大好評の「小説 野性時代」新年号から、新人ノンフィクション作家4名の作品を随時ご紹介。本日は、2016年「孤児院ツーリズム」の実態を描いた『カンボジア孤児院ビジネス』で「潮アジア・太平洋ノンフィクション賞」を受賞した、岩下明日香さんの「参道」です。
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参道――岩下 明日香
昨年、アジアのノーベル賞、ラモン・マグサイサイ賞がある日本人研究者に贈られた。受賞理由に興味を持った私は彼の研究室を訪ねる。
柔らかい春の風に早咲きの桜の花びらが揺れる二〇一八年の三月。四谷の聖イグナチオ教会の脇道をのぼった先にある上智大学の研究室を訪ねた。
石澤良昭上智大学第十三代学長(二〇〇五~二〇一一年)に話を聞くためだ。石澤はその時八〇歳。黒い背広にネクタイをしめ、白髪に眼鏡をかけ、大学教授らしいいでたちをしている。
学生時代、私はカンボジアである取材をしているうちに、自然と「石澤」を知った。妙な言い方だが、カンボジアを代表する遺跡を回れば、上智大学の英語表記「Sophia University」の看板を目にすることがあったり、取材協力者が石澤の教え子だったりと、意識しないうちに接点が生まれていたのだ。
二〇一七年八月、アジアのノーベル賞といわれ、アジアの社会に貢献した人や団体に贈られる「ラモン・マグサイサイ賞」が石澤に贈られた。・カンボジア人が自分たちの文化遺産に誇りを取り戻した・というのが受賞の理由だ。
石澤の研究分野は、東南アジアの遺跡や歴史だ。しかし、それ以上に強い思い入れがあるのが、人を育てることであった。しかも、内戦により多くの人材を失った現地のカンボジア人をゼロから育てるのだ。
「カンボジア人のための、カンボジア人による、カンボジアの遺跡保存修復」
現地民を慮るようなこの信念を、愚直なまでに貫き通してきた。
科学的な実績で評価されれば、はっきりとした形としてみえる成果となるが、石澤が受けたマグサイサイ賞では、社会貢献への評価となり、形としてみえにくい。「誇り」という無形のものだった。
それに、どうして石澤が選ばれたのかということだ。
カンボジアのような発展途上国において、世界遺産となった遺跡は、外国人の研究者にとって魅力的な研究素材となる。石澤も遺跡に魅了されたひとりだ。にもかかわらず、世界中から研究者が集まってきているなかで、なぜ石澤だけが特別なのか。
石澤の著作やインタビューなど手に入れられる文献にあたったが、私の満足できる答えは見つからなかった。今回の訪問で、直接答えを求めることにより、その疑問も解消するだろうと思っていた。
「どうしてカンボジア人による修復が大切なのでしょうか?」
「最初から、それほどしっかりした考えをもってやってきたわけではないです」
こう控えめに答え、度のきつそうな眼鏡の奥には、刻まれた皺に囲まれて優しい瞳があった。
一見すると物腰は柔らかそうだが、カンボジアの遺跡保存のためなら看板にでも広告塔にでもなろうと、自身の研究の時間を削って駆けまわり、企業や財団に寄付を依頼し、遺跡の重要性を訴え続けてきた人だ。
「カンボジアのためにと、言い出した時には、皆さんから『そんなことできるか』と非難されたこともありました」
カンボジア人に教えても彼らにはできないと冷笑されることもあり、風当たりは強かった。石澤が取り組みをはじめた八〇年代当時、悲惨な内戦により深い傷を負ったカンボジアでは、復興の兆しが遠く、国内は疲弊していた。それに、かつて植民地支配をしていたフランスが遺跡の研究と修復を主導していたため、現地の人材に専門性が培われにくい構造があった。
こうした逆風のなか、人材養成の舞台となったのがアンコール・ワットだった。カンボジアの国旗に描かれ、現地民のアイデンティティに組み込まれた代表的な遺跡。その修復をカンボジア人の手で成し遂げることで、内戦により疲弊したカンボジアの文化的な復興を目指そうとしたのだった。
一九三七年九月一九日、北海道に生まれた石澤は、幼少のころに満州鉄道で仕事を得た父親に連れられて満州の撫順に渡り、敗戦後しばらくした一九四九年に北海道へ戻る。旧満州で日本人の学校が閉鎖に追い込まれ、通学できなかった時期があり、一年遅れて芽室小学校に転入した。
高校時代、フランス人作家・モーパッサンの小説『女の一生』の原文を読みたいと思うようになったことから、一九五七年に上智大学の外国語学部フランス語学科に進学した。この選択が、石澤とカンボジアを結びつけることになる。
はじめてカンボジアを訪れたのは、一九六〇年。大学三年の春休みだった。
イエズス会のフランス人神父ポール・リーチ教授が、南ベトナムのフエにある大学で講義をするから来ないかと、学生を誘った。
「先生、お金がありません」
と、訴える石澤に、
「渡航費だけ捻出すればいい」
というリーチ神父。フエの大学の講義で得た報酬を学生の滞在費にあてた。
ちなみに、井上ひさしの小説『モッキンポット師の後始末』(講談社文庫)に登場するモッキンポット師のモデルになったのが、このリーチ神父である。井上は、石澤の一級先輩だ。小説に登場するモッキンポット師は、天狗鼻にこてこての関西弁を喋る神父。井上本人であろう、ずる賢い苦学生らが巻き起こすトラブルに振り回される神父が、学生に代わって事態の後始末をする物語だ。人情味あふれる、面倒見のいい人物として描かれている。
そんな小説のモデルになったリーチ神父は、「人生にはしなければならないことがある」という人生訓を石澤に授けていた。当時、その意味は分からなかった。だが、後にカンボジアに人生を捧げることになった石澤に、大きな影響を与える人生訓となった。
渡航には、マルセイユまで一カ月ほどかけて行くフランス国郵船(MM汽船)に乗った。横浜を出た船は、途中で香港に停泊し、サイゴン(現ホーチミン)へ行く。香港で乗り合わせた中国人の出稼ぎ労働者と同様、デッキに近い出入り口付近の一番安い階段ベッドで眠り、出てきた食事は、お盆のくぼみにおかずやスープを入れてもらうような粗末なものだった。
ただ、同乗していたフランス人に話しかけて一時の友となり、そのフランス人に船長との晩餐会に招待してもらったり、プールで泳ぎたいと相談して入れてもらったりして、船旅を楽しんだ。
フエに着くと、カトリック系の大学で現地の学生と交流したり、観光をしたりして一カ月半ほどを過ごした。ベトナム戦争で激戦地になる前で、まだフエは平穏な時だった。
フランス語で書かれたアンコール・ワットの観光案内のパンフレットを目にしていたことがあった石澤は、「せっかくだから、ちょっと足を延ばしてみるか」という好奇心で、陸路を経由してアンコール・ワットを目指した。
この何気なく訪れたアンコール・ワットに、石澤の心は奪われる。西向きの石造伽藍アンコール・ワットに夕日が差し込むと、石の柱や壁に細かく彫られた美しいレリーフが照らされる。その姿に魂が吸い込まれそうな気持ちを抱いた。
長男の石澤は、卒業後に北海道へもどり、父親が始めた家業の温泉を継ぐはずだった。父親は、戻って跡を継いでくれるならば、と思い海外旅行を許していた。ところが、帰国してからもアンコール・ワットを忘れることができなかった。
翌年の一九六一年二月、卒業式をすっぽかし、再びフエへ講義に行くリーチ神父に同行してカンボジアを訪れる。改めてみるアンコール・ワットへの思いが込み上げ、遺跡の謎を知りたくなり、リーチ神父に残りたいと懇願したのだった。
当時、遺跡の保存修復を、フランス極東学院という団体が行っていた。そこの所長であるフランス人のベルナール=フィリップ・グロリエに、リーチ神父は石澤のために掛け合ってくれた。そして、石澤は同学院の臨時研究員として、ひとりカンボジアに残ることができた。ちなみに、住まいもリーチ神父が確保してくれた。シェムリアップにあるベトナム人のリン神父の家に下宿し、毎朝六時にはベトナム語の甲高い声で流れるミサで目を覚まし、遺跡修復現場まで自転車やシクロで通った。
この時、フランス極東学院は、考古学と建築学の若手カンボジア人を養成する「保存修復研修会」を開き、約四〇人が参加していた。そこに石澤も加わった。
研修ではトマノンという一二世紀のヒンドゥー教の遺跡を修復する作業をした。崩れた石を掘り起こして並べ、土台にコンクリートを打ち込み、そしてまた積みなおして元通りにする。外見から内側のコンクリートは見えないが、コンクリートの土台を打つことで、また何百年かは保つのだ。
それから、熱帯雨林で生い茂る植物をどの程度制限するか、地衣類のカビが石につくのをどう防ぐかなどの作業をした。
しかし、作業をしながら、こんなことを感じていた。
「カンボジア人が自分たちで修復できるようにしようと、フランス人の先生方が講師になって、その人達を訓練していたわけですね。だけど、フランス人は、植民地の『ご主人』ですから、上から目線でカンボジア人を見るのです。ノウハウというか、彼らを手取り足取り教えようというつもりがなくて、作業員扱いをするんですね」
石澤はかつて、フランス人にカンボジア人をどう思っているかと、訊いたことがあった。
「カンボジア人は駄目だから、俺たちが修復してここまでアンコール遺跡を復元したのだ」
こう豪語し、偉大なフランスがなせる業であると自慢していた。
だが、カンボジア人と一緒に作業をしていた石澤には、彼らに備わる、ある一面が目に映っていた。
「カンボジア人は手先が器用で、わりとこまめに体を動かす。石を積むのにも感性があってですね。単なる石ですけれど、石を積む時、切る時を見ていますと、ああ、この人たちは感覚的にそういう血を受け継いでいるのか、いい感性を持っているな、と感じていたんですね。それが一つや二つの例じゃなくて、やはり何十人といるカンボジア人を見ていてわかりました」
カンボジアは、一九五三年にフランスから独立していたが、九〇年にわたる植民地時代の主従関係が染みついていた。それでも、彼ら固有の歴史的建造物だけあり、感性は現代のカンボジア人にも受け継がれている姿をみたのだ。
石澤はこの二度目の滞在で、プオンというカンボジア人遺跡保存官と親しくなっていった。外国人の石澤を受け入れてくれ、よく飲食を共にするようになっていた。
六〇年代のカンボジアは、貧しく金銭的に恵まれずとも、飢餓のない農村社会だった。助け合いと分かち合おうとする仏教の精神が人々の心のよりどころとして根付いていた。「生きとし生けるものは来世があるという輪廻転生の考えがあるんですね。貧しくったって来世があるという希望が、彼らの中にあります。お寺に尽くし、功徳と積むことも、彼らにとって希望につながるんです」
石を積み重ねた石造伽藍は、外国人からすると研究対象になる古代の遺跡だが、カンボジア人にとっては神聖な寺院でもある。彼らは、家族が病気になるとアンコール・ワットの十字回廊にある仏像に病人の爪や髪の毛、そして、お供え物の果物などを持っていく。そこへ僧侶を呼び、早く病気が治るようにとお経を唱えてもらう。そういう姿を石澤は何度も目にした。日本人にも共通するところがあると、彼らの姿から親近感を抱くようになった。
しかし、カンボジアの歴史を解明するためには、ただ遺跡に触れているだけではなく、フランスなどによる学術的な研究の蓄積から学ばなければならない。
遺跡の壁面にある浮彫りなどから、その意味を研究するマドレーヌ・ジトーというフランス人女性の専門家(カンボジア図像学)にもこの時に出会っている。一生をかけてこの研究をするという熱意をもつジトーの姿をみて、自身もアンコール遺跡の研究を続けていきたいと気持ちを固めるようになっていた。
(このつづきは「小説 野性時代」2019年1月号でお楽しみください)
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岩下 明日香(いわした・あすか)
1989年山梨県生まれ。2016年、早稲田大学大学院政治学研究科政治学専攻ジャーナリズムコース修士課程修了。同年、「孤児院ツーリズム」の実態を描いた『カンボジア孤児院ビジネス』で「潮アジア・太平洋ノンフィクション賞」を受賞。
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