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シークレット・オブ・シークレッツ

解放された翻訳者のプラハ旅行記
【第1回】



プロローグ

〈ダ・ヴィンチ Web〉と〈カドブン〉に掲載された「監禁された翻訳者の手記」はもう読んでくださっただろうか? 4月中旬から7月上旬にかけて、『シークレット・オブ・シークレッツ』(ダン・ブラウン著、KADOKAWA)の翻訳チームが壮絶な環境のもとで作業を進めてきた過程を克明に書き綴った記録である。まだ読んでいないかたは、翻訳者の仕事の一端を、いや百端ぐらいを垣間見ることができるので、ぜひご一読を。
 さて、その手記の最後の最後に、わたしはこんなことを書いた。

 プロモーションの手立ても少しずつ決まり、越前もそれに向けていくつか原稿やメッセージを書いていたところ、9月半ばに驚きのニュースが飛びこんできた。監禁が決まったときに負けないぐらいの衝撃だ。ええっ、ほんとうにそんなことが? もしそれが実現したら、長期の監禁によって押しとどめていたエネルギーを一気に放出できるかもしれない。そして、ほっとして、この手記の第2部を書くことになるのか? 第1部「監禁編」、第2部「解放編」とか。

 すみません、「ほっとして」じゃなくて、「ひょっとして」でした(この時点じゃ、まだほっとなんかしてません(T_T))。
 それはそうと、驚きのニュースとは、「翻訳者をプラハへご招待」のお知らせだった!
 そんなわけで、手記の続編もしくは第2部として、さっそく「解放された翻訳者のプラハ旅行記」を公開しよう。


この旅は、チェコ政府観光局様との協業により実現しました。



監禁された翻訳者の手記──
『シークレット・オブ・シークレッツ』翻訳秘話

2025年11月6日に発売されたダン・ブラウン最新作『シークレット・オブ・シークレッツ』の翻訳秘話が詳細につづられた、翻訳者・越前敏弥氏の日記を大公開! ダン・ブラウン作品として原書の発売日から史上最速での邦訳刊行となった『シークレット・オブ・シークレッツ』は一体どのようにして実現したのか? 超貴重な翻訳者の仕事内容、進め方、興奮から心の葛藤まで、実際の日記でお楽しみいただけます。






◎9月11日(木)
 KADOKAWA編集部の『シークレット・オブ・シークレッツ』(以下、SOSと呼ぶ)担当者のひとり、伊集院元郁さんから驚きのメールが届いた。内容を要約すると、以下のとおり。

・SOSの舞台がプラハなので、チェコ政府観光局が本書に大変興味を持っていて、プラハ市でSOSの舞台を巡る観光パッケージを作ろうと考えている。ついては、日本のダン・ブラウン読者に影響力のある方を現地にお招きし、シリーズ読者や愛書家に向けた発信をお願いしたい(文章、写真、動画など、発信手段は要相談)とのこと。
・編集部としては、翻訳者である越前敏弥さんをいちばんの適役として先方に提案したいと思っている。
・あくまで候補だが、渡航時期として先方から11月10日から15日ごろはどうかと提案してきている(日本版発売日が11月6日なので、その直後だとKADOKAWAとしても大歓迎)。
・プラハ市内の滞在は2、3日程度。
・写真や動画での発信をする場合、編集部から1、2名の同行者は必要かと考えているので、今後交渉する。

 どわっ。(監禁が決まったときは「ぐわっ」でした、念のため)。
 実はダン・ブラウン作品の舞台めぐりで海外へ行かないかと打診されたのははじめてではなく、『ダ・ヴィンチ・コード』のときにも話があったのだが、そのときは旅行社の主催で、なんとなく立ち消えになっていた。
 だが、今回はチェコ政府観光局だと?
 うれしいご招待なのはもちろんだが、まだ半信半疑だった。前のときのように話が流れることだってある。この商売、そんなに甘くない。「映画化決定!」とか言われてウキウキしていても、ほんとうに映画化されるのはそのうちの10分の1ぐらいだし。
 そして、メールにもあるとおり、さまざまな発信をするなら自分ひとりではむずかしく、手伝ってくれる人が少なくともひとり必要だ。自撮りなんてやったことがないし、顔がちょん切れたり鼻の穴がどアップになったりするのが目に見えている。
 11月の前半は朝日カルチャーの翻訳講座をはじめとして、いくつかはずせない予定がはいっていて、先方の希望する期間の渡航は不可能だ。プラハの滞在期間が2、3日なら、旅行期間は全部で4、5日だろう。23日には文学フリマ東京に出店することになっているから、その前々日の21日には帰国していたい。
 そんなわけで、16日から21日までなら渡航できる旨を伝えた。
 それにしても、なんだか夢みたいな話だ。そう言えば、ラングドン・シリーズには夢から目が覚めてがっかりするシーンがけっこうある。ただの夢で終わってしまわなければいいが……
◎9月18日(木)
 伊集院さんからメール。先方はこちらの希望の日程でOKとのこと。ただ、編集部からの同行が可能かどうかについては、プラハでどんな発信ができそうかを見きわめてから判断したいという。もう少し具体的な話をするため、22日にオンラインミーティングをすることになった。
◎9月20日(土)
 SOSの本文を読んだり、すでに発売された英語版に関するネット記事を見たりして、まわるとよさそうな場所の候補を選び出す。
 カレル橋、旧市街広場の天文時計、プラハ城、ペトシーン・タワー、クレメンティヌムははずせないだろう。
 フォリマンカ公園と十字架砦も重要な場所だが、たぶん観光スポットではないから、どんなものか。
 鍾乳石の壁はぜひ見てみたい。できればブラック・エンジェルズ・バーも。
 あとは、ゴーレムにまつわる何か。ゴーレムのぬいぐるみを持って撮ってもいいし、なんなら着ぐるみを着たってかまわない。
◎9月22日(月)
 KADOKAWAの伊集院さん、SOS担当編集者の松原まりさんとオンラインミーティング。
 やはり、発信のためには同行者1名は欠かせないという結論。
 発信は、越前のSNSを総動員して画像つきでつぎつぎポストをし、KADOKAWAとチェコ共和国のアカウントで拡散していく形が原則。動画も撮り、後日編集してなんらかの形で公開することになるだろう。
◎9月25日(木)
 ちょっと話はそれるけど、この日にBSテレ東「あの本、読みました?」の収録(放送されたのはSOS発売日の11月6日)。
 鈴木保奈美さんも池上彰さんも、ほんとうに隅々までSOSを読みこんでくださっていて、ただただ感謝(この時点では発売前なので、表紙のない仮綴じ版をお渡ししてありました)。
◎10月2日(木)
 SOSをもう一度読みなおし、訪れたい場所のくわしいリストを作っていく。
 個人的に最も見たいのは、作中では少し言及されるだけのセドレツ納骨堂だが、ここはプラハから70キロぐらい離れているし、時間的に無理だろうな、と思いながらも、いちおうリストに入れる(こわいのが好きな人は画像検索してみてください)。
 今月、東京と大阪でチェコフェスティバルが開催されることを知り、両方行く計画を立てる。好都合にも、大阪では朝日カルチャー中之島教室の講座がある時期に開催されるので、そちらへも出向けそうだ。
◎10月3日(金)
 チェコ政府観光局から連絡があり、越前以外にも同行1名OKとのこと。これでひと安心。
 ところが、本国の事情で11月はむずかしいので、12月はどうかとも打診あり。う~ん、空いていないこともないけど、SOSのプロモーションを考えたら11月のほうがいいし、それになんと言っても12月のプラハはめちゃくちゃ寒いんじゃないか? 寒いのは苦手。だが、とりあえず、変更可と返事をする。
 もうひとつ、12日に東京のチェコフェスティバルで登壇してくれないか、と打診あり。日本の観光局局長と30分程度、ステージで話してもらいたい、と。こちらはもちろんOK。
10月12日(日)
 二子玉川の駅近くでおこなわれたチェコフェスティバル2025 in 東京へ。
 会場はものすごい人だかりで、こんなににぎわうイベントなのかとびっくり。ビールとか、ボヘミアングラスの店とか、すごい人気です。
 政府観光局のブースの一角でSOSを宣伝してもらっているのがありがたい(実はこの時点でできていたのは表紙だけなので、この見本の中身は白紙です。だましてすみません)。
 17時ごろから、KADOKAWAの伊集院さん、『天使と悪魔』のころから懇意の菅原哲也さん(監禁日記の終盤で濡れ煎餅を食べた犯人)と、チェコ政府観光局のシュテパーン・パヴリーク局長、担当の麻生理子さんといっしょに、今後のことやこのあとのトークの内容について打ち合わせ。
 局長は日本語はまだ勉強中とのことで、やりとりは英語で、ときどき麻生さんが通訳してくれる。局長はとにかくよくしゃべる陽気な人だ。はっぴが妙に似合っている。こういう楽しい人が観光局のトップなら、旅行客が増えそうな気がする。
 日程は結局、11月中旬で問題ないということになった。ほっとする。
 その他、滞在中に見てまわりたいところの希望を伝えたところ、何日目にどういう順序でまわればいいかなど、プラハ市のほうで考えてアレンジしてくれるという。
 こちらはなるべくラングドンの行動をなぞりたいので、あたって砕けろとばかり、「フォーシーズンズ・ホテルのロイヤルスイートに泊まれるのか」と尋ねてみたが、局長はワッハッハと何度も大笑いしただけで、うまくかわされてしまった。まあ、無理だわな。
 その後、局長とふたりでステージに立ち、SOSの内容についてネタバレにならない程度に話しながら、プラハのおすすめスポットなどをいろいろ紹介してもらう。
 どんな食べ物や飲み物に期待しているかと局長が尋ねたので、満を持して「コフォラ!」と答えた。コフォラというのはSOSの72章に登場するコーラに似た飲み物で、翻訳チームの一同が作業中からずっと飲みたがっていた。局長によると、「アメリカのコーラよりはるかにうまい!」んだそうだが、どんなものだろうか。
 イベント終了後、フェスティバルの会場で、軽くビールで乾杯。といっても、1杯がやたらとでかい。
 そのあと、菅原さん、伊集院さんと3人で近くのパブへ行き、軽く打ちあげ。世界各国のビールがある店で、菅原さんがガンガン飲んでいる。菅原さん、ほんとうは自分自身でビール大国チェコへ行きたいだろうなあ。
◎10月13日(月)
 前日の午後ぐらいから、SOSの Amazon での予約順位が一気に跳ねあがっている。きのうのチェコフェスティバルの効果としか思えない。麻生さんからのメールにも、装幀見本に関心を示してくれた人がおおぜいいたと書いてあったので、まちがいない。
 チェコフェスティバル東京には、2日間で約1万人の入場者が訪れたらしい。
 いよいよ、プラハ旅行が楽しみになってきた。
◎10月23日(木)
 畏れ多くも、広尾のチェコ共和国大使館にて開催されるチェコ共和国のナショナルデー(チェコスロヴァキア独立記念日)のパーティーに招待していただいたのだが、この日は講座があって、残念ながら辞退した。伊集院さんと菅原さんが出席したらしい。
◎10月26日(日)
 堺でおこなわれたチェコフェスティバル2025 in 関西に参加。
 わたしは幼少期からずっと南海ホークスのファンだったのだが、南海電車に乗ったのはこれがはじめてだ。どうでもいい話ですみません。
 大阪は期間が3日間と長くて、会場も東京よりかなり広く、ブースの数も多い。堺市と提携する形でかなり前からおこなってきたので、近隣の人たちも毎年の行事として楽しみにしているらしい。
 会場で観光局長と麻生さんに再会。
 麻生さんにメールで事前連絡したとき、その到着時間だとライオンのアテンドでブースを離れているかもしれないとのことだった。ライオンのアテンドってなんだ? 実際に行ってみると、チェコ観光局マスコットのレフ丸の着ぐるみが歩いていて、たしかにその横に麻生さんがいた。お疲れさまです。ちなみにレフ丸は写真左で、右は麻生さんではなく、堺市のゆるキャラ、ハニワ部長だ。
 16時から、これまでに何度かイベントでごいっしょしたことがある阿部賢一さん(東京大学教授、中東欧文学・比較文学)の講演がステージであるので、その1時間前に阿部さんと待ち合わせをし、少しお話をうかがった。
 阿部さんは、チェコ文学の普及に寄与した研究者、翻訳者に贈られるPremia Bohemica 賞を受賞し(外国人でこれを受賞した例はほとんどないらしい。すごすぎる!)、その授賞式や記念講演のために直前までチェコに滞在なさっていて、そこから直接大阪へ帰っていらっしゃった。そんなお疲れのさなかに話を聞かせてくださって、申しわけないかぎりだった。
 その後、阿部さんの講演がはじまったが、何年も前から大阪のチェコフェスティバルにかかわっていらっしゃるので、開始時の司会のチェコ人男女とのやりとり(もちろん日本語)はまるで漫才で(失礼!)、息もぴったりだった。阿部賢一さんの漫才を聞きたい人は、来年以降の大阪チェコフェスティバルに参加しましょう。
 阿部さんの講演は現代チェコの女性作家についてのもので、ビアンカ・ベロヴァー、アンナ・ツィマ、カテジナ・トゥチコヴァーといった作家の作品が、クイズを交えてわかりやすく紹介された。勉強になりました。アンナ・ツィマについては、その後わたしがプラハへ行ったときに興味深い話をひとつ聞くことになるんですよ。
 クイズでおもしろかったのは、「チェコ語で "ニェメッツ" はドイツ人を意味しますが、その本来の意味は?」というもの。選択肢は(1)ビールが好きな人、(2)踊りが上手な人、(3)おしゃべりしない人。正解はどれでしょう? 答は(3)。ということは、逆にチェコ人はおしゃべりだというわけで、阿部さんの知り合いにもそういう人が多いという。観光局長のことを思い出して、笑ってしまった。
 阿部さんは講演の最後にSOSの紹介もしてくださった。プラハの空港では、ふつうのお土産物屋さんの店頭に、チェコ語版が何百冊も積まれていたそうだ。
 ますますプラハ行きが楽しみになるイベントだった。阿部さん、観光局のみなさん、ありがとうございました。
◎10月30日(木)
 渡航日程がなかなか確定しないが、とりあえずパスポートの写しなどを送る。
 編集部からは松原さんが同行することに決まる。SOSの直接の担当編集者なので、わたしと同じぐらい作品内容を熟知しているから心強い。
◎11月6日(木)
 SOS日本版、ついに発売。
 わたしはこの日、神保町の PASSAGE で一日店長をつとめ、SOSの販売にいそしむ。ありがたいことに、この日だけで上下34セットが売れた。来てくださったみなさんに感謝!
 正午には、〈ダ・ヴィンチ Web〉と〈カドブン〉で「監禁された翻訳者の手記」が公開。予想どおりの大反響。まだ読んでいない人は読んでね。
 そして22時から、BSテレ東「あの本、読みました?」が放送。ダイジェスト版はここで観られます。
 とにかく、記念すべきすばらしい一日となった。
◎11月7日(金)
 夜に日本橋のブルヴァール・トーキョー(BULVÁR TOKYO)で、SOS翻訳チームの打ちあげ。監禁された翻訳者6人(青木創、岡本麻左子、久野郁子、茂木靖枝、廣瀬麻微、越前敏弥)と編集者3人(菅原哲也、伊集院元郁、松原まり)が勢ぞろいし、武内由佳局長(かつてダン・ブラウンの5作品の担当編集者だった)も参加してくれる。映画〈9人の翻訳家〉のように死者を出さず、無事出版に至ったことに乾杯。あらためて、お疲れさまでした。
 チェコ料理専門のレストランということもあって、ビールのつぎ方を3種類から選べるという。後日、実際にプラハへ行ってからも、この3種類を選べると表示されている店はあったし、表示されていないとしても、頼めば希望どおりにしてくれる店が多いとのことだった(何も言わなければ、上のハラディンカでつがれる)。
 自分自身は翌朝に講座があったりでビール1杯だけに抑えたが、みんなは監禁生活の鬱憤を晴らすかのように鯨飲していた。
◎11月11日(火)
 渡航便がようやく確定する。行きも帰りも成田からポーランド航空(LOT)の飛行機で、ワルシャワで乗り換えることになる。
 出発は17日(月)の夜で、帰国が21日(金)の夜。
 乗り継ぎ時間も合わせると、行きは18時間、帰りは16時間で、なかなかハードだ。
 とはいえ、麻生さんによると、この便だと乗り換え時間が短めだという。
 いろいろ一気に準備しなくてはならなくなるが、WiFi機器、モバイルバッテリー、コンセント変換アダプター、海外旅行保険などを、すべてこの日のうちにKADOKAWAで手配してくれる。ありがたい、ありがたい。松原さんはフランクフルトのブックフェアなどでよくヨーロッパへ行っているので、安心してまかせられる。
 夕方には、プラハの担当者フイエンさんも交えて、関係者全員のオンラインミーティング。
 プラハでの大ざっぱな行程も決めてくれ、どういうルートでまわるかも教わる。
 プラハで過ごすのは正味2日半。3日目の夕方に帰路に就くことになる。
 まわりたいと希望を出した場所のうち、見送らざるをえなかったところとその理由は以下のとおり。
・ケーブルカー(53章)は工事中で運転していない。
・ギガス写本(悪魔の聖書、55章、57章など)は本来スウェーデンにあるもので、いまプラハにはない。
・鍾乳石の壁とヴァルトシュテイン庭園(125章など)は、冬のあいだは閉鎖。
・セドレツ納骨堂(55章)は内部撮影禁止で、プラハから遠いので時間的にも無理。
・旧ユダヤ人墓地(71章)では、ふつうにまわるだけ(ゴーレムの着ぐるみを着たりはできない。ちょっと残念)。
 ほかはすべて希望が通り、盛りだくさんの楽しい旅になりそうだ。
 いちばん楽しみなのは、フォリマンカ公園の R2-D2(101章)と、やっぱりコフォラかな。
◎11月14日(金)
 3日間のプラハ滞在中、チェコ語・英語・日本語の3か国語ができるガイド兼通訳の人ふたり(1日目&2日目担当と、3日目担当)がついてくれることが決まる。そのほか、すでにプラハではじまっているSOSツアーの担当者がひとり、半分ぐらいの行程でついてくれるという。心強いかぎりだ。
 プラハの担当者フイエンさんとガイドの人たち、日本の麻生さん、松原さん、越前の連絡はWhatsApp のグループでおこなうことになり、後日アプリを入れることになる。WhatsApp は英米の作品を訳しているとよく出てくるが、自分では使ったことがない。
 プラハの市内でトラムや地下鉄が乗り放題となるPrague Visitor PassのQRコードも送られてくる。72時間有効とのことなので、現地に着いてから起動させるほうがよさそうだ。
 いろいろなことが一気に動きはじめた。
 こんなさなかだが、SOSがらみで、某ラジオ番組への出演が決まる。お相手のパーソナリティは、びっくりの大物だ。この手記が公開された時点で、放送されているかどうかな?
(追記――番組は12月21日の深夜に J-WAVE で放送された〈GROWING REED〉でした。パーソナリティはなんと岡田准一さん! 『シークレット・オブ・シークレッツ』や苦闘の翻訳作業のことをたっぷりお話ししました)
◎11月16日(日)
 いよいよ翌日出発なので、買い物を少々。
 寒さは日本の12月、1月程度とのことだが、念のためにヒートテックとかマフラーとか手袋とか。
 現地の人へのお土産には、小さい煎餅の詰め合わせを少々。
 ぜんぜん関係ないけど、監禁日記に5回登場した香港のアンジェラ・ユン(袁澧林)がニュージーランドのアジア太平洋映画祭で最優秀主演女優賞を受賞。おめでとう、アンジェラ。これで気持ちよく出国できる。
◎11月17日(月)
 今夜遅くの出発ということで、WhatsApp のアプリを入れるが、なかなかグループにたどり着けない。メールで松原さん、麻生さんのアドバイスを受けながら、20分ぐらい格闘してようやくグループに入室! こんなていたらくで、プラハへ行ってもだいじょうぶだろうか。ただ、使いはじめてみると、要領は LINE とほとんど同じなので、老兵でもどうにか使いこなせそうだ。
 一方、スマホのSMSのほうには、現地のタクシー会社から確認のメッセージが来ている。なるほど、こんなふうに事が運んでいくのか。
 20時半ごろ、成田空港着。来たのは何年ぶりだろうか。この前の海外旅行は2022年のイギリス行きで、このときは羽田発着だったし、その前がどこだったかは思い出せない。
 この時間帯、ポーランド航空以外の出発便がほとんどないらしく、空港は閑散としている。3年前にイギリスへ発ったときはまだ新型コロナの時期でいろいろ制限があって、羽田空港が異様に静かだったが、そのときといい勝負かもしれない。
 そんなこともあって、レストランはほとんどが20時半ごろに閉店。成田で旅立ちのラーメンを食べてから出発するつもりだったので、あてがはずれてしまった。唯一、テイクアウト限定で営業していたマクドナルドにはいるが、ここも21時半に閉まってしまう。プラハじゃラーメンを食べられないだろうから、ちょっときつい(実は食べることになるのです)。
 ワルシャワ行きの便に乗るのはほとんどがおそらくポーランド人で、日本人は数えるほどしかいない。
 そんなわけで、23時5分、松原さんとふたりで成田空港から出発。
 なお、今回の旅でわれわれはラングドンとキャサリンみたいなことにはなりませんでした。期待に沿えなくてすみません。だれも期待してないか。

 実は数日前から喉が痛くて風邪気味だったこともあり、機内ではあまり眠れない。眠れたのは合わせてせいぜい3時間ぐらいか。
 食事は計2回。残念ながら、飲み物のなかにコフォラはなかった。
 ポーランド人は体の大きい人が多く、通路を歩くのが窮屈そう。わたしは通路側の席だったので、歩いている人としじゅう体がぶつかったが、みんな、その程度の肉弾戦はあたりまえなのかもしれない。
 予定どおり14時間40分後の早朝5時45分にワルシャワ着。
 予想していたよりずっと大きい空港だ。
 歩いていたら、SUSHI STORE なる自販機があって、びっくり。フランクフルトへよく行く松原さんは、以前も似たものを見かけたことがあるという。ネタはほとんどサーモンだった。まあ、そうだろうな。畏れ多くて食べていない。
 トランジットは2時間程度で、プラハ行きの便に1時間余り乗る。
 100人程度の小さな飛行機で、プリン味のパンが1個出た。味はまあまあ。
 時差は8時間(日本のほうが進んでいる)なので、プラハ着は18日の朝8時50分。
 プラハの空港では拍子抜けするほど出国手続きが簡単で(ワルシャワはけっこうきびしかった)、手荷物もすぐに出てきて、ストレスなくロビーへ。ついにプラハ到着。
 手配済みのタクシーがすぐ来てくれ、30分程度でホテル着。
 いい天気だ。寒さもあまりきびしくなく、コートを着ていればじゅうぶんだ。
◎11月18日(火)――プラハ1日目
 ホテルで少し休もうと思っていたが、荷物の整理や日本から来ていたメールの返事などでかなりの時間を費やす。
 観光局が用意してくれたのはフォーシーズンズ・ホテルのロイヤルスイートではなかったものの、身に余るほど豪華なオーガスティン・ホテルの部屋で、ひとつひとつの調度から由緒正しさが感じとれる。ここを用意してくれたのは125章に登場するからで、このホテルは修道院の一部を転用する形で造られたという。今夜、ホテルの人に少し案内してもらうことになっている。
 12時過ぎ、通訳兼ガイドのヴィートさんとロビーで対面。完璧な日本語を話す陽気な人だ。奥さんが日本人だという。

【聖トマス修道院】
 まずはホテルに隣接する聖トマス修道院を案内してもらう。荘厳そのもの。もうすぐミサがはじまるらしいが、あまり人がいなくて静かだ。ヴィートさんによると、おそらくきょうは平日だからで、日曜はかなりの人が集まるという。
 チェコはヨーロッパのなかでおそらく最も無宗教の人が多く、プロテスタントもカトリックも、ほんとうに敬虔な人は少数だという。これにはいろいろな理由があるが、共産主義時代に本格的な信仰を制限されたことも大きいらしい。
 そこからランチの店へ向かう途中、ごくふつうの17、8世紀風の建物に自然に溶けこむような形でスターバックス・コーヒーがあり、歴史のあるこの街で過ごすことへの期待が高まった。

【昼食:Restaurace Malostranská Beseda】
 プラハの旅のコーディネーターをつとめてくれる女性、フイエンさんもここで合流し、4人でランチ。フイエンさんに実際に会えるとは思っていなかったので、これはうれしい驚き。あすのランチも付き合ってくれるという。
 いかにも地元の人が集まりそうな和やかな店で、4人でいろいろ頼んでシェア。料理の名前はよく覚えていないけど、左手前がタルタルステーキ、右奥がSOSの36章に出てくるトラチェンカ、中央奥のパイナップルみたいなやつはにおいが強烈な羊のチーズの料理。どれもびっくりの美味で、睡眠不足ながら元気いっぱいになった。
 コフォラはこの店にはなかった。地元の人が利用するスーパーなどにはたいてい置いてあるというから、焦らなくてもよさそうだ。

【カレル橋】
 午後のツアーは、いきなりプラハ最大の観光スポットのひとつ、カレル橋から。
 SOSの4章では、夜明けに橋の真ん中あたりでラングドンがとんでもないものを目撃し、そこから一気に物語が動きだす。
 昼はものすごい人の数だと聞いていたが、ぎゅうぎゅうというわけではなく、ゆったり歩いていける。
 両側に並ぶ30体の彫像のうち、最も有名な聖ヤン・ネポムツキー(ネポムクのヨハネ)像のまわりには、さすがにたくさんの人がいる。頭上の五つ星が特徴(亡くなったときに5人の天使が天へ導いたと言われていて、その象徴だそうだ)。ヴァーツラフ4世の怒りを買って拷問を受け、遺体がカレル橋からヴルタヴァ川へ投げ捨てられたと言われていて、その場面を描いた絵が彫られたプレートも台座の右下にある。
 そこまではだいたいSOSにも書いてあったが、その近くにフランシスコ・ザビエルの像があるとヴィートさんが教えてくれたので、行ってみた。たしかに名前が書いてある(円形の部分を拡大してみてください)。あまり知られていないそうなので、教わって得した気分。
 カレル橋を渡ったところで、フイエンさんと別れる。あすの昼食でもよろしく。

【ブラック・エンジェルズ・バー、天文時計、性交機械博物館】
 そのあと、SOSツアーでふだんからガイドをしているアマイさんと会い、ここからはヴィートさんとふたりで案内してもらうことになる。頼もしいかぎりだ。
 アマイさんの本名は Štěpán Sladký だが、Sladký は発音しづらく、この語の意味は sweet なので、アマイ(甘い)さんと呼ぼうとヴィートさんが決めた。ううむ、ヴィートさん、秀逸な親父ギャグ、いやネオダジャレのセンスもあるぞ。
 旧市街を歩き、SOSの14章に登場するブラック・エンジェルズ・バーに少し寄る。ごくふつうのバーだが、SOSには隠し部屋や秘密の日記のことが書かれている。ここも含めて、この近くのほとんどの建物には地下室があるが、アマイさんによると、このあたりは洪水が多く、何世紀も前にはいまの地下の部分が地上にあったという。
 ダン・ブラウンはおそらく20年近く前から何度もプラハへ取材に来たのではないかとアマイさんは言う。2005年から2010年ごろのこの街についての記述がいくつか見られるからだ。
 つづいて天文時計の前へ行く。ちょうど3時なので鐘が鳴りはじめたところだ。
 ご存じのとおり、SOSの表紙に描かれている時計だ。この天文時計の陰でラングドンとキャサリンははじめてキスを交わす。この近くをゴーレムが歩いていく場面もある。
 1410年に設置され、現在まで動いている天文時計としては、スウェーデンのルンド大聖堂のものと並んで世界最古だという。時計のからくりについては、3日目に天文時計専門のガイドの人が説明してくれることになっている。
 そのあと、カフカ像やユダヤ人墓地のあるほうへ歩いていくが、途中で性交機械博物館(14章)の前を通りかかり、アマイさんがにやにやしながら「見てみたいか」と言ったので、思わず「イ、イエス」と答えてしまう。入口から見るとこんな感じで、ここまではさほどいかがわしくはないが、奥はどんなものなのか。日本の温泉地などにある秘宝館みたいなやつ? 興味津々ではあるが、時間が押しているし、このあと墓地へ行くことを考えると不謹慎かと思ったので、今回はここまでにする。つぎにプラハに来たときにはきっと……

【アマイ探偵の名推理】
 カフカ像のほうへ向かう前に、アマイさんが急に思いついたように近くの小道へはいっていく。このあたりにSOSの準主役と言ってよいゴーレムの家があるので案内するとのこと。
 建物や通りの名前を本文の記述と照らし合わせてひとつひとつ説明してくれ、ここにはこう書いてあった、つぎはこうあったから隣には何がある、そしてすべてを考え合わせると、ゴーレムの家はまちがいなくこの一角のここからここまでのどこかだ、と理詰めで説明してくれる。
 ただし、正確に書きすぎるとどの家かを完全に特定されてしまうので、ダン・ブラウンは最後は巧みにぼかして書いているという。「聖地巡礼」で迷惑をかけないようにするための配慮だ。そんなこと、訳しているときには考えもしなかったぞ、こっちは。
 あまりの名推理に感動して、これからはアマイ探偵と呼ぶことにし、日本語がわかるヴィートさんといっしょに Sweet Detective と呼びかける。アマイさんは笑いながらもとまどったような顔をしているが、褒められてまんざらでもないらしい。
 一方、アマイさんも、こんなにSOSにくわしいお客さんははじめてだ、ガイドのしがいがある、とわれわれを褒めてくれる。
 幸福な出会いがプラハで実現したようだ。

【ヤン・フス像、カフカ像】
 つづいて、宗教改革の先駆者ヤン・フス像(59章)の前を通る。ヤン・フスは14世紀から15世紀にかけての人物だが、この銅像ができたのは1915年。建造までに500年を要したのには、カトリックを強く信奉するハプスブルク家が統治していた時期が長くつづいたのが大きいという。
 やがて、キリスト教の区域からユダヤ教の区域に足を踏み入れ、カフカ像の前へ。
 SOSの59章の記述を借りると、「外套を着た首のない巨人」が「ずっと小さい男を肩車している像」であり、「弱き魂の重荷を背負う、顔のない男」である。
 上に乗った小さい男はカフカだが、迫害されつづけたユダヤ人を伝説のゴーレムが支えているとも言える。ゴーレムはもともと、後段に登場するラビ・レーヴが、迫害されたユダヤ人たちを守る存在として泥から作った人形である。
 そして、この関係はSOSの作品全体の隠喩にもなっている、とアマイさんは言うが、SOS未読のかたのためにこれ以上は書かないことにする。ともあれ、これは鋭い指摘だ。わたし自身はまったく気づいていなかった。おみごと、アマイさん。おみごと、ダン・ブラウン。
 ところで、このカフカ像の下のほうを見てください。台座の下に何か黒っぽいものがいるように見えませんか? これはなんでしょうか。カフカと言えば『変身』、そして『変身』と言えば……そう、毒虫! 毒虫は一般にはゴキブリのようなものと考えられているので、この絵はそれを模したものだそうです。ゴキブリはSOSにもちょっと登場しますね。

【旧新シナゴーグ、旧ユダヤ人墓地】
 ここで旧新シナゴーグ(65章など)にはいるために、出国前にQRコードをもらった Prague Visitor Pass を起動することが必要だとわかる。松原さんもわたしもすっかり忘れていた。
 ところが、なかなか起動しない。リーダーに読ませると確認のEメールが届いて、そこからログインする流れなのだが、そのEメールが届かないのだ。
 いつまで経っても埒が明かないので、困っていると、アマイさんが受付でうまく交渉して、入れてもらえることになった。
 中では、プラハの守護者となった泥人形ゴーレムの生みの親である、ラビ・レーヴについてのくわしい話を聞く。ラビ・レーヴの使った椅子も見せてもらう。この区域で別格というほど尊敬されている人物ならではの立派な椅子だった。
2階部分にはゴーレムの破片が残されていると言い伝えられていたけれど、調査してみると実際にはそうしたものは見つからなかったらしい。
 つづいて旧ユダヤ人墓地(71章)へ行き、おびただしい数の小さな墓石が不規則に傾いてひしめくさまを目のあたりにする。ここに埋葬された遺体は10万人以上。墓地に空きがなくなっても、掘り起こすことが禁じられたため、何世紀にもわたって幾層もの土を入れて墓石を重ねたという作中の記述は事実だが、場所によっては12層に及ぶとあるのは多すぎで、最近は5層程度と見なす説もあるらしい(だとしても、信じがたい数だ)。
 説明を受けながら墓地を一周し、ラビ・レーヴ本人の墓の前へ行く。ユダヤ教徒の墓地では花ではなく墓石の上に小石や紙を置いていく人が多いが、ラビ・レーヴの墓の上には際立って多くが載っていた。しばし、ここで祈りを捧げ、墓地をあとにする。

【マーネス像、〈共産主義の犠牲者たち〉など】
 少し歩くと、ヨゼフ・マーネス像の前を通りかかる。チェコの国民的画家で、天文時計の装飾画を描いた人物であり、すぐ横のマーネス橋(SOSに何度も登場)の名前の由来にもなっている。
 フォーシーズンズ・ホテルの前を通る。ここはあすホテルの人にくわしく案内してもらうことになっているが、SOSの中身を熟知しているアマイ探偵が推理を交えていろいろ解説してくれるのがありがたい。4章でラングドンがどうやってジャンプしたか、とか。
 17時を過ぎて周囲がすっかり暗くなるなか、あらためてカレル橋を渡る。夜景は昼よりもさらに美しい。世界一美しい街と言われるのがよくわかる。
 橋を渡ったあと、カンパ博物館の屋外展示(顔にバーコードのついた巨大な赤ん坊のブロンズ像、31章)の前を通る。作中に出てくるものをつぎつぎ確認できて楽しい。
 そこから少し歩いて、〈共産主義の犠牲者たち〉(127章)の前へ。作中では「ヨーロッパで最も不気味で印象的な芸術作品」と説明される。夜のライトアップのなかだと、たしかに恐ろしい。同じ人物が、日を重ねて後ろへ行くほど体を磨り減らして、最後は消えてしまう様子を表している。前に花やキャンドルがたくさん置かれているのは、ちょうど前日の17日がビロード革命を記念する重要な祝日(自由・民主主義闘争記念日)だったからだという。この国の複雑な歴史がこの1枚に凝縮されている気がしてならない。
 ここでアマイさんと別れる。あすもよろしくお願いします。
 トラムと地下鉄に乗って、夕食のレストランへ移動。だが、Visitor Pass がまだ使えないので、ヴィートさんに運賃を立て替えてもらう。申しわけない。
 プラハ市内では、交通ルールとして、トラム、歩行者、車の順に優先。また、歩行者が青信号で歩きはじめたら、途中で赤信号になっても渡りきるまで車は待ってくれる。最初はとまどったが、だんだん慣れてきた。

【夕食:Obecní dům(市民会館)】
 ヴィートさんと3人で夕食。日本で市民会館の食堂というと、安い定食のたぐいを想像するが、ここはむしろ高級レストランの風格があって驚く。
 ヴィートさんはチキン、松原さんはpike(カワカマス)、わたしはラム。
 ここもすばらしい美味だ。アレンジしてくれたフイエンさんの選球眼のすばらしさに感服。
 ここにもコフォラはなかった(執念深い)。
 せっかくチェコに来たのだから、ビールを堪能したいところだが、体調がいまひとつで、あすもハードスケジュールなので、1杯にとどめる。
 ヴィートさんといろいろ話し、共産主義時代の生活の味気なさなどをくわしく教わる。
 チェコ人はおしゃべりなのかと尋ねたところ、そんなことはない、むしろ無口だとのこと。いや、でも、ヴィートさんも観光局長に輪をかけたくらいおしゃべりだ。
 チェコ語の挨拶もいくつか教わる。
「こんにちは」は Dobrý den(ドブリー・デン)。「どんぶり・でーん」と覚えるといい、とヴィートさん。リの部分を巻き舌で「ルィィ」のように発音するとかっこいいらしい。なかなか豪快だ。
「ありがとう」はDěkuji(ヂェクイ)、「さようなら」はNa shledanou(ナ・スフレダノウ)。「茄子くれたの」と「なあ、スフレだのう」と、どっちが覚えやすいか。
 チェコ語とスロヴァキア語のちがいについても話す。9割ぐらい同じような感じで、単語のちがいが少々。お互いの国民に対する悪感情はなく、1993年に平和的に分離できたのはほんとうによかったという。
 Visitor Pass の確認メールが迷惑フォルダーに来ているのを松原さんが発見。で、あらためて起動を試みるが、なかなか動かない。でも、ゆっくり待っていると、忘れたころに反応し、食事の終わりごろには使えるようになった。わたしのほうは、たぶん別の迷惑フォルダーにはいっているので、ホテルに帰ってPCで確認する必要がある。
 ああ、そう、それで思い出しましたが、SOSの92章のYouTubeリンク、もう見てみましたか? あれも最初は何も起こらなくて、何かのまちがいかと思うけど、辛抱強く待っていると、ちょっとこわいことが起こります。まだの人はぜひ試してください。

【オーガスティン・ホテル】
 ホテルにもどり、昼にも外から見た聖トマス修道院との隣接部分を、ホテルのスタッフのかたが内側から案内してくれる。
 先ほど見た大聖堂の裏側にミサの案内表示がある。時間帯によって説教の言語が変わるらしい。チェコ語、英語とほかのいくつかのヨーロッパ言語だけでなく、フィリピン語という表示もあった。
 今回、冬期は閉鎖ということで、このすぐ横の鍾乳石の壁を見学できなかったが、ホテル側にも似た場所があり、そこへ案内してくれた。この画像のような壁面だという。
 125章にある「かつて修道士の醸造所」で「最先端のリフレクトリー・バーに変身をとげた」場所は、どうやらここ。
 ホテル内のミニツアーが終了し、ここで解散。ヴィートさん、松原さん、お疲れさまでした。あすもよろしく。
 部屋にもどり、Visitor Pass の確認メールをさがし出して、アプリを動かそうとしたが、なぜか最後の最後のプロセスで固まってしまい、起動できない。
 きょう1日の簡単なレポートを各SNSにアップしたり、WhatsAppのグループに挨拶したりしているうちに力尽き、アプリのことはあきらめて眠りに就く。




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