又吉直樹さんと加藤シゲアキさんがMCを務める文学バラエティ番組「タイプライターズ~物書きの世界~」に、『ひとりぼっちじゃない』の著者・伊藤ちひろさんが出演(1月5日・フジテレビ系列)。
カドブンでは、これを記念して本作の特別試し読みを行います。加藤シゲアキさんが気になる作品として挙げてくれた作品世界をお楽しみください。


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「世界の中心で、愛をさけぶ」「春の雪」など、数々のクリエイターを唸らせた名脚本家が10年の歳月をかけた初の恋愛小説!

 言葉の一つ一つがまるで細胞みたいに、そこで使われる意味をもれなく携えている。――作家・井上荒野
 ついに刊行! どれほど待ち望んだか。あれだけの脚本を書ける人の小説が面白くないわけがない。――演出家・宮本亜門


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 5月13日(水)

 昼休みも終わろうという頃、小山田おやまださんが突然、「スレンダーG.見ませんでした?」と騒ぎはじめた。女のコたちは皆、知らないと答え、院長や原口はらぐちも「スレンダージィって?」という反応を見せたので、僕も「ん?」と言うような顔をした。
 さらに僕は、「女性誌なんですけど、待合室から消えちゃったんですよ」と焦る彼女に、「どんな表紙の雑誌なの?」とも、言ってしまった。
「えー、白いニットを着たモデルが笑ってるような表紙だったと思うんですけど、背景がたしかグレーで、とにかく、スレンダーG.4月号って書いてあるやつなんですよ」と、彼女は一生懸命説明してくれた。
 少し苛立っているような口調で、「その雑誌がなんだよ」と訊いたのは院長だった。小山田さんは、午後に予約の入っている患者さんが前回待合室で読んでいた雑誌で、もうちょっと読みたがっているようだったので、次回の予約の時まで残しておきますよと約束していたのだと言う。「昨日まであったのにぃ」と泣きべそをかき、院長は「それは困ったね」と深刻な顔になった。きたさんは「私は小山田さんに頼まれていたので、あの雑誌はちゃんと捨てないでとっておいたはずなんだけど」と言った。
「こんなことならあの時、持って帰っていいですよって言ってあげればよかった」と小山田さんがしつこくぐずるから、いよいよみんなが本気になって、「じゃあみんなでもう一度よく捜してみよう」とか、「本屋に行ってももう手に入らないの?」だとか、「誰か患者さんが持って帰っちゃったのかな?」「えっ、何も言わないで勝手にそんなことしないでしょ」なんてことも言い出して、もうそれは、大ごととなった。
「あっ、ごめん、もしかして僕が持っているやつかな。ちょっと気になる記事があったから家でゆっくり読もうと思って、さっき拝借したんだけど、それかな?」という言葉を用意したが、時間が経つほど切り出すのが難しくなった。
〝あなたの周りにもきっといる! 空気が読めない困った人々〟という特集ページが昨日からどうしても気になっていた。それで今朝カバンに入れた。僕は、貰っていいか確認を取ってもよかったが、面倒だった。備品を担当している北さんはもちろん、誰もまだいなかったし、それにどうせ確認を取ったところで、「別にいいんじゃないですか?」と言われるに決まっていると思っていた。2ヶ月も前の号だし、くたびれ方からいっても、どうせそろそろ処分されるのだろうから持って帰ったって誰も気に留めないだろうと思っていた。
 貰ってもいいかとたずねることで「ススメ先生はなんでこの雑誌が欲しいのだろう?」と詮索せんさくされるのを避けたいという思いがあったことは、認めよう。まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。
 持って帰って読もうなどと考えず、みんなが来る前に読めばいいって話。記録しておきたいことがあれば得意のメモを取ればよかったのだ。コピーを取ったってよかったのだ。
 首がおかしい。肩もとても張っている。こんな雑誌の、たった6ページのために、罪悪感と緊張感に襲われて、僕は、こんなに体を痛めた。いままで一度だって待合室の雑誌に興味を持ったことなどなかったのに、なんでこうなるのか、本当にどこまでも運に見放されている。
 僕が読みたかった特集にはこんな投稿があったので、貼っておく。
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 なんともイヤミな物言いだ。A子先輩も悪いけど、なんだかみんなで協議だなんて、醜い。しかもこんなふうに雑誌にまで投稿して、この投稿者は、A子先輩がみんなのお荷物になっていることで自分が少し強くなったような気分にでもなっているのだろうか。人の欠点を集団でいじくったって自分の欠点が薄れるわけでも、安心が手に入るわけでもない。自分の欠点を無視して変わる努力をしないA子先輩も醜い。そして僕もだ、醜い。小山田さんも今日のこと、投稿しようと考えていたりするのだろうか。
『私は歯科クリニックで歯科助手をしているのですが、先日、待合室の雑誌が1冊、忽然こつぜんと消えたのです。それに気づいた私は焦りました。なぜなら、その日、予約の入っていた患者さんにその雑誌を置いておくように頼まれていたからです。他のスタッフに訊いてみると、みんな一様に「知らない」と答えたのですが、S先生の反応だけが明らかにおかしいのです。たしかその雑誌には〝あなたの周りにもきっといる! 空気が読めない困った人々〟という特集が組まれていました。S先生はきっとこの特集が読みたかったのでしょうね。いつも朝一番に出勤するS先生がコソコソと自分のカバンにその雑誌をしまう姿が目に浮かびました。その日、S先生はやたらと自分のロッカーを意識していたので間違いないと思います。私が患者さんに謝る姿をS先生は一体どんな気持ちで見ていたのでしょうか。』
 だいたいこんなところだろうか。
 せっかく新しいノートに替わったというのに、こんな一日から始まってしまった。
 これからの1頁1頁、素敵なことで溢れるよう願う。

 5月14日(木)

 週末から読み始めた『パスカルの愚行』という小説に〝ラタトゥイユ〟という食べものが出てきた。主人公であるアラン・パスカルは、恋人のテレーズが作ってくれた〝ラタトゥイユ〟という料理を皿ごと壁に投げてしまう。〝壁にへばりついてのんびりとくだっていく憎きズッキーニ〟とあるが、いったいどんな食べ物なのか、調べて作ってみようと思う。僕はズッキーニがパスタに入っていると嬉しくなるけどな……
 大沢おおさわ敏明としあきさん、今日で治療がひとまず終了となる。患者記録帳の大沢さん分を整理してから寝ることにする。

書籍

『ひとりぼっちじゃない』

伊藤 ちひろ

定価 1944円(本体1800円+税)

発売日:2018年08月31日

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