『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』は、その名の通り、三英傑の有力家臣の系図をただただ並べて解説するという本である。ありそうでなかった。そして、ここまでマニアックにまとめた本ならばなおさらだろう。さらに言えば、家臣の出身地に異様に関心を寄せているところが大きな特徴である。
尾張出身、近江出身とかのレベルではない。郡・村レベルの話である。
織田家臣は尾張出身者を「勝幡譜代」「那古野譜代」「古渡・末盛譜代」に分け、徳川家臣は三河出身者を「安城譜代」「山中譜代」「岡崎譜代」に分け、しまいには地図を出してきて「菩提寺がこっちだから、実はこの村の出身じゃなくて、こっちの村の住人だったんだろう」などと推論している。
筆者がここまで家臣の出身地にこだわるのは、大学生の時に愛知図書館で「諸士出生記」という、三河のどの村に徳川家臣の誰が住んでいたかを記した書物に出会ったからだ。そして、その後に「三ご譜代」という概念を知ることになる。
「三ご譜代」とは、旗本・大久保彦左衛門忠教がその著書『三河物語』で語った譜代家臣の分類である。家康の祖父・世良田清康(一般には松平清康)は現在の安城市出身で、岡崎市南部の山中城を攻め落とし、そこを根城にして岡崎城の敵を降した。その時々に仕えた家臣の家柄を「安城譜代」「山中譜代」「岡崎譜代」と呼び、その総称を「三ご譜代」としたのだ。
筆者は織田家臣団にも比較的詳しかったので、「三ご譜代」の分類法を織田家臣にも適用し、「勝幡譜代」「那古野譜代」「古渡・末盛譜代」という概念をつくって、家臣団を新たな視点から分析してみた。
そうすると、「実力次第」といわれた織田家臣団に、妙な特徴があることが分かった。
『人物叢書 織田信長』では「信長が分国支配や京都支配で重用した顔ぶれには尾張出身者が圧倒的に多く、美濃出身者は少しだけいる」と指摘されているが、尾張出身といっても、愛知郡・海東郡・春日井郡以外の出身者はほとんど重用されていない。尾張は八郡から構成されているのだが、この三郡に才能に秀でた者が偏っていたとは到底思えない。信長は、言われているほど、実力主義ではなかったのだ。
豊臣家臣団は、織田家臣団と異なり出身地で分類することは難しい(実は美濃出身者の出身地分布図をつくってみたのだが、さっぱり関連が見つけられず、掲載を見送った)。キーワードは年齢だ。加藤清正・福嶋正則らは1560年代生まれで、織田信忠・信雄、岡崎信康より若く、井伊直政と同年代である。
加藤・福嶋らは、秀吉がはじめて長浜城主になった頃に仕え始めた――いわば新卒社員である。秀吉のそれまでの部下は、信長から借りてきた与力がメインなので、秀吉は新卒社員を育てて早期に抜擢し、自分好みの軍団を作りたかったのだろう。
豊臣家臣団は形成自体が遅く、若手ばかりだったので、子女を通じて閨閥をつくるところまで行かなかった。そこを家康に利用されて、徳川閨閥に取り込まれていったのである。
ただし、文治派の吏僚は、石田三成・大谷吉継をも包括する石川(石河)家のような一大閨閥を形成していた。関ヶ原の合戦で文治派が失脚すると、片桐且元・小出秀政の比重が高まるが、この両人とは徳川家の謀臣・本多正信が姻戚関係を結んでいる。
徳川家への政権交代に姻戚関係が大きく関わっていたということだ。
徳川家臣団は15世紀以来の歴史を持ち、家老層が出来上がっていたが、家康は直属の家臣を再編成して比較的家柄が低い本多忠勝・榊原康政などを抜擢した。本能寺の変の頃には、家老クラスより本多・榊原ら抜擢組の方が世間的には評価が上になってきて、他国の国衆や豊臣系大名と婚姻を結ぶほどになっていく。
こうして、姻戚関係はその時代の勢力を映す鏡になっているのだ。そんな感覚で、系図を眺めていくと、また新たな発見があるかも知れない。
菊地浩之
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- 織田家臣団の系図
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