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試し読み

【新連載試し読み 伊岡瞬「仮面」】愛のない結婚をした莉菜子は、不倫関係にのめり込んでいた……

3月12日(火)発売の「小説 野性時代」2019年4月号では、伊岡瞬「仮面」の連載がスタート!
カドブンでは、この新連載の試し読みを公開します!

パン屋を営む夫と愛のない結婚をした莉菜子は、不倫関係にのめり込んでいたが……。

横溝賞作家の「小説 野性時代」初連載、開幕!

 

 【はじめに】

 この本を手に取ってくださったあなたに、まずは感謝です。
 ぼくが、障害者の社会参画について勉強しようと、カリフォルニア大学バークレー校に留学を決めたとき、まさかわずか四年後のカリフォルニア州知事選で、選挙ブレーンを務めることになるとは想像もしていませんでした。日本にいたころは、あからさまに(差別というよりは)憐憫が込められた視線を向けられることに、慣れていたからです。
 正直なところ、現地での生活が始まるまでは不安のかたまりでした。しかしその不安はすぐに、驚きと感激に変わりました。ハンディを負った人間に対する考え方の、日本におけるそれとの相違によってです。
 サポート体制その他のハード面が整っているのはもちろんですが、職員をはじめ学生たちも、「障害」を憐れんだり特別視したりはせず、ひとつの「個性」としてごく普通に受け容れてくれました。欠けているものをあげつらうのではなく、持っているものを認めようとする、その柔軟で先進的な考え方に感動したのです。
 これは個人的な人間関係(友情とか結婚とか)でも、いえることではないでしょうか。相手が「何ができないか」を責めることは、建設的でないばかりか、せっかく築きかけた関係を損ないさえします。大切なのは「何ができるか」なのです。
 小学生でも普通に使いこなしている、そんな簡単な漢字でさえ読み書きできないぼくが、いかにして大きな選挙のブレーンスタッフとなれたのか――。
「アルファベットが二十六字しかなかったから」というのは、ぼくがたまに使うジョークですが、もちろんそれは本心ではありません。いえ、冗談どころか、真剣に研究や支援に取り組んでくださっている関係者の方には、お叱りを受けそうです。なぜなら、その言語の特性から、読み書きの障害は英語圏がもっとも多いといわれているからです。ぼくの印象では、それは事実だと思います。
 話が少し逸れましたが、そんなぼくが、知人も、まして親戚もいない異国の地でなんとかやっていけたのは、そして帰国したのちにこうして本を出版することまでできたのは、周囲の方々のサポートに恵まれたからだと感謝しています。
 この本では、ぼくがこれまでにたどった、少し風変わりな、しかし誰の身にも起こりうる道のりを紹介させていただきたいと思います。

 ことの起こりは中学三年生の冬、クリスマスを目前にした十二月半ばのことでした。
 こまかい事情はのちのち説明しますが、当時ぼくは、東北のある町に暮らし、毎朝登校前に新聞配達をしていました。
 東北地方では、冬になると配達の仕事は大変です。いうまでもなく、積雪や路面の凍結のためです。当然、配達手段に自転車という選択肢はなく、原付免許も持っていないぼくは、徒歩で配ってまわっていました。
 お世話になっていた販売店の店主さんは、そんなぼくを気遣ってくれて、住宅が密集する地区や集合住宅が多いエリアを受け持たせてくれました。
 運命のあの日も、ぼくはいつもと同じコースを回っていました。
 午前五時、よく「夜明け前が一番暗くて寒い」と言います。ほおを打つ風は刃物のように鋭く冷たいものでした。前日の昼に少し気温があがり、そしてまた夜に急激に冷えこんだため、路面はあちこちで凍結していました。
 底に鋲を打った雪靴を履いていたぼくも、転倒しないようにかなり気をつかって歩いていました。
 一軒の郵便受けに入れ、次の家に向かって、ガードレールもない、いわゆる生活道路を注意深く歩いていたぼくは、後ろから車のライトが近づいてくるのに気づきました。シャーッと雪をはねのけて進むタイヤの音は、チェーンをしていないように聞こえました。路肩のあたりは凍結していますが、道の中央部は車のチェーンによって砕かれ、シャーベット状になっていたのです。
「ずいぶん飛ばしているな」そう思って、もう少し民家の壁際に寄ってやりすごそうかと思ったその時です。突然、背後から激しい衝撃を受けて、体が宙に浮きました。あ、はねられた、そんなことを短い一瞬に思った直後、ぼくは意識を失いました。
 気が付いたとき、ぼくの体は病院のベッドの上でした。その前日まで集中治療室に入っていたそうなのですが、記憶にありません。
 もちろん、一般病棟に移ったからといって、すぐに動き回れるわけではありません。肉体的なこともそうですが、精神的なショックも大きなものでした。何が起きたのか、自分はいまどこにいて何をしているのか。それを受け容れるまで時間がかかりました。
 ただ、幸い内臓にはほとんど損傷がなく、傷ついたのは主に頭部と四肢でした。右足と右手にギプスがはめられていることにはすぐ気づきましたが、脳が受けたダメージに気づくのには少し時間を要しました。
 事故前の生活環境についてもおいおい説明したいと思いますが、当時のぼくには、病室を親身になって見舞ってくれる家族と呼べる存在がなかったことも、気づくのが遅れた理由のひとつだと思います。もっとも、早めに気づいたところで、何か手を打てたわけではないと思いますが。
 ぼくをはねたのは、その近くに住む、自動車修理工場を営む中年の男性でした。朝方までスナックで酒を飲んで、自分で運転して帰る途中だったようです。ぼくをはね飛ばしたあと、電柱に激突して車は停まりました。ちなみに、本人は軽傷でした。
 ぼくには知る由もありませんでしたが、当時、ほんの少しだけニュースになったらしいので、ご記憶にあるかたもいるかも知れません。
 酒酔い運転の車にはねられる――。もちろん、とても腹立たしい事実ですが、そんなことはどうでもよくなるような衝撃が待っていました。
 最初になんだか変だなと思ったのは、看護師さんの名札が読めなかったことです。親切にしていただいたので、お礼を言おうと思い名札を見たのですが、なんと書いてあるかわからないのです。
 くどいようですが、見えないのではありません。見えているのに、読めないのです。では、それほど難しい漢字だったのでしょうか。いいえ、あとでわかったことですが、その女性の看護師さんのお名前は『橋本はしもと』さんでした。中学三年生だったぼくは、事故の前にはごく普通に読めた漢字です。
 やがて起き上がれるようになり、トイレにも自力で行くようになりました(差額が払えないため、数日でトイレのある個室から大部屋に移されていました)。
 このとき、またあの違和感が湧きあがってきたのです。どういうことか――。
 壁に貼ってあるポスターに印刷されている文字も、通路に掲示された案内板も、一切読めないのです。漢字とひらがなの区別さえつきません。おそらく文字だろうとは想像がつくのですが、何かの記号のようにしか見えず、意味が理解できません。これはどういうことなのかと、混乱しました。
 ぼくはトイレを済ませると、病室に戻り、隣のベッドの人から週刊誌を借りました。それまでは、事故のショックで活字を読もうという気力さえありませんでした。
 やはり読めません。見えますが読めないのです。少ない線で書かれたあっさりした文字と、細かい線が何本も組み合わさった文字の違いは、認識できました。あっさりしたほうが仮名で、複雑なほうが漢字でしょう。ただ、それぞれをどう読むのかわからないのです。直感的に、頭を打ったせいだ、と思い至りました。
 その直後ぼくは、呼吸困難に陥っていたようです。週刊誌を貸してくれた人が異変に気づいて、ナースコールをしてくれました。視界が晴れてくると、看護師さんがふたりそばにいて、ぼくの背中をさすりながら話しかけてくれていました。ひとりは例の橋本さんです。よく覚えていませんが、「どうしたの」「大丈夫?」と訊かれていたのだと思います。
 ぼくは「字が読めない」と取り乱していました。橋本さんたちも、最初はぼくが何を言っているのか理解できなかったようです。当然ですね。しかし、すぐに担当医に相談してくれて、安定剤を処方してくれました。
 これが始まりでした。この日以来、ぼくはとくに漢字が読み書きできません。いまでも『橋本』という文字は読めませんし、自分で書くこともできません。
 そのぼくが、どうして日常生活を送り、大学を卒業し、政治の世界をのぞき、こうして本を出すことができたのか――。
 あの日の絶望の中にいたぼくにはとても信じられない未来です。その奇跡と軌跡を、とくに同じ症状に苦しむ方に知っていただけたら幸いです。
 この本をまとめるにあたっては、たくさんの方にお世話になりました。具体的には、本文中にお名前が出てきますが、この場を借り、あらためてお礼申し上げます。
 ――三条さんじょう公彦きみひこ著『読字障害ディスレクシアの僕が、州知事選挙のブレーンになれた理由』より。


    ***

  【学習障害(LD)の定義 〈Learning Disabilities〉】
 学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を指すものである。
 学習障害は、その原因として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されるが、視覚障害、聴覚障害、知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因が直接の原因となるものではない。
(平成11年7月の「学習障害児に対する指導について(報告)」より抜粋)
 ――文部科学省ホームページ内『特別支援教育について』より。

   宮崎みやざき莉菜子りなこ


「莉菜子、そろそろ出なくていいのか」
「うん。もう行く」
 夫の淳史あつしに声をかけられ、宮崎莉菜子はリビングから声を張り上げた。
 あまり化粧に念を入れると怪しまれるが、最低限のところは押さえておきたい。たとえ、途中でもう一度鏡を覗くにしてもだ。
 先日古希を迎えた義母の永子えいこ、そして莉菜子と夫の三人で、『パン工房 しぇるぶーる』を営んでいる。子どもはまだなく、義父は二年前に病死した。
 宮崎一家の住居を兼ねた店舗は、私鉄の東久留米ひがしくるめ駅からバスで十分ほどの、ちょっとした商店街の一角にある。
 今年三十三歳になる莉菜子は、五年前、ちょうど十歳上の淳史と結婚した。
 莉菜子が派遣社員として、日本橋にほんばしにある医療関係のコンサルタント会社に勤めていたころ、お気に入りだったカフェを兼ねたパン屋があった。その店は、数年前に改築されたばかりの、お洒落な商業ビルの地下一階にあって、しばしば雑誌や著名人のSNSなどでも取り上げられる有名店だった。
 有名だからというだけでなく、実際、パンはもちろん、ランチや夕食時に出すちょっとした料理も美味しい。店内の雰囲気もいい。その割に値段も手ごろ。そんなことも通った理由だったが、なにより日本橋にあるおしゃれな店で気軽に昼食をとっている、というテレビドラマのような情景が気に入っていた。 
 淳史はこの店で、作り手の職人として働いていた。
 あとから知ったのだが、厨房から店内は見通しがきくので、莉菜子が通うようになってほどなく、淳史が見初めたらしい。莉菜子のほうも、何度も足を運ぶうちに、厨房の奥から自分を見ている目に気づいた。しかし、ただそれだけで、特に何かの感情を抱いたことはなかった。
 通常、パン職人の勤務は朝が早い。のちに淳史が冗談半分に言ったが「駆け出しのころは、終電が出勤電車だった」そうだ。そのかわり、夕方早めに終わる。
 しかし、仕事帰りの勤め人を目当てに夜の九時まで営業するこの店は、二交替制をとっていた。淳史も例外ではない。
 あるとき、莉菜子が一時間ほど残業をこなし、午後六時半過ぎに勤務先の入ったビルの外に出ると、歩道に見覚えのある顔が立っていた。それが淳史だった。さすがに二年近くも通ったので、店でも会釈ぐらいはするようになっていた。
 当時莉菜子は二十六歳、淳史は三十六歳だった。
 淳史は、身長は百七十五センチを少し超え、腹は出ていない。体型的にはまあまあだが、それ以外はあまりぱっとしない外見だった。食べ物を扱うせいで、髪を短く刈ってさっぱりしていること自体は悪くないが、それが、はれぼったい一重のまぶたや低くどっしりとした鼻などとセットになると、田舎臭い雰囲気をにじみ出させていた。
 この日の出会いは、もちろん偶然ではなかった。淳史は早帰りの日に、莉菜子を待っていたのだ。それも、定時の五時半から一時間も。
 もう十一月も半ばで、最初は体が冷え切っているように見えた淳史だったが、莉菜子を前にして顔を真っ赤に染め、額やこめかみにうっすら汗すら浮かべて、言葉につかえながら莉菜子を食事に誘った。
 正直なところ、十も年上の垢ぬけない淳史に胸はときめかなかったが、その純朴な態度と、誘われた先が、丸の内にあるこれも有名なフレンチの店だったため、ひとまず了解した。なんでも、その店で働くシェフのひとりと知り合いだということだった。
 予想したとおり、料理は美味しかったが、話は退屈だった。趣味をたずねると、休日にひとりバイクに乗って、日帰りか一泊程度のツーリングに出かけることだと答えた。キャンプもするという。
「面白そうですね」とお世辞を言うと、淳史の目が輝き、急に饒舌になった。
 どこそこの峠で対向車がはみ出してきたので危うく死にかけたとか、野宿した翌朝になんとかいう湖越しに見た朝焼けの富士山は神々しかったとか、そんな話が延々と続く。
 莉菜子は、感心したふうにふんふんとうなずいていたが、アウトドアというものにまったく興味がなかった。風呂にも入らないキャンプなど、金をもらってもごめんだ。デザートの余韻をブラックコーヒーで流しながら、これが最初で最後だなと思った。
 食事のあとも、下調べしておいたらしいバーに誘われたが、翌朝早いからと断って帰った。当時は、実家で母親とふたり暮らしだった。
「ただいま」
「おかえり。遅かったね」
 すでに寝支度を終えた母が、不機嫌さをにじませて言った。
「送別会があったから」
 ここ数年、母娘おやこの会話はそんなもので終わりだ。
 風呂に入り、夜中近くに自分のベッドに横になると、その気もないのに淳史のことを思い出した。
 淳史のバイクの後ろに乗ってツーリングに出た先の、人がまったく通らないすすきの生い茂った野原で、淳史に無理やり力ずくで犯される場面を想像して、自分の指でなぐさめた。最後の行為から半年近く経っている。もやもやが溜まっていた。ただ最後の瞬間、莉菜子にのしかかる淳史の顔は、派遣先の会社で好意を寄せている、妻子のある男のそれにすり替わっていた。


(このつづきは「小説 野性時代」2019年4月号でお楽しみください)
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