『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』
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The pen is mighter than the sword.(ペンは剣より強し)──言論は、武力では抑え込めないものだ、という主旨のこの有名な成句は、イギリスの政治家で、小説家、劇作家でもあったジョージ・ブルワー・リットンが、その戯曲「リシュリュー」のなかで用いてから、たちまち広まった。
ところが、この名文句を、ロシア人が口にするのを聞いたことがない。どうやら、ほぼ同じような意味のロシア古来の次の
Что написано пером,не вырубишъ топором.(ペンで書かれたものは、
斧というところに、何かほのぼのとした生活臭が感じられる。そして、この慣用句は、「武力に対する言論の優位」という意味もさることながら、もう一つ、「筆禍は取り返しがつかない」という意味に使うことが多い。
プラハのソビエト学校に通い始めた最初の日から、私は、「ペンで書かれたもの」に対するロシア人の特別な思い入れにたじろいだ。最初の登校日だけ、父と父の通訳の女性が同行してくれたのだが、担任の教師の言葉を次のように訳してくれた。
「イーデスカ。スーガク、タダシーノートフタツダネ、クロイノートヒトツ。ロシヤブンポー、タダシーノートフタツダネ、クロイノートヒトツ。ブンガク、タダシーノートフタツダネ、クロイノートヒトツ。ワカッタカネ」
「正しいノート? 黒いノート?」
「ソー。タダシーノート、カワリバンコセンセイワタス。コレペントインキデカク。クロイノートワタサナイ。タダシーノートカクマエ、クロイノートカク。クロイノート、エンピツツカウヨロシー」
ただでさえ心細いところへちんぷんかんぷんなことを言われて泣き出しそうになる私に、父が助け船を出してくれた。
「どの学科も、生徒は正式なノート二冊と下書き用のノートを一冊ずつ持つことになっているらしいよ」
正式なノートは教師が定期的に点検し、採点の対象となるものなので、二冊を交互に教師に預けることになっている。そして、この正式ノートは、必ずペン先の付いたペンにインクを付けて書き込むべきものだった。生徒たちが腰掛けるイスと一体になった造り付けデスクには、ペン軸を横たえるための浅い細長いくぼみと、ガラスのインク
ペン軸にペン先を取り付け、インクに浸してノートに書き付ける。そのようにして書かれたものは、消しゴムなんぞでは消せない。だから必ず下書き帳で
というわけで、正式なノートに鉛筆を使うなど、あの学校の先生方にとっては、象が空を飛び、白熊が赤道地帯に出没するほどにあってはならないことだった。日本の学校の習性で、つい正式ノートに鉛筆で書き込んでしまう私に向かって、数学の先生も、ロシア語の先生も諭した。
「マリ、一度ペンで書かれたものは、斧でも切り取れないのよ。だからこそ、価値があるの。すぐに消しゴムで消せる鉛筆書きのものを他人の目に
この正式ノートには、
当然の成り行きとして、ソビエト学校の生徒たちは、誰もが横幅の広いノートを欲しがった。夏休み、ソビエトに一時帰国する教師や生徒たちは、必ず大量のノートを仕入れてきて、非ソ連人の私たちに配った。当たり前のように受け取っていたが、お金を払った覚えはまったくないから、彼らは気前よく恵んでくれていたのだろう。それでも学年度の半ばあたりで、蓄えは尽きる。
「あたしの家の近くの文房具店に、横幅の広いノートを売っていたのよ」
アーニャが、ある日そう言ったのは、まさにそういう
「えっ、どこそれ?」
「十月革命広場から第七番の路面電車に乗って二つ目の停留所を降りた真向かいにある大きな文房具店よ」
私も、その店は知っていた。でも、変だな。おととい立ち寄ったときには見かけなかった。それを言うと、アーニャは鞄の中から黄色い表紙のノートを取りだして、得意気に見せびらかした。
「だって、ほら。これ、昨日、そこで買ったんだもの」
「わーっ、見せて、見せて」
ノートの紙はソビエト製よりもツルツルしていて分厚く、頁数も多いようだったが、まぎれもなく縦横ほぼ同じサイズの正四角形をしている。
「いいな、これ欲しいな」
「まだ、いっぱいあったわよ。高ーく積み上げられてたから」
放課後、クラスのみんなは、その文房具店に立ち寄って、大量に買いだめすることに決めた。『平和と社会主義の諸問題』誌編集局員子女用のバスに全員が乗り込んで十月革命広場で降り、七番電車に乗り込むため、停留所へ向かった。
「わー、残念。あたし、みんなと一緒に行けない」
突然そう言って、停留所とは逆の方向に歩き出したのは、アーニャだった。
「今日はダンス教室の日だもの」
ダンスの授業のたびに、教師に絶望的な顔をされるアーニャは、そんなこと、痛くも
「大丈夫よ、あたしがついて行けなくても、マリは、その店、何度も行っているから」
と言いながら、走り去って行った。
文房具店は在庫品整理日とかで、閉まっていた。生徒たちは、金網シャッターが下ろされた大きなウィンドウ越しに薄暗い店内をのぞき込んで、黄色い表紙のノートが積み上げられているだろう棚を探した。
「あの辺りに、ノート類の棚があるのだけれど」
私が指さす方向に、みなでいくら目を凝らしても、それらしいものは、見当たらない。
「いいわ。明日には店が開くようだから、私近いから立ち寄って、なるべくたくさん買い込んでおく」
そう約束する羽目になってしまった。
翌日、スクール・バスから降りると、十月革命広場の停留所からアーニャと一緒に第七番電車に乗った。でも、二つ目の停留所に到着すると、アーニャは、
「マリ、ごめん。今日はママのお買い物に付き合わなくちゃいけないの」
と言って、家のほうへ急いだ。私は、ひとりで文房具店に入り、ノートの棚に向かった。そこに黄色い表紙の横幅の広いノートは一冊も置いていなかった。店内をくまなく見回したが、黄色のだけでなく他のいかなる色のものであれ、横幅の広いノートは見当たらない。店の人に尋ねても、
「私の友人が、一昨日ここで買ったというんですけど」
「そんなこと、あり得ないですよ」
「でも、昨日たしかにこの目でそのノートを見たんです」
「この店に勤め出してからもうかれこれ一四年になるけれど、そんなノート、一度も見たことも触ったこともないわ」
「変だなあ。この店じゃないのかしら」
「お嬢さん、チェコスロバキア中どこの文房具店に行ったって同じ事ですよ。それが、社会主義の計画経済ってものです。どの店に置いてあるノートも統一規格品。何なら、その、お嬢さんが見たとか言うノート、ここに持ってきて見せてくださいな」
「はい……」
翌朝、学校へ向かうバスの中で、以上の
「変ねえ、たしかにあの店で買ったのに」
「ねえ、アーニャ、ぜひ、あの黄色いノートを持って今日の放課後、一緒に文房具店へ行ってちょうだい。あの店の人に確認してもらいたいから」
「ええ、もちろん、いいわ」
ところが、放課後、帰りのバスに乗り込んだ時点で、アーニャの
「変ねえ。どこに消えてしまったのかしら、あのノート、見かけなかった?」
まん丸い瞳も、話しっぷりも誠実そのものという感じで、誰もが一瞬であれ、アーニャを疑ったことを心の中で申し訳ないと思ったのだった。
それから一週間ほどしてクラスにフランス人の転校生クロジーヌがやって来た。そして、クロジーヌが鞄から取り出したノートが、色こそ、赤と緑だったが、サイズと形、紙質は、アーニャの黄色いノートとそっくりだった。
「アーニャの黄色いノートは、フランス製だったの?」
「さあ。でも、買ったのは、チェコのお店ですもの。人民の貴重な外貨をノートごときの輸入のために浪費するほどチェコの政府も党も間抜けじゃないと思うわ」
そう言われると、一度しか見たことのない黄色いノートに関するこちらの記憶も
いつのまにか、「幻の黄色いノート事件」と命名された出来事が決着を見るのは、それから一月後、冬休みが明けて学期が改まる一月一二日のことだった。その朝、十月革命広場のバスの待ち合わせ場所に、アーニャは、アーニャより頭一つ上背のある、物静かな男の子と一緒にやって来た。
「ミルチャ、二つ違いの兄なの。こちら、マリ。昨日話したでしょう。日本人の同級生」
「初めまして」
右手を差し出すと、モゴモゴと何かつぶやきながら力無く握り返してきた。こちらと視線が合うのを避けているようだ。
「ブカレストの学校が気に入っていて、家族とプラハには同行せずに、一番上の兄の家から通っていたのだけれど、ママが離れて住むのはもうこれ以上堪えられないと言って、プラハに連れてきたの。ミルチャは最後まで嫌だ嫌だと抵抗したんだけど、ママの強引さには勝てなかったのよ。おととい、やっとプラハに到着して、なんとか新学期に間に合ったってとこなの……」
アーニャ一人がしゃべり続ける傍らで、ミルチャはしばらくのあいだいかにも居心地悪そうに立っていた。陽気で開けっぴろげなアーニャとは、性格も立ち居振る舞いも正反対みたいだ。でも、よく見ると、顔かたちや体つきはよく似ている。髪や目の色もアーニャと同じ濃い栗色。目はギョロリと大きく、鼻も長くて太い。男にしてはなで肩でポッチャリしている。
バスが到着して乗り込む時、他の生徒たちが、
「おはようございます、パン・ヤードルシェック」
と運転手さんに
「おはようございます、ソードルフ・ヤードルシェック」
といつも通りだった。当然私たちは、ミルチャはどう挨拶するか、興味津々だった。モゴモゴと口ごもりながらミルチャは運転手さんの前を通り過ぎた。それでも耳をそばだてている私たちには、
「パン・ヤードルシェック」
と聞こえた。座席に落ち着くと、ミルチャはやおら鞄を開いた。
「あっ」
思わず叫んでしまった私の方に、ミルチャは反射的に首を傾げながら、本を取り出す。本のタイトルはルーマニア語らしかったが、「物理学」という語は、ヨーロッパ語共通なので分かった。もっとも私が気になったのは、本のほうではなかった。
「ちょっと待って」
鞄を閉じようとするミルチャに向かって身を乗り出した。
「は?」
「それ、その黄色い表紙のは、ノートですよね」
「えっ、あっ、これですね。ええ、そうですけど」
ミルチャは鞄の中から黄色いノートを取りだして見せてくれた。縦横同サイズの正四角形。これだ。これに違いない。前にアーニャが見せてくれたものとソックリだ。
「何か?」
「これ、どこで買ったんですか?」
「多分フランスでしょう」
「なぜ多分なんですか?」
「…………」
「あっ、ごめんなさい、いきなりはしたない質問して。このノート欲しくて前から探してたんです。でも、プラハの文房具店で買ったんじゃないんですね?」
ミルチャは首を縦に振った。やはりアーニャは噓をついていたんだ。それにしても、なんでこんな馬鹿馬鹿しい噓をつくのだろう。バスの中では、別な女の子とおしゃべりに夢中で、私とミルチャのやりとりに気付かなかったアーニャに、学校に着いてから、その点を確かめた。
「アーニャ、記憶違いじゃないの? あの黄色いノート、近くの文房具店で売っていたというのは」
「そんなことないわ。ミルチャのノートはどうか知らないけど、私の黄色いノートは、あの文房具店で買ったのよ」
しっかりとこちらの目をのぞき込みながら、アーニャは自信満々に言い切った。とても噓をついているようには見えない。それに、こんなくだらない噓をつく理由も分からなかった。でも、アーニャは噓をついたという九九・九パーセントの感触を、軽い失望とともに私は得たのだった。
そして、しばらくすると、アーニャがことあるごとに噓をつくことに私もクラスメートたちも気付き始めた。癖というか、ほとんど病気のようなものだった。
もともと誇張癖は前からあった。話をドラマチックにしたがるのだ。だから、ルーマニアのおとぎ話など話させると、生徒ばかりか先生方まで聞き入ってしまうほど面白かった。ずっと後に、私が日本の大学に通う頃、ルーマニア口承文学を記録した本を大学付属図書館で見つけたとき、すぐさま借り出して目を通したのだが、アーニャの聞かせてくれた物語ほど起伏に富んでワクワクさせる物語は見つからなかった。でも、アーニャのおとぎ話の骨格らしきものはそこかしこに発見できた。語り部としての創造力に誇張癖は欠くことのできない手段だったのだなあとアーニャのことが懐かしくなった。そして、ミルチャが学校を休んだとき、
「肺炎で死にかかって四〇度の熱が出た」
とアーニャが言うのを信じて先生方も生徒たちも心配したのだが、翌日登校してきたミルチャに確かめたら、軽い鼻風邪だったなんてことがあったのを思い出した。
文学のガリーナ・セミョーノヴナ先生も、作文の講評をするたびに注意したものだ。
「なんですか、『神々しいほどに清らかにして
聞く方が気恥ずかしくなるほど大げさに共産主義を
「パパは数学者だったのよ。共産主義運動に身を投じなければ、今頃ノーベル賞は軽かったわね」
なんていうのは、子どもに多い罪のない親自慢に過ぎないのだから、そのつもりで誰もが聞き流した。
「ママは、若い頃、同志たちのあいだでとても人気があって、ずいぶんいろんな人たちに言い寄られたんだ。それを振り切って、パパと一緒になったのよ。中でも一番熱心だったのは、誰だと思う?」
ある日、アーニャが尋ねてきたことがあった。
「さあ」
アーニャはピッタリ顔を寄せてきて、小声になった。
「マリ、ここだけの話だから、誰にも言っちゃ駄目よ」
「ええ」
そんなこと、誰も興味は持たないだろうに、と思いつつ適当に返事をした。
「デジよ、デジ」
「デジ?」
「ゲオルギ・デジ」
ルーマニア労働者党の書記長、国の実質的な最高権力者の名前をアーニャは口にした。ちょっと驚きはしたが、どうせまた噓つきアーニャの
それでもそのうちに、噓をつくときのアーニャは、丸い目を見開いて真っ直ぐ相手の目を見つめることに気付いた。
「ほらほら、アーニャが誠実面をしたから要注意」
クラスメートたちは目配せをしあった。
それから、アーニャは自分がついた噓を認めるということは、絶対にしなかった。というよりも、一度ついた噓を本人も信じ切ってしまっているような節があった。
一度、ギリシャ人のリッツァとアーニャの噓を話題にしたことがある。
「不思議だよねえ、なんでああも次々と噓をつくのか」
「ほら、イソップの話か何かに法螺吹きの少年が出てくるでしょう。『狼が来る』って騒いで、二度目までは村人が避難するのだけど、三度目は、ほんとうのことだったのに、『どうせ、また法螺だろう』って本気にされない。それで狼に喰われてしまうんだっけ? 今まであの少年がなんであんなくだらない噓をつくのか、理解できなかったけれど、アーニャを見ていると、もしかして、あの少年、アーニャみたいな性格だったのかもしれないと思えてきた」
「そうかなあ。でも、狼少年の噓は、どちらかというと、目立ちたい、注目されたいという願望が底にあるでしょう。アーニャも、時々その種の噓をつくけど、圧倒的多数の噓は、そういう意味さえない噓でしょう」
「そうなんだよねえ、アーニャって、まるで呼吸するみたいに自然に噓つくんだよねえ」
「うん。きっと、噓つかなくなったらアーニャは死んでしまうかもしれないね」
「そんなことはないだろうけど、噓をつかないアーニャなんて、想像しただけでつまらないね。アーニャじゃなくなっちゃうね」
噓つきアーニャは、どうしようもない噓つきであることも含めて私たちに愛されていた。それは、アーニャが優しくて友達を大切にする女の子だったからだ。冬の林間学校でリッツァがスキーをしている最中に足を折ってしまったときには、リッツァを背負って、二キロの距離を運んでくれたという。それも恩着せがましいところが
よくアーニャとプラハの街を散歩したものだが、時々、悪ガキどもにはやし立てられることがある。
「やーい、チンヤンカ(中国人)、チンヤンカ」
そんなとき、アーニャはカンカンになって怒り、相手がどんなに大人数でも立ち向かって行って
「マリ、気にしちゃ駄目よ。人種差別ほど下劣な感情はないんだから」
とにかく困ったとき、悲しいとき、アーニャは頼りになる友人だった。女の子には珍しいほど、情緒が安定していたということも、頼もしい限りである。
そのアーニャが、一度だけとても
それは、春の林間学校で水道管が破裂して、何日間もバスタブもシャワーも使えなかったときのことだ。リッツァの一言から始まった。
「面白いわね、ロシア語って。чистая(チースタヤ)って単語、ギリシャ語と違って、純粋とか純血とか生粋という意味でも使うし、清潔っていう意味でも使うのね。つまり、チースタヤって不純とか混血の反対語でもあるし、汚いとか不潔の反対語でもあるんだ。ハハハハ、アーニャ、あなたはチースタヤ・ルーマニア人?」
リッツァは明らかに、ふざけているのに、アーニャの反応は尋常ではなかった。顔を真っ赤にして本気で怒っている。
「リッツァ、何てこと言うの! 当たり前でしょう!」
リッツァの方は、アーニャの逆上にまだ気付いていない。
「いやあ、違うわね。決してチースタヤ・ルーマニア人ではない」
「リッツァがこれほど恥知らずだったなんて! 許せない」
リッツァもようやく異常に気付いてなだめにかかった。
「何怒ってるの、アーニャ、あなたは、もう一週間もお
それでも、アーニャの怒りはおさまるどころか、ますます興奮してきた。声を震わせ
アーニャは、もともと祖国ルーマニアに対する思い入れが強い子であった。在プラハ・ソビエト学校には、五〇カ国以上もの国の子どもたちが学んでいたのだが、故国を離れているせいか、どの子どもも一人残らずイッパシの愛国者であった。
そして、故国への愛着は、故国から離れている時間と距離に比例するようであった。この距離というのは、地理的というよりも政治的、文化的意味合いの方が大きい。
たとえば、亡命者の子女で、両親の故国に行ったこともない子どもほど、今現在は両親の政治的立場とは敵対する母国の自慢にひどく力が入るのである。
両親が軍事独裁政権の弾圧を逃れて、東欧各地を転々としていたリッツァが、ルーマニア生まれのプラハ育ちの癖に、まだ一度も仰ぎ見たこともないはずのギリシャの青空のことを何度も自慢したように、父親が元スペイン人民戦線の戦士で、モスクワ生まれのリーナは、自分が一度も行ったことのないマヨルカ島の海岸線の美しさを、それは生き生きと語り聞かせてくれるのだった。
「砂浜の砂がね、それは絹みたいに柔らかくて肌触りがいいの!」
私自身が、愛国心の
「日本はモンスーン気候帯に所在」
という記述を見つけて、自然と顔がほころぶのを抑えきれなかったのである。海が遠く年間降水量が日本の四分の一程度のチェコに較べて、高温多湿のわが国を心から誇りに思ってしまったのだ。空中の水分が多いので、呼吸器系も肌も髪も、しっとりと息づく感覚を思い起こして懐かしさに身震いした……今書き進みながらも思う。なんとたわいのない!
それでも、このときのナショナリズム体験は、私に教えてくれた。異国、異文化、異邦人に接したとき、人は自己を自己たらしめ、他者と隔てるすべてのものを確認しようと躍起になる。自分に連なる祖先、文化を育んだ自然条件、その他諸々のものに突然親近感を抱く。これは、食欲や性欲に並ぶような、一種の自己保全本能、自己肯定本能のようなものではないだろうか。
この愛国心、あるいは愛郷心という不思議な感情は、等しく誰もが心の中に抱いているはずだ、という共通認識のようなものが、ソビエト学校の教師たちにも、生徒たちにもあって、それぞれがたわいもないお国自慢をしても、それを当たり前のこととして受け容れる雰囲気があった。むしろ、自国と自民族を誇りに思わないような者は、人間としては最低の屑と認識されていたような気がする。
「そんなヤツは、結局、世界中どこの国をも、どの民族をも愛せないのよ」
アーニャは、よく心の底から吐き出すように、そう言った。
アーニャの愛国者ぶりは、亡命者の子女をしのぐほどに強烈だった。他人の愛国心に寛大なソビエト学校の生徒たちもウンザリするほど強烈だったものだから、悪ガキどもがからかいたくなるのも当然だった。あるとき、ロシア人のヴォロージャが、次のようにアーニャを挑発した。
「おい、ザハレイドウ、早くルーマニアも、牛乳の生産でアメリカに追いつき、追い越さないとな! 農業が遅れてるもんだから、ルーマニアの百姓は、兄弟社会主義諸国の中でも一番貧しいそうじゃないか! 今も
アーニャはとたんに興奮して呼吸が激しくなった。躍起になって、ママルイガという名のトウモロコシ
ついに、それを納得させるために、クラスメート全員を自宅に招いて、ご
ルーマニアの農民の誰もが、ちゃんと革靴を買えるだけの経済力を持ち、ルーマニアの軽工業部門が、国民の革靴需要を満たすだけの生産力を十分に備えていることを統計数字を駆使して述べたてる。聞かされる方が明らかに食傷気味になっているのだが、お構いなしである。
「というわけで、ルーマニアの農民が草鞋しか履けないなんて完全なデマ、ルーマニアとソ連両国人民の友好に
と言って、とうとうと説明を続けた。私は、
誰もがイッパシの愛国者だったソビエト学校に通ううちに、大きな国より小さな国、強い国より弱い国から来た子どもの方が、母国を想う情熱が激しいことに気付いた。アメリカ人よりプエルトリコ人の方が、自国に対する侮辱に敏感なのだった。自分こそが国を代表しているという悲壮感が強いのである。
国が小さい分、その国に占める自分の割合が大きく、自分の存在によってその国の運命が左右される度合いが少しでも高そうな気がする方が、思い入れが強くなるのだろうか。これは、都会生まれの都会育ちの人間が、自分には故郷が無いと感じているのに対して、地方の小さな村の出身者が絶えず胸中に懐かしい故郷の風景を抱いているのに通じる。そして、フランスやロシアに較べて小国だったルーマニアのアーニャの愛国心の強さも、そこから来ているものに思えた。
プラハの学校で私が確認し得た、愛国心をかき立てるもう一つの要素がある。それは、故国が不幸であればあるほど、望郷の想いは強くなるらしい、ということだった。
フランスの植民地であったアルジェリア出身の少年アレックスは、毎日のように無線ラジオに耳を傾け、独立戦争の行方に一喜一憂していた。そして、独立前後の、まだ政情不安な故国に、両親とともに一〇〇年来の恋人に逢いに行くように帰っていった。その消息は、その後分からずじまいである。
内戦が続く南米ベネズエラから来た少年ホセの言葉は、今も忘れられない。
「帰国したら、父ともども僕らは銃殺されるかもしれない。それでも帰りたい」
それから一月もしないうちにホセの一家はプラハを引き上げていった。密入国した両親、姉とともにホセが処刑されたというニュースが届いたのは、さらにその三カ月後だった。
(※続きは本書でお楽しみください)
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ユーモラスに、真摯に綴られた、激動の東欧を生きた三人の女性の実話!
嘘つきアーニャの真っ赤な真実
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著者 米原万里カバーデザイン 長尾敦子
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発売日 2004年6月25日
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定価 836円(本体760円 + 税)
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