに手をかけた。
 この奥に一体誰がいるのか。しかし、気難しげな老紳士という青児の予想は、ドアノブを回した瞬間に裏切られた。
「え」
 室内は、書斎のような印象だった。
 右手の壁は、天井近くまである本棚で塞がれている。正面は、壁のほとんどが掃き出し窓だ。天井から吊り下げられたドレープカーテンが、舞台の緞帳(どんちょう)のようにも見える。
 中央にはペルシャ絨毯が敷かれ、その上に猫脚のテーブルが置かれていた。どこか植物的な曲線を描く背もたれの椅子は、確かクイーン・アン様式と言うのだったか。
 そして、その一脚にこの部屋の主が座っていた。
(子供?)
 黒髪黒目の少年だ。せいぜい十五、六歳ほどにしか見えない。案内係の少女と同じ和装である。ほとんど白一色に見える薄墨色の着物は、肩から裾にかけてぼかし染めの白牡丹が咲きこぼれていた。
 怖いほどの美貌だ。雪白の肌が、少年そのものを一輪の牡丹のように見せている。
 ――百花(ひゃっか)の王だ。
「どうぞお待ちしてました。そちらにおかけになってください」
 声質は年相応に幼いが、言葉選びは大人びている。
 うながされるまま椅子に腰かけ、そこではっと青児は我に返った。
「あ、あの、実は……んん?」
 喉が詰まって声が上手く出てこなかった。
 まさか声帯が弱っているのだろうか。思えばネットカフェという空間は、会計時もほぼ無言。飲み物もボタン一押しですむドリンクバーだ。使わない器官が退化の一途を辿るのは自然の摂理なのかもしれない。
 慌てる青児に向かって少年はにこっと天使のように微笑みかけると、
「初めまして、西條皓(さいじょうしろし)です」
「げほっ、ど、どうも。その、遠野青児といいます。あの」
「道に迷われたんですね。大丈夫、後で手描きの地図を差し上げますよ。その前にお茶を一杯いかがですか?」
「は、はい?」
 どうやら遅めのティータイムに誘われているようだ。
「この辺りは道に迷われる方が多いんですよ。ちょうど本を読み終えて退屈していたところです。ぜひご一緒にどうぞ」
 見ると、その手元には革装の洋書があった。まさかこれを読破したのだろうか。もしかすると幼げなのは見た目だけで、実際は年上なのかもしれない。
「い、いや、俺はちょっと、その、用事があったような」
 せっかくのお誘いだが、初対面の他人と一対一でテーブルに着くのは気が引ける。断ろうとしたその時、ぐうう、と腹の虫が卑しく鳴いた。
 合いの手を入れるように、車輪つきのテーブルが運ばれてくる。押しているのは、先ほど紅子と名乗った少女だ。見ると、いかにも高級な香りのする紅茶のポットと焼き立てのアップルパイだった。
 背に腹はかえられない。ご相伴にあずかることにして青児はフォークを手にとった。
 早速、甘く煮た林檎のみずみずしい酸味と、サクサクしたパイ生地の食感が口一杯に広がる。肉厚な果実のどっしり感に、胃袋がむせび泣くのがわかった。
 たまらず青児が二切れ目をおかわりすると、ふふっと笑い声が聞こえてきた。
「ああ、いえ、すみません。こんな状況でおかわりする人を初めて見たものですから」
 そこではたと青児は我に返った。
「あのー、もしかしてここはレストランか何かなんですか?」
 すでに二切れのアップルパイは胃袋におさまってしまっている。もしも支払いを求められたりしたら、食い逃げ以外の選択肢はないだろう。
「いえ、飲食店ではありませんよ。訳あって**代行業をしております」
「はい?」
 しまった、聞き逃してしまった。しかし、さらりと聞き返すだけの会話スキルも青児にはないので、
「代行業っていうと、運転代行とか家事代行とか最近よく聞きますよね」
「うーん、どちらかというとアウトソーシングに近いですね。あるサービス機関の業務を特別に委託させてもらってます」
「つまり公共サービスってことですか?」
「ええ、まあ、政治家でも億万長者でも万人に等しく供される点では、確かに公共と言えるかもしれませんね」
「……ええと?」
 やたら持って回った言い回しだが、つまり一体何なのだろうか。
「まあ、無料悩み相談所と思ってください。当世風に言うとカウンセリングですね」
「はあ、悩み相談ですか」
 テーブルの上では、白磁のティーカップの中で温かな紅茶が揺れている。途端、その水面が視界に入りそうになって、慌てて青児は目をそらした。
 そうだ、これも鏡なのだ。
「あの、話半分に聞いて欲しいんですけど」
 そう前置きして青児はその目の秘密を打ち明けた。
 時折、他人が化け物に見えること。そして、駄菓子オジサンや盗人オバサンの話。夢物語と呼ぶにしても悪趣味なそれを、皓はふんふん頷きながら聞いてくれた。
 どうせ二度と来ることのない店だ。そう割り切っての打ち明け話だったのだが――。
「もしかすると、化け物の正体がわかったかもしれません」
 皓が口にしたのは、そんな意外な一言だった。
「え、ほ、本当ですか!?」
 直後に立ち上がった皓が、本棚から一冊の本を引き抜いた。大判の画集のようだ。
「江戸時代に鳥山石燕(とりやませきえん)という絵師によって描かれた妖怪画集です。この本には〈画図百鬼夜行(がずひゃっきやこう)〉や、続編の〈今昔画図続百鬼(こんじゃくがずぞくひゃっき)〉などが収録されています。これは復刻版なんですけどね」
 白い指がページをめくる。
 さまざまな姿形をした妖怪たちに名称や解説が添えられていた。画集というよりは図鑑のような印象だ。活き活きとうねる墨の線は、恐いというよりはユーモラスなおかしみがある。いや、元より青児の審美眼なぞ節穴に等しいのだが。
「さて、本題です。こちらの絵を見てください」
「あ!」
 あまりの驚きに青児は声を失った。
 皓が指差したのは、ひょうきんな坊主頭の妖怪だった。ひょこひょこと鶏に似たポーズをとって、耳元まで裂けた口で笑っている。駄菓子オジサンそっくりだ。
 そして、その横に添えられた名は――。
「ひょうすべ?」
「河童の一種と考えられる妖怪で、手長猿をモデルにした毛深い小坊主の姿で知られています。ひょうきんな姿ですが、河童と同じで水辺を通りかかった子供を水中に引きこんで溺れさせ、尻子玉を抜いて殺すとも言われていますね」
 うん? 子供を引きずりこんで水死させる?
 ふと引っかかりを覚えて青児は首をひねった。同時に、再び皓の手がページをめくる。次に現れたのは、両腕にびっしりと目玉の並んだ女の姿だ――百々目鬼とある。こちらは伯母のそっくりさんだ。
「ご覧の通り、腕に無数の鳥の目がついた女の妖怪です。昔は穴あき銭のことを〈鳥目〉と呼んでいましたから、銭泥棒をし過ぎたせいで腕に鳥の目が百もできてしまった女スリ師を指すんですね」
 では、まるで同じではないか。
 子供を用水路で溺れさせた男がひょうすべとなり、盗癖によって離婚された伯母が百々目鬼になったと言うのなら、それは――。
「つまり青児さんの目には、その人物の隠された罪を暴き立て、それを妖怪の姿として認識する力があるみたいですね」
 実にあっさりと皓は断言してみせた。
「そもそも妖怪という存在自体が、怨み、憎しみ、妬みといった人の心の闇を表したものだとする研究者もいますからね。元来、妖怪そのものが人の世にひそむ悪を映し出す鏡なのかもしれません」
 含蓄深そうに聞こえるものの、わかったようでよくわからない物言いである。はあ、と生返事をした青児に対し、くすっと皓は小さく笑って、
「しかし青児さん自身も、まるで妖怪みたいですね」
「ど、ど、どうして」
 動揺で声が裏返ってしまった。
 あからさまに狼狽えた青児に、なおも皓はくすくすと笑って、
「だって、青児さんそっくりの妖怪がこの本の中にいますからね」
 開いたページには、悪人面になったアンパンマンがいた。いや、違う。どうやら人面の円鏡を描いたものらしく、これも妖怪の一種のようだ。添えられた名は――雲外鏡(うんがいきょう)
「およそ器物の霊と言われているものの中で、最も古くから存在するのが鏡の霊だとされます。その一つが、この雲外鏡です。妖魔の正体や人の悪事を暴く魔鏡――〈照魔鏡〉が妖怪化したものなんですよ」
「鏡、ですか」
 問い返したその時、ふと脳裏によみがえる記憶があった。
 確かあれは五歳の頃だ。公園で一人遊びしていると、空からキラキラと鏡の破片が降ってきた。本来は逃げるべきところだが、そこは脳みそ貧弱な五歳児である。
 こんな綺麗なものは見たことがない。そう思ったから手をのばした。光の軌跡を追うために、目をいっぱいに見開きながら。
 直後、その破片の一つが左目に入って――。
「あ―――!」
 そうだ。あの時、確かに眼球に痛みを感じた。なのに泣いて家に帰ると、傷一つ見当たらなくて「人騒がせな」と親から拳骨を食らったのだ。だから、あれは白昼夢のようなものだと思っていたのに。
「ああ、きっとその破片が照魔鏡だったんだと思いますよ」
 思えば、ちょうどあの頃を境に化け物の姿を目にするようになったのだ。となると、確かにその可能性が高いのだろうが――。
「ま、まさか、そんな非現実的なことって」
「ふふ、しかしどんなに否定したところで、青児さんの左目に不思議な力が宿っているのは変わりありません。活かさない手はないと思いませんか?」
 他人事と思ってか、皓少年の声はワクワクと弾んでいる。
「けれど、一体どんな風に?」
 この場合、警察官になるのが最も有効な活用法だろう。なにせ一目見ただけで犯人を特定できてしまうのだから。しかし公僕になれるだけの甲斐性などあるはずもない。
 一般市民として通報する手もあるが、「もしもし、あの人は何か悪事を働いているみたいですよ」と言ったところで、肝心の理由が「だって妖怪に見えたので」では、あわれみの眼差しで病院を紹介されて終わりだろう。
 だいたい就活のエントリーシートで「趣味・特技」の欄に「他人の罪を一目で見抜けます」と書いたところで人事担当にお祈りされるのがオチだ。
「ふむ、そうですね。手始めにうちでバイトしてみませんか?」
「え?」
「この屋敷の客人が青児さんの目にどう映るのか、それを僕に教えてくれればいいんです。ね、簡単でしょう?」
 至極あっさり言ってくれるが、そう単純なものだろうか。
「いや、けれど」
「もちろん衣食住は保証します。温かな寝床と食事、ついでにお小遣いも差し上げましょう。働いた分の給金も、きちんとお支払いしますので」
「ちょ、ちょっと待った!」
 たまらず青児はストップをかけた。
 そして「何か?」と首を傾げる皓少年に向かって、
「どうして住みこみ前提になってるんですか!」
「ああ、そんなこと。どうやらここ最近ネットカフェを泊まり歩いているご様子なので、住居も提供した方がいいかと思いまして」
「ど、どうしてそれを!」
 図星を指されて目をむく青児に、ついっと皓は人差し指を立てると、
「まずは傘ですね。雨が降ったのは五日前です。今日のように雨と無縁な日も傘を持ち歩いているとなると、傘はあっても置く場所がないと考えるのが妥当でしょう。つまり頻繁な移動が必要で、かつ宿なしということになります」
「う!」
「次に肩にかけたショルダーバッグです。サイドホルダーからミネラルウォーターのボトルが突き出していますね。しかし開封済みな上に中身はオレンジジュース。わざわざボトルを詰め替える人は珍しいですから、常に空のボトルを持ち歩いていて、中身をドリンクバーなどで補充していると考えるべきでしょう」
「い!」
「加えて、上着の右ポケットから携帯ストラップがはみ出しています。取り出しやすい位置にあるのを見ると、まだまだ使用可能なようです。回線も止められていないし、充電環境もある。となると」
 そこで言葉を切った皓は、にこっと青児に笑いかけた。
「可能性として高いのは、ホームレス一歩手前のネットカフェ生活。かつ、この暮らしを始めてからまだ日が浅く、せいぜい二週間程度と言ったところでしょうか」
「な、な、な!」
 唖然とするより他になかった。
 酸欠の金魚よろしく青児が口をパクパクさせていると、
「気にさわったらすみません。なにせ僕ですので」
 そう涼しげに言い放って、皓は二杯目のティーカップに口をつけた。
 物言いは殊勝なのだが、まったく悪びれた様子がないのはどうしたものか。いや本当に嘆くべきなのは、初対面の相手にここまで見抜かれてしまう我が身の薄っぺらさなのかもしれない。
「おや、早速、次の方がいらっしゃいましたね」
 慌てて振り向くと、そこに見覚えのある姿があった。
「あ!」
 素っ頓狂な声が出た。
 先ほどコンビニ前ですれ違った女性だ。若奥様という呼び方の似合いそうなセレブな立ち姿が、書斎の空気と見事に調和している。
 そして瞬きをした一瞬、その姿が青い僧衣の一つ目坊主へと変化し、また元に戻った。
「あ」
 向こうも青児に気づいたようだった。
「あの、こちらの方は?」
「ああ、助手の遠野青児さんです。置き物のようなものだと思ってください」
 あんまりな言われようではないだろうか。
 ともあれ、先ほどの青児と似たようなやり取りの後、あれよあれよという間に新客を加えてのティータイムが始まった。
 この少年、実は凄腕のナンパ師ではなかろうか。
「悩み事、ですか」
 例によって「悩み事相談のような」と仕事の説明をした皓に、乙瀬沙月(おとせなつき)と名乗った彼女は、ふと興味を引かれた顔つきをした。
「たとえば、どんな相談事が?」
「千差万別ですね。どんなに些細なことでもかまいませんよ。たとえ喉に引っかかった魚の小骨でも、抜けない限りは痛いままでしょうから」
「あの、じゃあ、その、本当に何でもないことなんですけど」
 と、沙月さんは恐縮したように前置きして、
「実は〈カスミソウの花束を〉というタイトルで個人ブログを開いてるんです」
 既視感がある。ずばり〈アルジャーノンに花束を〉の成りそこないだ。
「料理レシピや日記をのせてるんですが、雑誌の取材を受けてからアクセス数が急増して、メールやコメントがたくさん寄せられるようになったんです。ほとんどは好意的なものばかりなんですけど、中に一つだけ」
 スマホを差し出した左手には、結婚指輪のダイヤモンドが光っていた。
 表示されたのは、PCメールの受信トレイだ。メッセージの内の一通をクリックして開く。件名も本文も空欄のまま、画像ファイルが添付されている。
 ファイルを開いた瞬間、ほお、と皓の口から声がもれた。
「これは異様ですね」
「うわ、本当だ」
 横から頷いた青児も、思わずげっと顔をしかめる。
 
 首を吊らないか?

 現れたのは、そんな一文だった。
 ルーズリーフに殴り書きした文字を、デジカメかスマホで撮影したもののようだ。それだけで十分不気味なのだが、その上さらに――。
「なるほど、鏡文字ですか」
 殴り書きの文字は、上下はそのままに左右が反転している。鏡に映して反転させれば、きっと普通に読めるのだろう。
「さすがに気味が悪くて、すぐ拒否設定にしました。けれど、また別のアドレスから送られてきて、そのままイタチごっこになってしまって」
 ひっそりと沙月さんが溜息を吐いた。言った。改めて見ると、寝不足のためか薄ら隈が滲んでいる。憔悴しているようだ。
「差出人に心当たりは?」
「いいえ、全然」
 パチパチと大きく瞬きをして沙月さんが言った。
「返信はしたんですか?」
「無視しました。この手のイタズラは、相手にするとつけ上がると思って」
「賢明な判断です。警察に相談は?」
「いいえ、まだ。趣味でやっているブログですから、実害もないのに相談するのは気が引けて。あまり大事にして閉鎖に追いこまれるのも嫌でしたし」
「なるほど、ブログは止めたくないんですね?」
「はい。仲良くしてくださっている方も大勢いますし、毎日来てくださっているファンもいますから」
 ブログはおろか、LINEやTwitterといったSNSにすら縁がない青児にはよくわからないが、まあ、そういうものなのかもしれない。
 しかし、だ。
 確かに不吉なメールが届いたからといって即座に命を奪われるわけでもない。けれどイタズラと片づけるには、あまりに文面が不穏すぎやしないだろうか。
 と、ちょいちょいと皓に上着の袖を引っ張られた。
 〈何か?〉とアイコンタクトで訊ねると、すっと本が差し出される。先ほどの妖怪画集だ。〈片づけろと?〉と訊ね返すと、〈いえそうではなくて〉と苦笑が返ってきた。目次のページを爪先でとんとん叩かれ、ようやく察してページをめくる。
 やはり、あった。
 開いたページを上向きにして皓に返した。描かれているのは、古びた草庵を背にして佇む一つ目坊主だ。添えられた名は――青坊主。
「なるほど、確かに合点がいきますね」
「え?」
 独り言のように呟く皓に、沙月さんが怪訝な顔をする。
「もう一度お聞きします。本当に、差出人の心当たりはないんですね?」
 念を押すように訊ねた皓に、沙月さんはパチパチと不自然に大きく瞬きをして、
「いいえ、何も」
 短く答えて首を振った。何となしに引っかかりを覚える態度だ。
 と、気まずそうに沙月さんが目をそらして、
「あの、実は、お伝えしそびれてしまったことがあって」
「何です?」
「実は、ここ四ヶ月、一度も届いていないんです」
 正直、拍子抜けしてしまった。
 聞くと、以前は三日にあげず届いたものが、突然ぴたりと途絶えたらしい。
 ならば解決済みではないだろうか。表面上は一件落着のように思える。
「ええ、私もそう思ったんです。なのに胸騒ぎがおさまらなくて。このままだと不幸になる、取り返しのつかない何かが起こるって、そんな気がしてならなくて」
 思いつめた顔で言って、沙月さんは自嘲するように苦笑した。
「変なこと言ってますよね? 自分でも理屈に合わないと思うんです。もしかすると初めての妊娠で気持ちが不安定なのかもしれません」
 その言葉に、皓は意外そうに瞬きをした。
「おや、お腹の中に赤ちゃんが?」
「ええ、妊娠五ヶ月になります。これから産院に行く途中なんです」
 柔らかな笑みが唇に浮かぶ。そっとお腹の上に押し当てられた手は、卵を慈しむ親鳥よりも優しげだった。
 ――幸せそうだ。
(あれ?)
 その時、ふっと引っかかりを覚えて青児は首を傾げた。しかし、その理由まではわからない。単なる気のせいだろうか。
「変な話をしてすみません。けど、誰にも相談できなくて」
「では、旦那さんにも?」
 皓の問いかけに、沙月さんはたじろいだ顔で目を伏せた。
「夫は、この頃様子が変なんです」
 そう切り出すと、ためらうような沈黙を置いて、
「近頃、煙草の本数が急に増えてしまって。お腹の子に悪いって何度も言うんですけど、いつも返事が上の空で」
「それは弱りますねえ」
「父親としての自覚がないみたいなんです。男性ですから仕方のない面もあるとは思うんですけど、お腹の子を疎んでいるように感じられる時もあって」
 夫の名は、乙瀬凌介(おとせりょうすけ)。新進気鋭のグラフィック・デザイナーだ。
 仕事柄、徹夜仕事は当たり前。だからこそ少ない休日を夫婦二人で過ごし、外食やショッピングを楽しむのが結婚当初からの約束だった。なのに近頃の夫は、ふらっと一人で出かけてしまう。
 何より気がかりなのは、お腹の赤ん坊へのぞんざいな態度だ。ベビー用品の相談をしても「ああ」とか「うん」と生返事をするばかりで、酷い時には舌打ちで話を打ち切ろうとする。
 まるで妻の中にいるのが、得体の知れない化け物だとでも言いたげに。
「それは――」
 浮気では? と言いそうになって慌てて止めた。妊婦にストレスはよろしくない。
「マタニティーブルーってやつなのでは?」
「あの、男性はパタニティブルーだと思いますけど」
 慣れない横文字を使うとすぐこれだ。
「それなら、確かに心配事は一つでも減らしたいですね。つまり沙月さんは、そのためにこれから皓さんに犯人探しを――」
「いえ、そのつもりはないんです。むしろメールの件はそっとしておきたいと思っています。変に刺激したくなくて」
「え、けど、胸騒ぎで悩んでるって」
「ええ、ですから、なんとか心を落ち着ける方法がないかと思って」
 今一つよくわからない。そう思ったのは青児だけではなかったようだ。
 カチリ、と磁器の触れ合う音がして、
「どうもおかしな話ですね」
 と、ティーカップをソーサーに戻して皓が言った。
「夫のいない家に一人きり、お腹の中には赤ん坊。そんな状況で胸騒ぎがしたら、普通は虫の知らせと捉えるものじゃないでしょうか?」
「え、あの」
「結局、メールの差出人はどこの誰かも不明のまま。もしかすると、今この瞬間に沙月さんを待ち伏せしているかもしれない、そうは思わないんですか?」
「す、すみません、そろそろ時間が――」
 そそくさと席を立とうとする沙月さんの手を皓少年がつかんで止めた。
「差出人が誰か、本当は知ってるんじゃないですか?」
「え?」
「あなたは、初めから差出人に心当たりがあった。そして、その現況を知っているからこそ、危害は加えられないものと確信している、そんな風に見えるんです」
「失礼な! こんな脅迫まがいのメールを送ってくる人、心当たりありません!」
 かっとなった沙月さんが声を荒らげる。すると皓少年は、もがく蝶を逃がすようにそっとその手を放して、
「そもそも、脅迫メールとしては今一つ腑に落ちない文面ですね」
 そう呟いて、ことりと首を横に傾げた。
「この〈首を吊らないか?〉という言葉は、一見、死ね、殺すといった〈脅し文句〉と同じに感じられますが、厳密には〈誘い文句〉なんですよ。前者が一方的な意思表示や命令であるのに対し、後者は承諾か拒絶か相手に委ねているわけですから」
 確かに、言われてみるとその通りだ。
「受け取り方によっては〈一緒に首を吊らないか?〉というメッセージにも読み取れますね。たとえば差出人が男性の場合、男女の心中をうながすような――」
 途端、沙月さんが色を失くして立ち上がった。
「不愉快です、帰ります!」
 肩にかけたブランドバッグの底がティーカップに触れる。あ、と思った時には、テーブルに鮮やかな紅色の染みが広がっていた。はっと振り向いた沙月さんは一瞬怯んだ顔をしたものの、そのまま踵を返して退室してしまった。
「今のは、一体」
 何だったんだ、と青児は首をひねった。皓の発言もたいがい不躾だが、あの怒り方は過剰反応だろう。いや、それよりも――。
「青坊主っていうのは一体どんな妖怪なんです?」
 手元の本を開くより生き字引に問うのが早かろう。そう思って訊ねると、うーん、と皓は軽く首をひねって、
「そうですね。なかなか一概に言いにくい妖怪です。青い僧衣を着た大坊主のイメージは共通ですが、地域によって伝承がバラバラなんですよ」
「はあ、なるほど」
「ただ香川県の民話にこんなエピソードがありますね」

 ある正午のこと。子守りの少女が留守番をしていると、青坊主が現れて「首を吊らんか、首を吊らんか」と尋ねかけてくる。腹が立って無視していると、その手に捕まって気絶させられ、本当に首を吊らされてしまった。

「まるで通り魔じゃないですか」
 結局、赤ん坊の泣き声に気づいた近所の人に助けられたというオチつきだが、無理やり首を吊らされてしまうとは、なかなか恐ろしい妖怪だ。それにしても――。
「〈首を吊らんか〉って台詞、例のメールの文面とそっくりですね」
「ええ、返事をせずに無視したところも共通ですね」
 じゃあ、これから沙月さんは首を吊らされてしまうのか。ぶるりと背筋を震わせたところで、ふと青児は違和感を覚えた。
「けど、おかしくないですか? 話を聞いた限り、沙月さんはあくまで被害者だと思うんですけど」
 青児の左目はその人物の隠された罪を暴き立てる。それが皓の仮説だ。もしも青坊主という妖怪が、彼女が過去に犯した罪の性質を表しているのなら、彼女もまた罪人の一人だということになる。
「さあ、どうでしょうね。少なくとも彼女は何か隠し事をしていると思いますよ。そこに僕たちの知らない罪が隠れているのかもしれません」
 ふふ、と皓少年が笑った。人の悪い笑みだ。
「さて、青児さんにお願いがあります」
 言うが早いか、ティーワゴンを引いた紅子さんが現れ、でんとテーブルにノートパソコンが一台置かれた。当然のように最新モデルだ。
「沙月さんのブログを探し出して欲しいんです」
「はあ、けど」
 依頼人が帰ってしまったのだから、これ以上首を突っこむ権利はないのではないか。
「何でもきちんと蹴りをつけないと我慢ならないたちでして。もちろん給金はお支払いしますよ。時給二千円でどうですか?」
「ぜひやらせてください」
 善は急げとパソコンを立ち上げ、検索エンジンにキーワードを打ちこんだ。ほどなくして目当てのブログを発見する。
 更新は三日おき。〈こだわり全粒粉パンのさわやか野菜サンド〉や〈ハーブとトマトのフレッシュパスタ〉といったヘルシー志向の料理レシピの中に、ちらほらとエッセイ風の日記が挟みこまれている。
 都心の高級マンションでの夫婦二人暮らし。仲睦まじいツーショット写真に、北欧モダン家具のコレクション、長期ヨーロッパ旅行。世間も羨むセレブ生活だ。
 人気ブログというのは本当のようだ。〈幸せなご夫婦ですね〉や〈こんな生活、憧れます〉といった好意的なコメントが、記事の一つ一つに寄せられている。
 しかし、だ。
「いささか退屈ですね」
 皓少年はお気に召さなかったらしい。
「どの記事を読んでも、彼女独自の美学や価値観が感じられません。世間一般で〈幸せ〉とされるものをかき集めたように見受けられますね」
「はあ、確かにそんな気もしますが」
 しかし、昨今ではそれが普通ではないだろうか。
「さて、ではもう一つ青児さんにお願いがあります。沙月さんに何か変わった出来事がなかったか調べてください。おそらく四ヶ月ぐらい前だと思います」
「どうしてわかるんです?」
「嫌がらせメールが止んだのも、沙月さんの妊娠もその頃だからですよ」
 わかったようでわからない返事だった。無関係のようにも思えるが、下手の考え休むに似たりだ。何と言っても時給二千円である。
「あ、見つけました。これなんてどうです?」
 記事によると、四ヶ月前に同窓会があったようだ。正確には、本文ではなくコメント欄のメッセージだが。
〈明日の同窓会、会えるのを楽しみにしてます。みんなでカレッジソング歌おうね。久しぶりに飲むぞー!〉
 どうやら大学の同窓生による書きこみのようだ。名前欄には〈鳥辺野佐織(とりべのさおり)〉とある。本名だろうか。
「この名前で検索してみてください」
「わかりました。あ、出まし……え、怪談ブログ?」
 ブログ名は〈怪談編集者が行く!〉だった。
 オカルト月刊誌のライターとして、取材によって集めた体験談を本にする仕事をしているらしい。ブログ読者からも怪談を募集し、採用者には実際に会って取材することもあるようで、なかなか熱心な仕事ぶりだ。
「正直、ちょっと不気味なブログですね」
 まずデザインからして禍々しい。この辺りの地域も取材範囲に含まれているようで、なんと例の炊き出しのある公園が〈首吊りトイレ〉として紹介されていた。
 園内の公衆トイレでホームレスの老婆が首をくくって以来、同様の首吊り事件が絶えないそうだ。奇妙なことにいずれのケースでも遺書は見つからず、、まるで老婆の亡霊に取り憑かれ、我知らず首を吊ってしまったような状況らしい。
(怖っ!)
 ぶるっと背筋を震わせた青児がそっとページを閉じようとした、その時だ。
「おや、ちょっと待ってください」
 皓から制止の声がかかった。
 意外なほど真剣なその眼差しは、末端のブログ記事に注がれている。
「……死を招ぶ探偵?」
 怪談というよりは、一時期SNSで流行った都市伝説をまとめたもののようだ。
 何でも、都内某所に凄腕の私立探偵がいて、警視庁からの要請で殺人現場に赴いて事件を解決することもあるそうだ。
 百発百中。快刀乱麻。まさに名探偵と呼ぶに相応しい存在だ。
 しかし事件解決後、なぜか必ず死人が出ると言う。ほとんどの場合、犯人と名指しされた悪人ばかりなのだそうだが。
(あれ? 変だな)
 元より信憑性の低いネット情報の中でも、あからさまに馬鹿げた与太話のはずだ。けれど、なぜか冷たい気配がぞわっと背筋を這うのを感じて、青児は訝しく首をひねった。
 と、不意に皓が口を開いて、
「どうも嫌な感じがしますね」
「え、皓さんもですか? なんか妙に不気味ですよね」
「いえ、ちょっと厄介な知り合いを思い出したもので」
「……まさかこの探偵本人じゃないですよね?」
「ふふふ、さあどうでしょう。何にせよ、お近づきになりたくない相手ではありますね」
 くわばらくわばら、と心の中で唱えて、今度こそ青児はページを閉じた。詳しく訊いてみたい気持ちはあるが、触らぬ神に祟りなしだ。
 さて、何はともあれ、これでミッション達成である。
「ご苦労様。よく頑張りましたね。では、紅子さんにお願いしてアポイントをとってもらいましょうか」
 なら初めから紅子さんにお願いすればよかったのでは――。
 そうは思うものの、給金の話を反古にされても藪蛇なので、ここは沈黙を尊ぶことにした。雉も鳴かずば撃たれまい。
「さて、そろそろ夕飯にしましょうか。牛はお好きですか?」
「大好きです! 肉になれば!」
「では、すき焼きにしましょうか」
「牛も本望ですね!」
 控えめに言って牛すきは至福の味だった。あれほど美味しく調理してもらえるのなら、来世で牛に生まれ変わっても悔いはないだろう。
 晩餐の後、青児には客間の一室が与えられ、そこで寝泊まりすることになった。行く当てのない現状では、正直ありがたい限りである。
 どうやらこの屋敷は、玄関ホールを中心に、左右で和風と洋風に分かれているらしい。青児にあてがわれたのは二階右端の洋室で、逆に一階左端の風呂場は純和風だった。旅館で見かけるような檜風呂に浸かると、あまりの心地よさに潰れた蛙のような声が出る。垢と一緒に魂まで流れ出しそうだ。
 やがて風呂から上がると、当然のように脱いだ服が回収されて、新しい着替えが用意されていた。
 気分一新。なので当然、翌朝の目覚めも最高である。
「おはようございます、青児さん。今日も味わい深い寝癖ですね」
「……癖毛なんです」
 昨日と同じ、書斎のような一室で朝食をとった。テーブルの上には、オムレツやパンケーキといった洋風の皿が並べられている。ほかほかと湯気の立つパンケーキをホクホク気分で頬張っていると、
「住み心地はいかがですか? 不自由があれば、遠慮なく言ってくださいね」
 もしも青児が三歳児であれば、すかさず「ここんちの子にして!」と駄々をこねるところだろう。しかし残念ながら二十二歳児なので「パンケーキのおかわりありますか?」と訊ねるにとどめた。
 と、食事が一段落したところで、
「ところで青児さん、沙月さんの件なんですが」
 どうやら例の鳥辺野佐織なる人物とアポイントがとれたらしい。早速、駅前のカフェで待ち合わせだと言うのだが――。
「できれば青児さんにも同席して欲しいと思っています」
「え、具体的に、俺は何をすればいいんですか?」
「そうですね。わかったような顔をして、横でふんふん頷いていてもらえますか?」
 よし、決めた。潔く赤ベコに徹することにしよう。
 そして三時間後。普段は運転手役だという紅子さんは今日に限って別行動だそうで、タクシーを呼んで待ち合わせ場所のカフェに着いた。
 女性客が客層の中心らしく、若い男の二人連れ――しかも和装の美少年である皓は否応なしに目立つのか、四方からちらちらと視線を感じる。
「鳥辺野さんという方と待ち合わせで」
「ああ、奥の席でお待ちですよ。ご案内いたします」
 案内された四人掛けのテーブルには、すでに紅茶のカップがあった。そして待ち合わせ相手らしき人物が、すっと立ち上がって頭を下げる。
「初めまして。鳥辺野佐織です。西條皓さん、ですよね?」
 長めの髪を首の後ろで一束ねにしたスーツ姿の女性だった。肩書きから想像されるおどろおどろしさは微塵もなく、生真面目なOLといった印象である。
 営業スマイルで名刺が差し出され、やがて簡単な自己紹介が終わると、
「昨日はメールをありがとうござました。とても興味深い体験談をご投稿いただき、今日はぜひそのお話をと」
「すみません、実は謝らなければならないことがあるんです」
 ぺこりと頭を下げて、皓は率直にそう切り出した。投稿作はデタラメの作り話で、本当は佐織さんから話を聞くために今この場に呼び出したのだと。
「はあ、なるほど」
 戸惑い顔で座り直した佐織さんは、しばし考えこむように沈黙して、
「道理で読者投稿にしてはできがよすぎると思ったんです。あれは私を呼び出すための餌だったわけですか」
「本当に申し訳ありません。乙瀬沙月さんについて、どうしてもお聞きしたいことがあったもので」
 不意に佐織さんの顔から表情が消えた。
「……沙月が、どうかしたんですか?」
「嫌がらせメールの件はご存知ですか?」
 出し抜けに訊ねると、佐織さんは意表を突かれたように瞬きをした。
「え? ええ、知ってます。もしかしてそのために調査してるんですか? けれど沙月自身は、あまり気にしてなかったと思いますけど」
「おや、そうなんですか?」
「結局、自慢みたいなものなんですよ。私のブログはそんなメールが送られてくるほど流行ってるんだぞって。ほら、いるじゃないですか。ストーカー相談をしながら、実はモテ自慢したいだけって子とか」
「なかなか手厳しいですねえ」
 なんとなくわかる気がした。思えば、ブログに書かれたエピソードの数々も〈幸せアピール〉と言ってしまえばそれまでかもしれない。
「要するに探偵ってことですか? 雇い主は沙月本人?」
「いいえ、違いますよ」
「別の誰かってことですね。つまり旦那さん?」
「ご想像にお任せします」
「ふうん? ずいぶん勿体ぶるんですね」
 皮肉げに片眉を上げて、佐織さんは鼻白んだ顔をした。
 しかし、あからさまに拒絶の態度をとれないのは、やんごとなき御曹司然とした皓の扱いを決めかねているからだろう。逆にティッシュペーパー一枚よりも軽んじられるのが青児の常だ。
「ところで、佐織さんは嫌がらせメールの文面をご存知ですか?」
「いえ、全然。なかなか沙月が話したがらなくて」
 そこで皓が詳しく説明すると、
「……鏡文字?」
 鸚鵡返しに呟いた彼女は、はっと何かに思い当たった顔をした。そして、しばし逡巡するような間を置くと、
「もしかすると淳矢かもしれません」
 どうやら犯人の心当たりがあるようだ。
「沙月の元婚約者です。佐久真淳矢(さくまじゅんや)。私を含めてゼミの同期でした」
「どうして彼だと?」
「鏡文字です。淳矢は鏡文字を書くのが得意で、よくゼミの飲み会で見せてくれました。当然、沙月も思い当たったはずなんですが――」
「あえて気づかないふりをした、と。なるほど、署名のようなものだったんですね」
 警察の手に渡る可能性がある以上、署名入りにするわけにもいかない。だからこそ、あえて鏡文字にすることで差出人を仄めかしていたのだろう。
「差し支えなければ、詳しくお話をうかがっても?」
「いいですよ。他の誰に聞いたって、だいたい同じだと思いますから」
 存外さばけた口調で言って、佐織さんは肩をすくめた。革製のトートバッグから取り出したスマホをテーブルの上に差し出して、
「ゼミ合宿の写真です。これは長野のキャンプ場に行った時の」
 リア充かくあるべし、というお手本のような一枚だった。逆立ちしたって青児はまざれまい。中央で沙月さんの肩に腕を回した男性が淳矢青年だろう。育ちの良さそうなイケメンだが、どことなく淋しげな影があるのが印象的だ。
「なかなかの美男子ですね」
「正直、こっそり狙ってる子も多かったんです。まあ、淳矢は高校時代から沙月一筋だったんですけど」
「おや、皆さんその頃からのお付き合いなんですか?」
「ええ、寮つきの進学校でした。沙月も淳矢も、ちょっと家庭に難があって、それで惹かれ合ったんじゃないかと思います」
 お似合いの二人だったのだろう。寄り添いあう姿は、まるで幸せの象徴にも見える。となると俄然気になるのは――。
「破局の原因は何だったんでしょうか?」
「それが、言いにくい話なんですけど」
 言葉のわりには嬉々とした様子で、佐織さんはテーブルに身を乗り出した。
「実は、淳矢のDVが原因だったんです」
「おや、意外ですね」
「暴力男って感じじゃないですよね? けれど大学四年生になって急に」
「何かきっかけがあったんですか?」
「直接的な原因は、進路の悩みだったと思います。五月頃には、淳矢も大手企業に内定が決まってたんです。けれど、急に院に進学したいって言い出して。表向きは沙月も賛成してました。けれど淳矢の方が、院試へのプレッシャーから沙月に八つ当たりするようになってしまって――」
 まったく酷い話だ。
「ただ淳矢自身は最後まで否定してました。子供の頃、理不尽な躾で親に殴られたから、同じことは絶対にしないって。実際、親への反発から全寮制に進んだわけですし。それで周りも、最初は半信半疑だったんです」
 おそらく佐織さん自身も、彼を信じていた一人だったのだろう。古傷の痛みをこらえるような表情をしている。
「状況が変わったのは、頬を腫らした沙月が私のアパートに駆けこんでからでした。ソファで眠っていた淳矢を起こそうとしたら、突然〈うるさい!〉って殴られたって」
「それは酷いですね」
「ええ、左の頬が腫れて傷が残ってました。その時の血痕が、淳矢が右手にはめていたシルバーリングに残ってたんです。それでDVの話が一気に信憑性を帯びて」
「淳矢さん自身は、なんと?」
「覚えてないって言ってました。勉強疲れのせいでうたた寝してしまったって」
 そこで青児はついつい口を挟んでしまった。
「それって、本当に寝ぼけてたんじゃ?」
「けど、普段から暴力をふるっている人でないと、とっさに殴るなんてことできませんよね?」
 確かにそんな気もする。だからこそ、周りも彼に不信感を抱くようになったのだろう。
「沙月さんにも、不幸な時期があったんですね」
 呟くと、妙にしみじみした声になった。人に歴史あり。どんなに順風満帆な人生に見えても裏には苦労がひそんでいるわけだ。しかし――。
「そうでもないかもしれませんよ」
「え?」
 皮肉に唇を吊り上げた佐織さんが、再びスマホを差し出した。
 画面に表示されたのは、ウェディングドレス姿の沙月さんだ。白スーツ姿で寄り添う新郎は、いわゆる爽やか細マッチョのイケメンである。
 なるほど、これが乙瀬凌介氏か。
「ちょうど淳矢のDVに苦しんでる時期に知り合ったそうです。大手デザイン事務所のホープで、年収一千万。去年、若手の登竜門とされる新人賞を受賞してます」
「それは、確かに不幸じゃないですね」
 下種な言い方をするなら、恋人の乗り換えに成功したわけだ。
「沙月にとって、淳矢はちょうどいい踏み台だったんじゃないですか?」
 冷笑的な声だ。どうも言葉の端々に棘がある。
 もしかして彼女こそが嫌がらせメールの差出人では? 
 そんな邪推をしつつ皓を見ると、じっとスマホを見つめていた。
「もしよかったら、他の写真も見せてもらえませんか?」
「かまいませんよ。フォルダにまとめているので、他はいじらないでくださいね」
 軽く肩をすくめた佐織さんから皓の手がスマホを受け取る。横から身を乗り出して青児も画面を覗きこんだ。
「あれ?」
「何か気になりますか?」
 青児の目にとまったのは、キャンプ場の洗い場で撮影された一枚だった。端の方に、泡まみれのスポンジを手にした淳矢青年が写っている。
「イケメンでも皿洗いとかするんですね」
「はて、どういう意味ですかね?」
 大学時代に青児は一度だけバーベキューに誘われたことがある。
 しかし、なぜか肉が焼き上がる前に皿洗いを押しつけられ、言われるがままアライグマ化している内に、気がつくと解散済みだったということがあった。
 おそらく持ち寄りの肉を買えなかった青児が、駄菓子のビッグカツでお茶を濁そうとしたのも原因の一つだと思うのだが――。
「ふふ、それはいくら何でもぼんやりしすぎですね」
「けど皿洗い中ってぼんやりしません? だから落として割れたりするんですよね?」
「今以上に青児さんがぼんやりしたら、呼吸すら止まりそうですけどねえ」
 あんまりな言われようだ。
 抗議しようとしたところで、佐織さんの視線に気がついた。いつの間にか氷点下まで冷えこんでいる。バナナで釘が打てそうだ。
 慌ててスマホに視線を戻すと、
「あ、この写真、よく見ると皿洗い中じゃなくて、左手でメモをとってるんですね」
 どうやら後片づけの最中に電話がかかってきたらしい。
 泡まみれのスポンジを右手に握った淳矢青年は、耳と肩の間にスマホを挟んで必死にメモをとっている。人のことを言えた義理ではないが、いまいち要領の悪そうな御仁(ごじん)だ。
「すみません、今なんて言いましたか?」
 ふと真顔になった皓に聞き返され、青児は面食らって瞬きをした。
「え? だから、皿洗いじゃなくて左手でメモを――」
「なるほど、わかりました」
 何やら合点がいった様子で頷いている。今までになく上機嫌だ。
「青児さんは、目のつけどころが常人離れしてますね」
「え、そうですか?」
「ええ、立派に斜め上です」
 ……褒められた気がしないのはなぜだろうか。
「この写真がどうかしたんですか?」
 スマホを覗きこんで佐織さんも首を傾げている。
「いえ、少し気になることがありまして。よろしければ、こちらの一枚をメールで送ってもらえませんか?」
「かまいませんけど、変な使い方しないでくださいね」
「ありがとうございます。あ、送信先は、こちらのスマホでお願いします」
 皓が差し出したのは、テーブルにあった青児のスマホだった。
 ……わりとジャイアニズムなのだろうか。
「さて、その後淳矢さんはどうなったんでしょうか?」
「居づらくなってゼミを辞めて、結局、実家に戻ったって聞きました」
「おや。では、今もご実家に?」
「さあ、鬱病になってひきこもってるって噂です。まさに転落人生って感じですね」
「けど、自業自得ですよね? 元はと言えばDVが原因なんですから」
 思わず青児は力説してしまった。たとえどんな不幸に見舞われたところで、振るった拳が跳ね返ってきただけではないだろうか。
「本当にそう思いますか?」
「え?」
 意味深に言った沙織さんが、痙攣するように頬を歪める。笑ったのだ。
 さらにテーブルに身を乗り出すと、内緒話のように声をひそめて、
「沙月には、昔からちょっとした癖があるんです。本人は気づいてないんですけど、嘘を吐いたり隠し事したりする時、瞬きが大きくなるんですね。こう、パチパチって」
「あ」
 見覚えがあった。
 昨日、皓に嫌がらせメールの相談をしている最中のことだ。
〈もう一度お聞きします。本当に、差出人の心当たりはないんですね?〉
〈いいえ、何も〉
 そう答えた沙月さんは、不自然なほど派手に瞬きをしていた。
「淳矢に殴られて私のアパートに転がりこんだ時、ゼミの教授に泣きながらDVの相談をしている時、沙月はずっとこうやって瞬きしてたんです」
 思わず青児は絶句してしまった。ではDVを受けたという彼女の主張は、真っ赤な嘘だったのか。
「そのことを誰かに打ち明けなかったんですか?」
 自然、問い詰める口調になってしまった。
 しかし佐織さんは、はぐらかすように肩をすくめて、
「証拠のある話じゃありませんから。現に沙月は頬を腫らして診断書も出てるんです。友だちを疑うような真似をしたら、こっちが責められるに決まってます」
「けど、嘘だってわかってたなら」
「相手は沙月ですよ? もしも私が嘘だと訴えたら、あの子はそれを上回る嘘をでっち上げたんじゃないでしょうか。たとえば、実は淳矢と私が浮気していて、沙月へのDVを裏で指図していたとか」
 下世話であればあるほど、噂は真実味を増すようにできている。その点、たった今耳にした嘘は、真相としてまさに打ってつけのように思えた。
「ふふ」
 不意に佐織さんの口から笑みがこぼれた。
「実は四ヶ月前に大学の同窓会があって、私が幹事をやったんです。その時に、うっかり間違えて、淳矢の実家にも案内状を送っちゃったんですよ」
「え?」
「もしも淳矢の手に渡ったりしたら、会場の外で沙月を待ち伏せすることもできたかもしれませんね。本当に何かあったのかもしれませんよ? ちょうどその頃、一日おきだったブログの更新が三日おきに減ってますから」
「そんな、まさか」
 その時、はっと思い当たることがあった。
〈明日の同窓会、会えるのを楽しみにしてます。みんなでカレッジソング歌おうね。久しぶりに飲むぞー!〉
 一見、仲の良い友だちに向けたものに思える、あのコメント。もしもあれが、沙月さんが同窓会に参加予定であることを暗に仄めかすためのものだったとしたら。
「あなたは、沙月さんの友だちじゃないんですか?」
 ぞっと寒気を覚えつつ訊ねた青児に、佐織さんは肩をすくめて、
「あの子とは、そろそろ潮時だと思ってましたから」
 信じがたいほどあっさり言った佐織さんは、ふっと自嘲の笑みをこぼした。
「この仕事を始めた頃から、あの子に距離を置かれてたんです。沙月に必要なのは、自分の引き立て役をやってくれる〈しっかり者のお姉さん〉で、怪談を飯のタネにするような〈不気味な負け組女〉じゃないんですよ。だから友だちでいるのは止めにしました」
 きっぱり言って、トートバッグを肩にかけて立ち上がる。最後に皓を振り向くと、どこか挑むように微笑んで、
「見ててください。あの子、不幸になりますから。近いうちに必ず」
「あなたも」
 ぽつりとこぼれた皓の声は、まるで白紙に落としたインクの一滴のようだ。
「気をつけてください。人を呪わば穴二つと言いますからね」
 きり、ときつく唇を噛みしめる気配が返ってきた。
 低めのパンプスの踵を鳴らして、佐織さんの背中が遠ざかっていく。後には、ほとんど手をつけられなかった紅茶のティーカップが残された。
「あの」
 一体、何をどう言えばいいのか。
 ひたすら困り果てていると、突然にこっと皓が笑って、
「さて、そろそろ僕たちもお暇しましょうか」
「え、もう戻りますか?」
「そうですね。まだ時間もありますから、昨日ブログで見た〈首吊りトイレ〉にでも寄ってみましょうか。青児さんもご一緒にいかがです?」
「え、遠慮しときます」
「おや、つれないですね」
 くすくすと喉を震わせて皓が笑う。その声は、獲物を前にした猫の喉鳴らしにも似て、なぜか青児をぞくりとさせた。
「何にせよ、逢魔が刻までには帰りましょう。お客様がいらっしゃいますからね」

 ああ、嫌だ嫌だ。
 ふとそんな呟きをこぼしそうになって、沙月は唇を噛みしめた。
 ここ最近、いや、正直なところ四ヶ月前から鬱々とした気分が続いている。今日中にブログを更新しなければならないのに、今はパソコンの起動すら億劫だ。
 原因は、夫である凌介のことだった。
「ベビーベッドは、どこのブランドがいいと思う?」
 出産を控えた夫婦としては、当たり障りない話題だったはずだ。
 けれど凌介は「疲れてるんだ。後にしてくれないか」と溜息を吐き、沙月がカタログを開くと「君の好きにすればいいよ」とあきらめの表情を見せた。
「あなたには父親としての自覚がないの?」
 思わず責める言葉を口にしてしまった。
 しかし返ってきたのは、さらに耳を疑うような一言だったのだ。
「あるわけないだろう。そんなもの」
 その瞬間、愛した夫の姿が沙月には見知らぬ化け物のように見えた。
 それが、昨夜遅くの出来事だ。
 そして今、3LDKのマンションには沙月ただ一人が存在している。日に日に膨れ上がる不安を持て余したまま、もう何度目になるかわからない溜息を吐いて。
 とてもブログの更新などできそうにない。たくさんの人が目にする自分は、誰よりも幸せでなければならないのに。
「気分転換しなくちゃ」 
 確か駅前にオープンしたてのカフェがあったはずだ。上手くいけば日記のネタになるだろう。いずれ赤ん坊が生まれたら、ティータイムを気軽に楽しむこともできなくなってしまうのだから。
(本当は、凌介を誘って二人で行きたかったのに)
 心の靄を振り払いつつ、念入りに身支度を整えた。下ろしたてのカシミヤワンピースとコートを組み合わせ、お気に入りのパンプスをはく。口紅も買ったばかりの新色だ。
 エントランスをくぐると、息を呑むほど赤々とした夕陽が、空を禍々しく染め上げていた。嫌な既視感がある。地平線から燃え落ちるようなこの夕焼けは、あの不思議な屋敷に迷いこんだ時とまるで同じではないだろうか。
「あれ?」
 気がつくと、またも道に迷ってしまった。
 目の前には、真冬でも緑色をした冬蔦の生い茂るトンネルがある。この先を進めば、あの奇妙な住人たちの待ち受ける西洋館だ。
(嫌だ)
 反射的に踵を返そうとして、すんでに思いとどまった。
 引き返しても道はわからない。夜を迎えれば、気温はいっそう冷えこむだろう。お腹の赤ん坊のためにも、これ以上体を冷やすのは避けたかった。もう一度、屋敷を訪ねるより他ないかもしれない。それは、あの少年との再会を意味したけれど。
「ようこそ、お待ちしてました」
 (さえず)りにも似た声と共に、沙月は書斎のような一室に招き入れられた。
 気怠い夕暮れの光が、部屋中を深紅に染め上げている。ただでさえ死に装束めいた少年の着物は、今や血染めのように見えた。
 当然ながら、招かれて来たわけでは決してない。にもかかわらず、その少年の声を聞いた瞬間、沙月ははっきりと確信していた――喚ばれたのだ、と。
「どうぞ、ごゆっくりおくつろぎください」
 朗らかな声と共に、たちまちティーカップが並べられた。芝居の台本を演じるような気分で、沙月も椅子の一脚に腰かける。
 残りの一脚には、助手だという青年の姿があった。
 なかなか整った顔立ちだが、寝起きのような髪とぼーっとした目が、ぱっと見の印象を三枚目まで引き下げている。どことなく世渡り下手そうなところが、沙月にかつての恋人の姿を思い起こさせた。
「ところで、嫌がらせメールの差出人がわかりましたよ」
 出し抜けなその声は、白々しいほど朗らかだった。途端、かっと頭に血が上って沙月は椅子から立ち上がる。
「いい加減にしてください! その話は、もうとっくに」
「佐久真淳矢さん。あなたの元婚約者ですね」
 すかさず一枚の紙がテーブルクロスの上を滑った。どうやら新聞紙のコピーらしい。日付は四ヶ月前となっている。

 市内の空き家で、首吊り状態の遺体があるのを肝試し中の男女が発見し、警察に届けた。遺体は二十歳~三十歳くらいの男性で、死後数日と見られる。遺書などは見つかっていない。警察は身元の確認を進めると共に、詳しい死因や動機を調べている。

「この首吊り死体こそが、佐久真淳矢さんだったんですよ」
 淡々と告げる少年に、沙月は声を失って立ち尽くした。一体、どうやって突き止められてしまったのだろう。
「大学を退学した後に鬱病を患い、実家で閉じこもりがちの生活を送っていたようです。この数ヶ月前に実家を追い出され、将来を悲観して首をくくったと見られています」
「自業自得です。過去の行いが報いとなって返ってきただけでしょう」
「本当に、そう思いますか?」
 念を押すように訊ねた少年に、沙月は大きく瞬きをした。
「ええ、思います」
 声の震えを誤魔化すことができなかった。気持ちを落ち着かせようと沙月はティーカップに手をのばす。色濃く淹れられた紅茶は、深紅の血のようにも見えた。
 本来なら口にすべきではないのだろう。紅茶のカフェインは胎児に悪影響だから。けれど今は、たとえ一瞬でも少年から意識をそらしたかった。何をどこまで知られているのか、慎重に聞き出さなければいけないのに。
(え?)
 ふと水面に何かが映った。
 そして、それが頭上で首を吊った老婆が、虚ろに彼女を見下ろしている姿だと気づいた瞬間、沙月は悲鳴と共に立ち上がっていた。
 ガチャン。
 取り落としたティーカップが、足元の絨毯に血痕じみた染みを広げる。
「い、今のは!」
「おや、どうしましたか。お化けでも見たような顔をして」
 逃げよう、と沙月は思った。一刻も早くこの少年から逃げなければ。この屋敷から何事もなく帰れると思っていたのが、そもそもの間違いだったのに。
「ああ、お帰りになる前に、こちらの写真を見てください」
 差し出されたスマホには、なぜか懐かしい写真があった。
 ゼミ合宿での一場面だ。バーベキューの後片づけ中、泡まみれのスポンジを手にした淳矢が、耳と肩の間にスマホを挟んだ格好でメモをとっている。バイト先からの電話だったらしいが、「またかけ直します」の一言ですむはずなのに、そんな不器用さが微笑ましくて、ついからかってしまったのを覚えている。
「この写真が、どうかしたんですか?」
「左手ですね」
「え?」
「淳矢さんの手です。よく見ると、左手でペンを握ってるんですよ」
 慌てて写真を確認する。
 ――本当だ。
 泡まみれのスポンジを握ったのは右手。そしてボールペンを走らせているのは左手だ。
「よほど慌てた様子に見えますね。そんな時、とっさに利き手と逆の手でメモをとる人がいるでしょうか? つまり淳矢さんにとっての利き手は、もともと左手なんですよ」
「まさか、ありえません! 授業でも家事でも、淳矢はずっと右手を使ってました」
「過去に右利きに矯正したんでしょう。普段は右手を使っていたからこそ、周りも気づかなかったんですよ。もしかすると、ご両親による〈理不尽な躾〉というのは、偏見に基づいた左利きの矯正のことだったのかもしれません」
 躾のためなら容赦なく殴る親だったと淳矢は言っていた。あれは、まさか左利きを止めさせるためのものだったのか。
「鏡文字のことを聞いた時点で、引っかかってはいたんです。左右反転した鏡文字は、左利きの人には書きやすいですからね。そのため、幼少の頃に自然と鏡文字を習得することも多いんですよ。〈不思議の国のアリス〉のルイス・キャロルも、もともと左利きだったからこそ鏡文字を書けたと言われています」
 そこで少年は人差し指をぴんと立てると、
「ここで一つ疑問が生じます。左利きの人が向かい合わせで相手を殴った場合、逆の右頬が腫れるのが普通なんです。なのに淳矢さんからDVを受けたあなたは、左頬を腫らしていた。そうですよね?」
「……何を言いたいんですか?」
「つまるところ、あなたの自作自演なんです。眠っている淳矢さんの手からシルバーリングを抜き取り、ご自分の手にはめ直して頬を殴ったんですよ。薬局で買った市販薬を飲み物に溶かしておけば、眠気を誘うには充分ですからね」
「い、言いがかりです! 名誉毀損で訴えますよ!」
 頬を張る勢いで叫んだ声は、しかし悲鳴のように裏返ってしまった。対して少年は、変わらぬ笑みを浮かべたまま、白磁のティーカップに唇を寄せると、
「勘違いしないでください。むしろ僕はあなたを不幸から救いたいと思ってるんです」
「ふざけないでください! あなたに私の何がわかるって言うんですか?」
「実は今日、案内係の紅子さんに頼んで、ご実家のことを調べてもらったんです。沙月さんは中学生の頃、お母様を亡くされてますね? それも淳矢さんと同じ首吊り自殺だったと」
「ええ、それが何だって言うんですか」
 応じた声は、自然、吐き捨てる口調になった。
「ご近所の評判では、愚痴と溜息の多い方だったと聞いています。事あるごとに自分と他人の幸不幸を比べては、妬み、羨み、嘆き、結局、最期まで不幸そうだったと」
「ええ、母は私と正反対の人間でしたから」
 皮肉に唇が歪むのがわかる。しかし少年は、ただ静かに首を振ると、
「いいえ、今のあなたはお母様にそっくりですよ」
「え?」
「お二人とも幸せのあり方が、あまりに他人ありきなんです。自分にとって何が幸せかわからない。だからこそ、誰よりも不幸なんですよ」
 違う、と沙月は首を振った。
 幸せな結婚、幸せな夫婦生活。すべてを手に入れるため、人一倍努力してきた。それこそ血を吐くような思いで、これまでの人生を歩んできたのだ。
(あと少し、ほんの少しだけで)
 子宮には、すでに待望の第一子が宿っている。この子を産めば、世間の羨むすべてが手に入るはずだ。今度こそ幸せになれるのに。
「ね? あなたが幸せを求め続けるのは、今あなたが幸せじゃない証拠なんですよ」
 くすくす、と喉を鳴らして少年は笑った。
 そして、まるで鼠を前足でもてあそぶ猫のような目で、
「罪を犯せば相応の罰が待つ、それが因果の法です。しかし子が親を選べない以上、あなたに同情の余地があるのもまた確かだ。だから、あなたが地獄の罰を逃れたいと望むなら、誰かにその罪を告白してください。さもないと生き地獄に堕ちますよ?」
 考えるまでもない。
 直後に沙月は立ち上がった。そして喉から声を振り絞って、
「死んでも嫌!」
 その一瞬後、ふっと視界に影が差した。
 たった今、太陽が燃え尽きて夜が訪れたのだ。まるで暗闇にたった一本灯っていた蝋燭を吹き消してしまった時のように。
 そして少年は、暗闇にあってなお皓すぎる顔を沙月に向けると、

「ならば、地獄に堕ちて頂きましょう」

 と、嗤った。
 え、と訊ね返した直後、パン、と手を打ち鳴らす音が聞こえて、 
「あれ?」
 はっと気がつくと、見慣れた通りに立っていた。
 自宅マンションから徒歩十分ほどの細道だ。いつの間にか帰路についていたらしい。けれど一体どうやって屋敷を出たのか、沙月は思い出すことができなかった。
 ひょっとすると、すべて夢だったのだろうか。緑のトンネルの先にそびえる洋館も、死に装束めいた和装の少年もまた、何もかも悪い夢だったのかもしれない。
 けれど、黒い靄のような胸騒ぎが心にまとわりついて離れなかった。今にも取り返しのつかない何かが起ころうとしているように。
「ああ、嫌だ嫌だ」
 思わず呟いてしまって、はっと唇を噛む。
 ――ああ、嫌だ嫌だ。
 この言葉こそが、沙月の母の口癖だった。不平、不満、愚痴の塊のような人で、たとえ何をしていようと、気がつけば「ああ、嫌だ嫌だ」と呟いている。そして〈お隣がヨーロッパ旅行をした〉〈親戚がキッチンをリフォームした〉と、どこからか聞きつけてきては「それに比べてうちは」と、深い深い溜息を吐くのだ。
「ああ、嫌だ嫌だ。どうして私はこんなにも不幸なんだろう」
 そんな母を喜ばせたくて、小学五年生になった沙月は、母の日のプレゼントに一万円もするエプロンを贈った。貯めていたお年玉を財布に詰め、苦労してバスを乗り継いで遠くのデパートまで買いに出かけたのだ。
 喜んでもらえると思っていた。
 笑ってもらえると信じていた。
 幸せよ、と笑ってもらえるはずだと。
 けれど。
「嫌だわ、エプロンなんて。これ以上、私に家事を頑張れって言うの?」
 そう言って母は深い深い溜息を吐いた。
「ああ、嫌だ。お隣はカーネーションの花束をもらったって言うのに」
 それを聞いた途端、心の中で何かが爆発するのを沙月は感じた。
「お母さんなんて死んじゃえばいいのに!」
 そして、その日を境に沙月の中から母の存在はいなくなったのだ。
 塾に行きたいと父に掛け合うと、あっさり塾代と外食費を出してくれた。昔から家に寄りつかない父は、あの母と娘を二人きりにさせている負い目があったのだろう。
 同塾の友だちが多かったので、淋しさを感じることはなかった。夜は午後十時までファミレスで過ごし、朝にはテーブルに並んだ朝食を無視して家を出る、その繰り返しだ。
 もはや「ただいま」と「おかえり」の声もない。家にあったのは「ああ、嫌だ嫌だ」と繰り返す母の呟きと、氷よりも冷たい沙月の沈黙だけだ。
 思えば、あの頃から母はおかしくなっていったのだ。やがて近所中から避けられ、親戚からも疎遠にされた母は、日がな一日虚ろな目でテレビを見ているようになった。
 そして、ある日の朝のこと。いつも通り台所を素通りしようとした沙月は、テレビに向かって呟く母の独り言に足を止めた。
「ああ、嫌だ嫌だ。どうして私はひとりぼっちなんだろう」
 次の瞬間、自然と唇から声がこぼれていた。
「嫌なら死ねば?」
 それこそ、沙月がずっと言いたかった言葉だった。
 そんなに嫌なら、死んじゃえばいいのに。
 直後、ぐるりと振り向いた母の顔に、沙月はぎょっと息を呑んだ。久しぶりに向き合った母は、まるで何日も食べていないように骨と皮ばかりになっていたのだ。
「じゃあ、一緒に首を吊ってくれる?」
 その言葉を無視して、沙月は家を飛び出した。
 そして塾を終えて帰宅すると、暗くなったままの台所に、ぼんやりと佇む母の姿があった。電気をつけた直後、床に立っているとばかり思ったその姿が、天井から一本のロープで吊り下げられていることに気がついた。
 テーブルの上には、ラップのかかった料理が並び、そこにスーパーのチラシが一枚のせられている。殴り書きの文字で、沙月に宛てたメッセージがあった。

 あなたもいつかこうなるよ

 救急車を呼ぶよりも先に、ビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。
 本当は通報すらしたくなかった。このまま死体を無視して家を飛び出してしまいたい。もしもまだ息があるのなら、この手で絞め殺してやったのに。
 それから二年後。
 沙月の口から母の最期を聞いた淳矢は、どこか困ったような顔で頷くと、
「沙月が、そうやって怖がる気持ちもわかる気がする」
「怖い? 怒る、とか、憎む、とかの間違いじゃなくて?」
「たぶん全部間違いじゃないんじゃないかな。俺も怒っているし、憎んでるし、怖がってるよ。存在そのものを頭から締め出さないと、いつか親と同じになる気がして」
 そう言った淳矢もまた、親に恵まれずに育った子供だった。
 背中に火傷の痕があるのは、幼い彼の〈悪さ〉に腹を立てた父親が、熱いアイロンを押し当てたからだと言っていたから。
「けれど、いつかそうやって親の記憶すべてを忘れることができたら、俺にとって沙月が初めての家族になるんだね」
 そう言って屈託なく笑った淳矢の顔は、あどけない子供のようにも見えた。
(馬鹿な淳矢、お人好しの淳矢)
 このまま一緒に幸せになれると思っていたのに。
「実は、内定を辞退して院に進学したいと思ってるんだ」
 そう真剣な顔で淳矢に切り出されたのは、大学四年生の春だった。
 優秀なゼミ生が、指導教員の説得に応じて院に進学するのは、割とよくあるパターンだろう。けれど淳矢の場合、壮年の教授に父親の姿を重ねているように感じられた。相手に必要とされることに酔ってしまっているような。
「だから沙月との結婚の約束を、もう少し待ってもらえないかな?」
 けれど、沙月は首を横に振ることができなかった。
「わかった。応援する」
「ありがとう。沙月ならそう言ってくれると思ってたよ」
 ――ああ、嫌だ嫌だ。
 そう呟く母の声が、どこからか聞こえた気がした。このまままだと不幸になるよ、と囁きかけるように。
 そして。
「あのね、沙月さん。お見合いって興味ある?」
 人気クッキングスクールで講師に声をかけられたのは、ちょうどその頃だった。
「甥っ子にね、大手のデザイン事務所に勤めてる子がいるんだけど、よかったらあなたを紹介できないかと思って。ほら、この子なんだけど」
 差し出された写真の中では、いずれ夫となる凌介が弾けるように笑っていた。成功者として生きることへの自信に溢れ、不幸など一生関わり合いがないと言わんばかりに。
「叔母バカだけど、なかなかのイケメンでしょ? 年収だって悪くないのよ。まだ若いのにアートディレクターって肩書きだし、有名な広告デザインも手がけてて、ほら最近、テレビCMでもやってるのよ」
 講師の口ずさんだCMソングは、沙月でも知っている大企業のものだった。人気料理研究家兼クッキングスクール講師である彼女の実家が、由緒正しい資産家であることも知っている。おそらく甥である彼が、その一員であることも。
「あら、ごめんなさい。私ったら肝心なことを聞きそびれてしまって。沙月さんは、今お付き合いしている方はいらっしゃるの?」
「いいえ、いません」
 そう答えたことに後悔はなかった。
 けれど、このまま淳矢と別れれば、相手の肩書きや年収に目が眩んで心変わりする女だと勘違いされてしまう。捨てられた淳矢に同情が集まれば、やがては沙月の悪評に繋がり、巡り巡って新たな婚約者となる凌介の耳に入る可能性もあった。
 だから。
 淳矢にDVの罪を着せたのは、仕方のないことだったのだと思っている。
 案の定、沙月の裏切りを知ってなお、淳矢が彼女を責めることは一度もなかった。それどころか、ありもしないDV被害を訴える沙月に、周りが疑いの目を向ける中、他でもない淳矢ただ一人だけが沙月をかばい続けたのだ。
 沙月はそんな奴じゃない。何か理由があるはずなんだ、と。
(そんなわけ、ないのにね)
 そもそも沙月が淳矢に近づいた理由は、打算以外の何物でもないのだから。母親の死について打ち明けたのも、そうすれば共感と同情を買うことができると踏んだからだ。
 誰もが羨む恋人としての容姿と将来性。この二つを兼ね備えた存在が淳矢しかいなかったというだけの話なのだ。そう、これまでは。
(馬鹿な淳矢、お人好しの淳矢、可哀想な淳矢)
 周囲の目がどんどん疑惑に染まっていく中で、淳矢は何度も沙月のアパートを訪ねて話し合いをしようとした。
 だから沙月は言ったのだ。
「私は、あなたの家族になんて、本当はなりたくなかったから」
 どんな言葉が、淳矢を決定的に打ちのめすか知っていたから。
 そして。
「そんなにあの親から生まれたのが嫌なら、首でもくくって死んじゃえばいいのに」
 沙月のその一言は、確かに淳矢を不幸にしたのだ。
 それきり淳矢は、沙月と顔を合わせないままゼミを辞め、噂では実家でヒキコモリ同然の生活を送っていると聞く。
 だから、この先もう二度と会うことはないと、そう思っていたのに。
「なあ、一緒に首を吊らないか?」
 ――四ヶ月前。
 同窓会の帰り道で、嫌がらせメールの差出人として沙月の前に現れた淳矢に、かつての面影はどこにもなかった。薄汚れたジャンパーには点々とフケが散らばり、のびるに任せた髪の下から覗く目には、凄まじい隈ができている。
 まるで不幸そのものだ。
 そう思った沙月は、胸にわき上がる苛立ちと嫌悪から、黙って淳矢に背を向けた。今の彼には、言葉をかける価値すらないと思ったのだ。あの日、首をくくった母と同じように。
 その時、首筋に刺すような痛みが走り、スタンガンを押し当てられたのだと気づいた直後には、気絶させられて廃墟に運びこまれていた。そして目を覚ました沙月の前には、淳矢の首吊り死体があった。悲鳴を上げて廃墟を飛び出した沙月は、逃げるようにマンションへと帰宅して――そして、それきりだ。
 淳矢は遺書を残さなかったようだ。彼の死は、人生に挫折した元エリートの自殺として世間に受け入れられ、ろくに葬式もあげられないまま忘れられた。ありもしないDVをでっちあげた沙月の罪も、誰にも知られないままで。
 何もかも終わったのだ。これでもう彼女を脅かすものは何もない。そのはずなのに。
(妊娠、していたなんて)
 日に日に膨れ上がる下腹部と共に、彼女の胸のざわめきもまた存在感を増していった。
 もしも淳矢が気絶している沙月に対して乱暴を働いていたとしたら。
 心中相手として沙月を連れ去っておきながら、土壇場で道連れにすることを止めた理由が、彼女が淳矢の子を妊娠する可能性に賭けたからだとしたら――。
 今、彼女の中で育っている赤ん坊は、取り返しのつかない不幸の種になってしまうのではないだろうか。
(ああ、嫌だ、嫌だ)
 さらに夫である凌介の態度が、彼女の不安に拍車をかけた。もしかすると彼は、お腹の中にいる赤ん坊が自分の子ではないと本能的に察して、邪険な態度をとっているのではないだろうか。
(そんなわけないのに)
 幾ら自分自身に否定してみせたところで、現に夫は沙月の存在を避け続けている。かつて彼女の父が母にしたのとそっくり同じ、忌々しげな顔つきをして。
 ――ああ、嫌だ嫌だ、どうして私はひとりぼっちなんだろう。
 脳裏に浮かんだその声を、沙月はきつく頭を振って払い落とした。
(頑張らなくちゃ、もっともっと)
 誰よりも幸せにならなければいけないのに。
 もしも不幸になれば、最期に母が残したあの言葉通り、首をくくってしまうから。
(ああ、そうか)
 気づいてしまった。沙月に取り憑いている囁き声の正体は、〈あなたもいつかこうなるよ〉と書かれた、あのたった一枚の紙切れだったのだ。
「あら、沙月さん!」
 突然、背後からかけられた声に、沙月はつんのめるように足を止めた。
 振り向くと、かつて沙月と凌介の仲を取り持ってくれた講師の姿がある。自称・叔母バカの彼女は、甥っ子の妻となった沙月のことも可愛がってくれ、折りを見てランチやショッピングに連れ出してくれた。
 恵まれている、と思う。
 けれど、もしも沙月たち夫婦の仲に亀裂が入れば、彼女は間違いなく甥である凌介の肩を持つだろう。だからこそ近頃は顔を合わせたくない相手だった。特に今この時は。
「ちょうどよかった! 近くまで来たから寄ってみたのよ。ほら、この頃、あんまり顔を見せてくれないでしょ。元気にしてるかなーって思って」
「すみません。最近、夫の仕事が立てこんでいて」
「いいのよー。亭主元気で留守がいいって言うけど、一人きりで家を回すのも大変だもの。ね、これから一緒に食事でもどう? 駅前にオープンしたてのカフェがあるのよ」
 あのカフェだ、と沙月は思った。
 そういえば、もともとそのためにマンションを出て来たのだ。それにエネルギッシュで大らかな彼女といると、次第に気持ちが軽くなるのを感じる。
 よし、このまま二人一緒にカフェに行こう。
 久しぶりに胸が弾むのを感じた、次の瞬間だった。
「すみません、ちょっと首を吊る約束がありますので」
 沙月の口から飛び出したのは、信じられない一言だった。
 ――今、なんて言った?
「あ、あの、すみません。用事を思い出したので失礼します」
 ぽかんとする講師にそそくさと頭を下げて、沙月は逃げるようにその場を後にした。
(首を吊るって――私が?)
 そんな馬鹿な、と思うのに、体の奥にはざわざわと膨れ上がる予感がある。はちきれそうになった不安と焦燥は、今にもパンと音を立てて破裂してしまいそうだ。
 助けて、と誰彼かまわず叫び出したい。
 小さな子供のように地団太を踏んで、私は不幸だと泣きわめきたい。
 そんなことができる相手は、淳矢しかいなかったのに。
(マンションは駄目、一人になるから。誰か人のいるところに行かなくちゃ)
 どこへ行けばいいのかわからないまま、闇雲に足を進める。どうやら公園に向かっているようだ。どこか他人事のように考えたその時、ぶらん、と彼女の視界に二本の足が垂れ下がった。まるで〈ここでおしまい〉と通せんぼをするように。
(そういえば)
 脳裏に浮かんだ母の死体は、沙月が子供の頃に贈ったあのエプロンをつけていた。そして、台所のテーブルの上にはラップのかかった二人分の食事があったのだ。
 もしかすると母が骨と皮になるほど痩せていた理由は、もう一度沙月と一緒に食事をとれる日を待ち続けていたせいなのかもしれない。
「お母さん」
 ほとんど無意識に口の中で呟いた、その直後。
 ざわざわと体の中で蠢いていた何かが、ぎゅっと下腹部に集まって、どろりとした熱の塊となって股の間から流れ出したのがわかった。
 ――ああ、生まれてしまった。
 そう心の中で呟いたのを最後に、ふつりと沙月の意識は途切れた。

 ああん、ああん。

 暗闇の向こうから泣き声が聞こえる。
 小さな子供の声?
 いや、違う。赤ん坊だ。
 辛くて、苦しくて、悲しくて――淋しくて。
 泣かずにはいられないと訴えるように。
 助けて、助けて、と誰彼かまわず叫び続けている。
 こんなにも私は不幸だ、と。
 ああ、早く。
 抱きしめなければ。
 黙らせなければ。
 止めさせなければ。
 私以外の誰にも気づかれてしまわないように。
 お前は不幸だ、と誰かに言われてしまう前に。
 早く首を絞めなければ。

 ああん。ああん。

 瞼を開けると、そこは冷たいタイルの敷かれた公衆トイレで、今の今まで気絶して倒れていたらしい沙月の傍らには、大きな声で泣きわめく赤ん坊の姿があった。
「泣き止んで」
 這いずるように近づいて、その首に手をかける。
 途端、ぐにゃりと粘土のように歪んだ頭部が、ひどく見覚えのある顔に変わった。
(お母さん?)
 思わず呼びかけようとして、その直後に気づく。
 ああ、違う。この顔は――。
〈嫌なら死ねば?〉
 そう囁いた赤ん坊は、世にも厭らしい顔で笑った。それが沙月自身だと気づいた瞬間、彼女の手は赤ん坊の喉を絞め上げていた。
 こきん、と音を立てて小枝を手折るような感触が伝わってくる。
 ああ、なんて呆気ない。
 ずっとずっと私は私をこうしたかったのに。
(幸せにならなくちゃ)
 誰よりも幸せに。
 そうしなければ、私は私を赦すことができないから。 
 なのに。
 何をすればいいのか、不意にわからなくなってしまった。
 ああ、どうしよう。
 早く早く、幸せにならなくちゃいけないのに。
 何をすればいいんだっけ?
 ああ、そうだ、思い出した。
 ――首をくくらなくちゃ。
 そして沙月は、肩にかけていたショルダーバッグの紐を換気用の窓にかけると、その端を喉に巻きつけて首をくくった。

 ……こきん。


 数日後。
 相変わらず居候生活を続ける青児のスマホに、佐織さんからメールが届いた。なんと〈首吊りトイレ〉と呼ばれるあの公衆トイレで、沙月さんの首吊り死体が見つかったと言うのだ。換気用の窓にショルダーバッグの紐をかけ、遺書の一つも残さないまま。
〈何かご存知ありませんか? 思い当たることがあったら何でも教えてください〉
 そんな風に結ばれたメールからは、激しい動揺が感じられた。
〈見ててください。あの子、不幸になりますから。近いうちに必ず〉
 その言葉通りになったのに、そこにあったのは、ただ混乱と後悔だけだったのだ。
 そして三時のお茶の時間を迎えて、
「そうですか。残念ですね」
 紅く淹れた紅茶を口にした皓は、メールの文面を読み上げた青児に、そんなコメントを返した。その顔に動揺はない。まるで予測済みの未来を知らされたかのように。
「あの、つまり沙月さんは、この屋敷を出た直後に首をくくったんですよね?」
「ええ、そうなりますね」
「良心が咎めたってことなんでしょうか? けれど自殺する感じじゃなかった気がして」
「さて、本人にその気がなくても首をくくってしまうことだってありますからね」
「……冗談ですよね?」
「さあ、どうでしょう」
 ふふっと皓少年は笑った。例によって、わかったようでわからない返事である。それよりも、と青児は二通目のメールに目を落とした。何よりもまずわからないのは――。
「沙月さんの遺体から、赤ん坊が見つからなかったそうなんです」
 自殺の知らせを受け取った時、まず青児はお腹の赤ん坊の安否を訊ねた。十中八九、死んでしまったに違いないだろうが、それでも万が一の奇跡があればと。
 しかし佐織さんから返ってきたのは予想もしない一言だった。
〈妊娠はありえないと思いますよ。だって自殺した時、沙月は生理になってましたから〉
 そんな馬鹿な。それこそありえない話ではないか。
 そう青児が訴えると、ふふ、と皓は小さく笑って、
「なるほど、青児さんは馬鹿なんですね」
「ば」
 不意打ちのアッパーカットを食らった青児は、しばらく口を利くこともできずに固まった。なぜ今このタイミングで暴言を浴びねばならないのか。
 一方、生身の彫像と化した青児にかまわず、ゆったりとティーポットから二杯目の紅茶を注いだ皓は、香りを楽しむように目を細めて、
「おかしいとは思わなかったんですか? てっきり僕は、青児さんも気づいているとばかり思ってたんですが」
「な、何をですか?」
「沙月さんは、はなから妊娠してなかったんですよ」
「は?」
 思わず豆鉄砲をくらった鳩のごとき反応をしてしまった。
「思いこみによる妄想――想像妊娠の一種と言えるかもしれませんね。ほら、思い出してください。初めてこの屋敷で会った時、彼女は産院に向かう途中だと話してましたよね? けれど彼女がはいていたのは、細いヒールのパンプスだったんです」
「あ」
 なるほど、あの時の違和感の正体は、彼女の足元にあったわけか。
「それに、この近くに産婦人科はないんですよ。あるのは心療内科だけなんです」
「それじゃあ、彼女は」
「ええ、〈妊娠している〉という妄想を治療するため、カウンセリングに通っていたんでしょうね」
 しかし症状は一向に改善せず、そんな彼女を持て余した夫は、次第に帰宅を避けるようになり、その孤独感が症状の悪化に拍車をかけた。これこそが、彼女を悩ませ続けた胸騒ぎの正体だったのだろう。
「人を一人死に追いやっておいて、何もなかったことにするのは無理があるんですよ。罪悪感、後悔、自責、不安、罪の発覚への恐れ。そうした感情が歪みとなって体に宿ってしまったんです」
「じゃあ、そのせいで沙月さんは死んでしまったんですね」
 どこかほっとした気持ちで青児は呟いた。
 沙月さんを死に追いやったのがあくまで彼女の良心だったなら、直前にこの屋敷で皓と会話を交わしたことは、何も関係なかったことになる。
 けれど――。
「さて、そろそろ青児さんにも話しておくべきでしょうね」
 カツン、とティーカップの底を鳴らして、皓は柔らかに微笑んだ。
 なぜかその笑みが急に不吉なものに思えて、青児は無意識のうちに椅子を引いた。ギッと悲鳴にも似た軋みが聞こえてくる。
「ここで一つおさらいです。青坊主という妖怪の特性は、その問いかけにあります。拒絶か承諾か、相手に選択肢を委ねるんですね。無視すれば首をくくられますが、きちんと拒絶の返事をすれば、何もしないまま消えてしまうことがほとんどなんですよ」
「は、はあ、そうなんですか」
「その点、さらに恐ろしいのが〈縊鬼〉でしょうね」
「……縊鬼、ですか」
 江戸の昔に伝わる話だそうだ。
 とある酒宴で、遅れて来た客の一人が「急用があるので断りに来た」ととんぼ返りしようとした。様子がおかしいで訳を訊ねると「喰違門で首をくくる約束をした」と言う。酒を呑ませて引き止めたところ、やがて喰違門で首吊りがあったという報せが届き、その客は命拾いをすることができた。
「つまり縊鬼というのは一種の憑き物なんですよ。人に取り憑いて悪い心を起こさせる魔物は、総じて〈通り魔〉と呼ばれますが、縊鬼の場合、首吊り自殺者の怨霊が冥府で苦しむ自分自身の身代わりにしようと、見知らぬ他人に憑いて首をくくらせるんです。一度憑かれてしまえば、拒絶する術はありません」
「あのー、一向に話が見えて来ないんですが」
 焦れた青児がそう切り出すと、皓はにこっと笑顔を見せて、
「青児さんは〈首吊りトイレ〉という怪談を覚えてますか?」
「はあ、佐織さんのブログのやつですよね。公園の公衆トイレで、次々と人が――」
 首を、と続けようとした時だった。
 皓の手にしたティーカップ、その円くて紅い水面に、ざんばら髪をした老婆の首吊り死体が映っているのに気づいて、青児はガタリと立ち上がった。
「な、な、な!」
「おや、ようやく気づきましたね。今、青児さんが見たのが縊鬼なんですよ」
 あっけらかんと言った皓に、青児は茫然と凍りつくより他になかった。
「結論から言うと、〈首吊りトイレ〉の怪談は、縊鬼の仕業なんですね。これまで一度も現場に遺書が残されなかったのは、首をくくった本人にそのつもりがなかったからなんですよ」
「な、え?」
「先日、佐織さんとお会いした帰りに例の公衆トイレに寄ってみたんですね。すると、やはり縊鬼がいました。だからこの屋敷まで連れ帰って、沙月さんに憑いてもらったんですよ」
 囀る声は、天気の話でもするような朗らかさだ。
「ど、どうして」
「それが、彼女の罪に対する罰だったからです。だから、地獄に堕ちて頂きました」
 喘ぐように訊ねた青児に、至極あっさりと皓が答える。
 そんな馬鹿なと否定したいのに、今この部屋の天井には、皓が連れ帰ったという縊鬼がいる。けれど、理性や常識すら超えた根源的な恐怖が、目の前の現実を拒んでいた。
 この少年は、一体何者なのだろう?
「ところで青児さんは、現世にも地獄の鬼が現れることがあるのを知っていますか?」
「い、いいえ」
「本来、地獄の鬼は冥府ばかりでなく現世にやってくる存在でもあったんです。悪人たちを生きたまま火焔燃えさかる車にのせて、閻魔大王のもとに送り届けるんですね。しかし現在、その役割はおろそかになっています。なにせ獄卒の数は限られているのに、亡者は増え続けるばかりですから」
 そこで、と皓は指を一本立てると、
「閻魔大王のとった対策が、業務の一部を肩代わりさせることだったんです。当世風に言うとアウトソーシングですね。その出張所として、この屋敷にはある呪いが施されてるんですよ」
 夜叉の面よりも皓いその顔で、ふふ、と笑った。
「逢魔が刻になると、その身に罪を秘めた罪人が、知らず知らずの内にこの屋敷へと引き寄せられます。そのどれもが警察の手を逃れ――あるいは罪そのものが露見することなく隠しおおせた罪人たちです。その罪を暴いて地獄に堕とすのが、ここにいる僕の仕事というわけです」
 ふと思い当たることがあった。
 初めてこの屋敷に足を踏み入れた日、青児に仕事の内容を問われた皓が、初めて口にしたあの言葉――。
「じゃ、じゃあ、まさか代行業って言うのは――」
「ええ、地獄代行業です」
 きっぱりと皓が答えた。
 悪い冗談としか思えない。けれど現に人が死んでいるのだ。
「ただ今回の沙月さんのように、同情の余地があると認められた相手には、裁定を下す前に、必ず一度は贖罪の機会を与えることにしています。残念ながら、滅多に受け入れられることはないんですけどね」
 そうつけ加えた皓の顔は、どことなく淋しげだった。
「い、今まで一体、何人が――」
「全部で二十二人ですね。いえ、沙月さんを含めて二十三人になりました。最終目標は百人ですから、まだまだ先は長いんですけどね」
 苦笑するように言ったその顔は、珍しく自嘲的なものにも見えた。
「さて、青児さんは〈稲生物怪録〉という怪異譚をご存知ですか?」
「い、いいえ」
「おや、有名な話なんですけどね。後に武太夫と名乗る三次藩士の平太郎少年が、十六歳の頃に体験した怪異を集めた話なんですよ。あまりに荒唐無稽なので創作と見なす向きもありますが、実は登場人物全員の実在が確認されている実話なんです」
 比熊山での肝試しによって、妖怪たちの不興を買った平太郎は、それから三十日間、さまざまな化け物の襲撃を受けることになる。そして最後に現れたのが〈魔王〉と名乗る山本五郎左衛門だった。平太郎少年の勇気を褒めたたえた魔王は、その手に褒美の木槌を手渡し、家来の妖怪たちを率いて去って行く――。
「僕の父親は、その山本五郎左衛門なんですよ。普段は素性を隠すため、母方の姓を名乗ってますけどね」
「そんな、じゃあ、まさか妖怪たちの親玉――」
「――の、跡取り息子ですね」
 にっこり笑って皓が断言した。あくまでたおやかなその微笑みに、青児は悪寒と動悸を同時に感じる。
「より正確を期すなら〈親玉と目される内の一人〉に過ぎませんけどね。たとえ肩書きが魔王であっても、同格の競争相手がいる内は威張ることもできませんから、そうなれるよう鋭意努力中といったところです」
 苦笑するように皓が言う。そして、まっすぐ青児の顔を覗きこんで、
「さて、そこで青児さんにお願いがあります。できれば僕は、この先も青児さんに助手をお願いしたいと思っているんですが」
「も、もしも断ったら?」
「断りませんよ、あなたは。それはわかってるんでしょう?」
 見透かしたように皓が笑った。
 三日月の形に歪んだ唇は、人形のように美しく整いながらも、般若の面をかたどったものに感じられる。たとえどんなに見目麗しくとも、薄皮一枚?げばその下から現れるのはぬらぬらと血に濡れて嗤う鬼の顔だ。
 逃げたい。
 そう思うのに足の裏が床にへばりついて動かなかった。まるで悪夢だ。夢を見ていると知りながら目覚めることができない。
 けれど、選択肢は一つきりだ。
 板子一枚下は地獄と言うが、今やぽっかりと足裏に穴があいたのを青児は感じていた。底知れない虚無と絶望のその闇は、目の前の少年の瞳と同じ昏さをたたえている。
 つまり文字通り地獄のような目に遭いたくなければ、百魔の王であるこの少年のもとで、助手として働くより他ないのだ。
 けれど地獄の鬼と共に亡者を呵責する日々は――苦悶する罪人たちを目の当たりにしながら、いずれ下される裁きに怯え続ける日々は、まさに生き地獄ではないだろうか。
「もしも、俺がこの先、何か罪を犯すことがあったら――」
 我知らず口にした問いかけに、皓は「おや」と小首を傾げた。
 そして白牡丹が狂い咲くように笑いかけると、
「その時は、(よろず)(わざわい)があなたをお待ちしています」
 直後に青児は、この少年がなぜ牡丹の花を身にまとうのかわかった気がした。
 
――百禍(ひゃっか)の王だ。

第一怪・了



(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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