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レビュー

〝常識〟に修正を迫る、優れた評伝 『狼の義 新 犬養木堂伝』

 犬養毅(号・木堂ぼくどう、一八五五〜一九三二年)に関する優れた評伝だ。
 本書は、夫婦による共作であるが、二〇一七年に逝去されたはやしあらた氏(NHKプロデューサー)が一〇年をかけて資料を集め、構想を固め、着手した作品を、妻の堀川ほりかわ惠子けいこ氏が完成させた。マルクスの遺稿をエンゲルスが整理して『資本論』第二巻、第三巻を完成させたことを彷彿させる。マルクスとエンゲルスは、基本的世界観を共有していた。林新氏と堀川惠子氏も、基本的価値観と人生観を共有していたことが行間から伝わってくる。天国に旅立った林新氏は、堀川惠子氏の心の中だけでなく、この作品によって永遠に生きるのだ。その意味で、この作品の隠れた大きなテーマは愛だ。
 木堂は、この国をほんとうに愛していた。そして、国家は一部の官僚や軍人によってではなく、民衆を基盤として運営されなくてはならないと考えていた。その想いが、大日本帝国憲法をめぐる木堂と福沢諭吉のやりとりによく表れている。

 犬養は給仕に珈琲(コーヒー)を注文すると、かしこまって本題を切り出した。
「先生は、できあがった憲法をどう御覧になりましたか」
「どう、とは」
「先生はずっと、天皇が選挙で多数を得た党の代議士の中から総理大臣を選び、総理の推薦によって閣僚を任命するというイギリス型の政党内閣を構想してらっしゃいました。今日、改めて憲法条文を読みましたが、やはり天皇大権があちこちに出ています」
 福沢は言いたいことを呑み込むようにして短く答えた。
「うん、まあな。だが、あとは運用だろう」
「運用?」
「そうだ。確かに憲法は国の大典だが、その条文だけで具体的な現実にはとても対応できん。むしろ書かれていないことの方が多い。そこは、これから始まる政治の実践の中で補っていかねばならん。憲法を使う人間の理解と運用次第で、どうにでも変わるさ」
「この憲法でも、政党政治は可能だと思われますか」
「もちろんだ。結局は、これからできる議会の中で多数をどう占めるかがカギになる。憲法に書かれていないことは、政府の側は官制を敷いてくる。政党の側もどしどし提案をしていかねばならん。政党の役割は大きいぞ」
「しかし、憲法の条文を読むと、それは天皇や政府がひっくり返そうと思えば直ちにできてしまいます」
「ひっくり返されないようにすりゃあいいのさ。それが運用ということだ。それこそ、君らのやるべき政治だろう」
 返事に窮した犬養は目を伏せて熱い珈琲を啜(すす)るように含んだ

九四〜九五頁

 行政権に運用の余地を広範に認めたことが、一九二〇年代末以降の軍部の擡頭たいとうと、一九三二年の五・一五事件につながるのだ。この事件で犬養毅は殺害され、日本の政党政治は崩壊過程に入る。
 一九三六年の二・二六事件が陸軍青年将校によるクーデター事件であったのに対し、五・一五事件は、大川おおかわ周明しゅうめいらの国家主義思想に共鳴した海軍中尉の三上みかみたくらによってなされた。また、その後、「暗殺はよくないが、動機は正しい」との民意に押されて、ほとんどの新聞が大川周明、三上卓らの減刑を訴えるキャンペーンを展開する。
 木堂は、信頼していた民衆に裏切られたのである。
 民主主義を強化するためには、非暴力の重要性についての教育を、子どもの頃から徹底的に行うことが重要なのだと思う。
 犬養が暗殺されたときの状況について、著者は丹念な調査で、これまでの通説に重要な修正を加えた。この箇所(四四三〜四四七頁)には、推理小説の謎解きのような面白さがある。読書の楽しみを奪うことになる種明かしはこの書評ではしない。是非、本書を通読してほしい。


書誌情報はこちら≫林 新 / 堀川 惠子『狼の義 新 犬養木堂伝』


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