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湊かなえ『人間標本』より


【作品1 レテノールモルフォ】

 モルフォチョウ科モルフォチョウ属
 前翅長 65〜85mm
 南米中北部・おもにアマゾン川流域

 モルフォチョウの仲間は中南米に六〇種類ほどいるが、本種のサファイアのような青い金属の輝きは一〇〇メートル先からでも見えるほど強く、モルフォチョウのグループの中で特に美しい。
 はねは角度により色が変わり、翅についている鱗粉りんぷんには青色の色素はないが、この鱗粉には青い光の波長に合わせる仕組みがあり、青い色を出しているように見える。この「構造発色」の特徴を持つのは雄のみである。
 翅の裏側は地味な色をしており、目玉模様にも、落ち葉や樹皮の模様にも見える。
 ジャングルにすむ蝶で、原生林の中を流れる小さな川沿いなどで見られる。

〈作品の展示形態〉
 縦二〇〇cm×横二〇〇cm×奥行八〇cmの透明アクリル板(厚さ二cm)ケースを使用。
 内部に同素材の透明な十字架(一〇cm×一〇cm×一九八cmを二本組み合わせたもの)を取りつける。
 標本対象者に睡眠薬を飲ませ、心不全治療薬でもあるコルホルシンダロパートを注射器で投与。
 肋骨ろっこつより下を斧で切断(モルフォチョウの胴体は油分を多く含み、翅の輝きを損ねる可能性があるため、あらかじめ胴体を取り除いて標本にするという手法にのっとる) 。
 切断面は特殊加工した蜜蠟みつろうシートで覆い処理をする。
 肢体の表面は、モルフォチョウの青色を施す。
 波長選択反射を再現するための顔料は、グレーの金属粒子と無色の硫化亜鉛の粒子を透明フィルムにコーティングし、このコーティングをフィルムからがすことでできあがる鱗粉状の粉である。
 顔料を、霧吹きを用いて、角度と濃度が均等になるよう吹き付けるが、心臓部のみ、ケースの真上から太陽光が当たった際、神に心臓をえぐられるかのごとくゆがむ様を表現できるよう、角度と濃度を調整する。
 肢体の裏面は、ガスバーナーであぶる。
 両肩甲骨の下に目玉状のケロイドこんをつける。
 ケース内の十字架に銀色のくさびを用いて肢体をはりつけ状に固定する。
 左手の薬指に、あたかもそこに蝶がやってきたかのように、レテノールモルフォの標本を取りつける。
 ケースを閉じて完成。

〈撮影方法〉
 シダ植物の生い茂る場所にケースを立て、表、裏、両面を撮影。
 裏面撮影の際、ケースにかかるシダ植物は裏面が表を向くよう調整する。

〈作製意図・観察日記〉
 少年たちに会いに行くのは、自家用車ではなく、公共の交通機関をなるべく使用するようにした。私の車はとかく目立つのである。
 そのことにフカザワアオ(深沢蒼)はひどく落胆した表情を見せた。その日は快晴だったため、楽しみにしていたのに、と。彼の家と彼の通う塾の中間地点となる河川敷でのことだ。
「けっこう高いんだよね」
 アオはその車のことを知っていたようだ。だから、キャンプ場で目に入り、それが自分たちの前で停まったことに興奮したのだ、とか。
「塗料の開発に携わらせてもらったから、かなり値引きしてもらえたんだ」
 言わなくていいことを卑屈な笑みを浮かべながら伝えたのに、「開発!すげぇ」とアオは興奮気味に目を輝かせた。こちらがつい、目を逸らしてしまうほどに。
 山の家に集められた少年たちのほとんどが、モデルとして呼ばれたと言っても過言ではないほど、整った容姿に恵まれていた。
 その中でもひときわ惹き付けられたのが、アオだ。
 アオは自分が美しいことを自覚している。自信に溢れた言動がそれを物語っていた。
 幼い頃から美しいという賞賛を浴びるほど受け、それが鱗粉のように幾重もの層となって彼を覆い、輝きを作り上げている。動き一つで輝きは変わる。何をしても、どこから光が当たっても、必ず輝きが生じる。
 その輝きはどれほど強い光を浴びても、そして、標本になっても色あせることはない。
 持たざる者が光に吸い寄せられるように手を伸ばすかのごとく、彼の輝きの粉に触れてみたいと近寄っても、彼は逃げない。
 他者が自分に惹き寄せられるのは当然だと言わんばかりに、その懐に入ることを許すだけでなく、こちらがおそれをなして無意識のうちに空けていたわずかな隙間を、彼の方から詰めてくる。
 詰めた距離のまま、彼は甘い言葉を吐く。
 きみは持たざる者ではない。その証拠に、僕はきみの蜜を求めてここにいる。それが何なのか、自分で気付いていないなら、僕が教えてあげようか。
 彼は塗料の仕組みを知りたがり、モルフォチョウの標本が欲しい、と、せがんできた。金を払うと言ったが、そんなものを息子と同い年の少年から受け取る気はなかった。
 どのモルフォがいいだろうかと悩む間もなく、モルフォの中で一番、つまり、世界一美しい蝶とも言われる、レテノールモルフォにしようと決めた。
 標本ケースはアクリル製と木製のどちらが良いかと訊ねると、彼は、どちらでもいい、と答えた。本物の蝶の翅でアクセサリーを作りたいのだ、と。
 空洞になったガラス玉の内部に蝶の翅を貼りつけ、天然石のように仕上げる職人がいるらしい。それを中心に埋め込んだ蝶を模した銀製の指輪がほしいと言いながら、彼は左手を大きく開いて太陽にかざした。
 モルフォの青を常に身に着けていたい。
 貴重な標本をそんなことに使うなんて不謹慎かな、と苦笑いする顔も美しく、きみに似合いそうだ、と答えた自分の顔も、けっしてへりくだったものではなかったはずだと想像することができた。
 彼のそばにいると、彼の輝きの粉が私にも降りかかり、同じ色の光を発している錯覚に陥りそうになる。
 彼の描く絵はシャガールを彷彿ほうふつさせる青色が印象的なものが多かった。
 山の家での新作は見ることができなかったが、彼のスマートフォンに収められたいくつかの作品の写真を見せてもらった。多少、デッサンに軸のブレが見られるが、青色を駆使して光を表すセンスは抜群に良い。
「名前に影響されてるわけじゃないから。でも、世界一気に入ってる」
 彼に絵を習うことにした動機を訊ねたところ、単純明快な答えが返ってきた。
「きれいなものが好きだから」
 だから蝶も大好きだよ、と笑った彼の顔を見て、私の心は決まった。
 標本の構成を練るに当たり、もっと彼のことを知らなければならないと考えた。
 夜の顔を見てみたい。卑猥ひわいな欲望ではない。私は太陽の光を受けて輝くモルフォが好きだ。蝶の目を通しても淫靡な色彩にはならない。より奥深い青が顔を出し、己の美しさを主張する。己は色を持たないからこそ、月明かりはどう受け止め、どんな青で輝くのか。
 それを知るには、塾帰りの彼を尾行する程度でよかったのだが……。
 河川敷の橋の下、色あせたブルーシートに覆われた小屋とも呼べない建物に、アオは火を放った。火をけたライターをシートの色あせた部分に数秒かざしただけ。
 シートが溶けながら炎をあげると、燃える様子に興味はないと言わんばかりに、その場を悠々とした足どりで去っていく彼を、私は追いかけた。
 名前は呼ぶべきではない。歩く彼に走って追いつき、息も切れ切れに背後から肩に手をかけた。ピクリと震えてくれたら、少しは印象も変わっただろうか。
 追いかけてきたのが私だということに気付いていたのかもしれない。己の美しさでどうとでも取り込むことができる相手だ、と。
「どうしてあんなことを」
 震える声で訊ねた私に、彼は平然とした顔で答えた。
「汚いから。僕の一番きらいな青だ。でも、大丈夫、中はカラだよ。今日はね」
 アオはそう言って笑うと、きびすを返してまた歩き出した。風紀委員長が道端のゴミを拾って処分したかのような、清々すがすがしい足取りで。その背中に、ぎょろりとした悪魔の目が見えたのは、私がモルフォの裏面を知っていたからに違いない。
 蛾と見紛みまがうばかりの醜い姿。
 同様の事件が先にも数件あり、警察は同一犯の仕業だと見ていることもわかった。一つ前のケースでは、小屋の中は無人ではなかったという事実を知った。遺体は男女の判別もつかないほどに焼け焦げていた、とも。
 それらを、彼に確認しようとは思わなかった。
 通報しなかったことに、罪悪感は当然ない。
 作品の完成図が表裏ともに明確になったことに、内なる己の興奮が沸き上がり、ただひたすらそれをより理想に近い形で表す方法を模索することのみに集中した。
 装飾はいらない。表の美しさと裏の醜さ、両面を観賞できる標本。
 モルフォの標本を渡したいから、一緒に行かないか。
 そう誘い込んだ山の家で、標本作製に至るまでアオとどう過ごしたかは、完成品に何ら関係することではないため、割愛する(以下同)。




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