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試し読み

人気脚本家伊藤ちひろ初の小説『ひとりぼっちじゃない』刊行&「タイプライターズ」出演記念試し読み!

又吉直樹さんと加藤シゲアキさんがMCを務める文学バラエティ番組「タイプライターズ~物書きの世界~」に、『ひとりぼっちじゃない』の著者・伊藤ちひろさんが出演(1月5日・フジテレビ系列)。
カドブンでは、これを記念して本作の特別試し読みを行います。加藤シゲアキさんが気になる作品として挙げてくれた作品世界をお楽しみください。


「世界の中心で、愛をさけぶ」「春の雪」など、数々のクリエイターを唸らせた名脚本家が10年の歳月をかけた初の恋愛小説!

 言葉の一つ一つがまるで細胞みたいに、そこで使われる意味をもれなく携えている。――作家・井上荒野
 ついに刊行! どれほど待ち望んだか。あれだけの脚本を書ける人の小説が面白くないわけがない。――演出家・宮本亜門


* * *

 昼休みも終わろうという頃、小山田おやまださんが突然、「スレンダーG.見ませんでした?」と騒ぎはじめた。女のコたちは皆、知らないと答え、院長や原口はらぐちも「スレンダージィって?」という反応を見せたので、僕も「ん?」と言うような顔をした。
 さらに僕は、「女性誌なんですけど、待合室から消えちゃったんですよ」と焦る彼女に、「どんな表紙の雑誌なの?」とも、言ってしまった。
「えー、白いニットを着たモデルが笑ってるような表紙だったと思うんですけど、背景がたしかグレーで、とにかく、スレンダーG.4月号って書いてあるやつなんですよ」と、彼女は一生懸命説明してくれた。
 少し苛立っているような口調で、「その雑誌がなんだよ」と訊いたのは院長だった。小山田さんは、午後に予約の入っている患者さんが前回待合室で読んでいた雑誌で、もうちょっと読みたがっているようだったので、次回の予約の時まで残しておきますよと約束していたのだと言う。「昨日まであったのにぃ」と泣きべそをかき、院長は「それは困ったね」と深刻な顔になった。きたさんは「私は小山田さんに頼まれていたので、あの雑誌はちゃんと捨てないでとっておいたはずなんだけど」と言った。
「こんなことならあの時、持って帰っていいですよって言ってあげればよかった」と小山田さんがしつこくぐずるから、いよいよみんなが本気になって、「じゃあみんなでもう一度よく捜してみよう」とか、「本屋に行ってももう手に入らないの?」だとか、「誰か患者さんが持って帰っちゃったのかな?」「えっ、何も言わないで勝手にそんなことしないでしょ」なんてことも言い出して、もうそれは、大ごととなった。
「あっ、ごめん、もしかして僕が持っているやつかな。ちょっと気になる記事があったから家でゆっくり読もうと思って、さっき拝借したんだけど、それかな?」という言葉を用意したが、時間が経つほど切り出すのが難しくなった。
〝あなたの周りにもきっといる! 空気が読めない困った人々〟という特集ページが昨日からどうしても気になっていた。それで今朝カバンに入れた。僕は、貰っていいか確認を取ってもよかったが、面倒だった。備品を担当している北さんはもちろん、誰もまだいなかったし、それにどうせ確認を取ったところで、「別にいいんじゃないですか?」と言われるに決まっていると思っていた。2ヶ月も前の号だし、くたびれ方からいっても、どうせそろそろ処分されるのだろうから持って帰ったって誰も気に留めないだろうと思っていた。
 貰ってもいいかとたずねることで「ススメ先生はなんでこの雑誌が欲しいのだろう?」と詮索せんさくされるのを避けたいという思いがあったことは、認めよう。まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。
 持って帰って読もうなどと考えず、みんなが来る前に読めばいいって話。記録しておきたいことがあれば得意のメモを取ればよかったのだ。コピーを取ったってよかったのだ。
 首がおかしい。肩もとても張っている。こんな雑誌の、たった6ページのために、罪悪感と緊張感に襲われて、僕は、こんなに体を痛めた。いままで一度だって待合室の雑誌に興味を持ったことなどなかったのに、なんでこうなるのか、本当にどこまでも運に見放されている。
 僕が読みたかった特集にはこんな投稿があったので、貼っておく。

 なんともイヤミな物言いだ。A子先輩も悪いけど、なんだかみんなで協議だなんて、醜い。しかもこんなふうに雑誌にまで投稿して、この投稿者は、A子先輩がみんなのお荷物になっていることで自分が少し強くなったような気分にでもなっているのだろうか。人の欠点を集団でいじくったって自分の欠点が薄れるわけでも、安心が手に入るわけでもない。自分の欠点を無視して変わる努力をしないA子先輩も醜い。そして僕もだ、醜い。小山田さんも今日のこと、投稿しようと考えていたりするのだろうか。
『私は歯科クリニックで歯科助手をしているのですが、先日、待合室の雑誌が1冊、忽然こつぜんと消えたのです。それに気づいた私は焦りました。なぜなら、その日、予約の入っていた患者さんにその雑誌を置いておくように頼まれていたからです。他のスタッフに訊いてみると、みんな一様に「知らない」と答えたのですが、S先生の反応だけが明らかにおかしいのです。たしかその雑誌には〝あなたの周りにもきっといる! 空気が読めない困った人々〟という特集が組まれていました。S先生はきっとこの特集が読みたかったのでしょうね。いつも朝一番に出勤するS先生がコソコソと自分のカバンにその雑誌をしまう姿が目に浮かびました。その日、S先生はやたらと自分のロッカーを意識していたので間違いないと思います。私が患者さんに謝る姿をS先生は一体どんな気持ちで見ていたのでしょうか。』
 だいたいこんなところだろうか。
 せっかく新しいノートに替わったというのに、こんな一日から始まってしまった。
 これからの1頁1頁、素敵なことで溢れるよう願う。

 週末から読み始めた『パスカルの愚行』という小説に〝ラタトゥイユ〟という食べものが出てきた。主人公であるアラン・パスカルは、恋人のテレーズが作ってくれた〝ラタトゥイユ〟という料理を皿ごと壁に投げてしまう。〝壁にへばりついてのんびりとくだっていく憎きズッキーニ〟とあるが、いったいどんな食べ物なのか、調べて作ってみようと思う。僕はズッキーニがパスタに入っていると嬉しくなるけどな……
 大沢おおさわ敏明としあきさん、今日で治療がひとまず終了となる。患者記録帳の大沢さん分を整理してから寝ることにする。

 久しぶりにあの夢が出た。淡い水色の空に、いくつもの巨大な絵が浮かんでいる。僕は、頭の中が凍ってしまいそうなほどの恐怖を感じている。あってはならないことが起きているのに、僕以外誰もそのことに気づいていない。「みんな空を見て!」僕はなぜそう叫ばないのだろう。
 子どもの頃から何度も見ている夢。夢の中でも感じている、「まただ。僕はこの空を、もう何度も見ている」と。目覚めてからはその絵がどんなものだったか具体的に思い出すことができない。印象だけが残っている。不思議だ、たしかに見ていたはずなのに。花火のように輝きを持った美しいものと違う、たぶん透過しているような感じで、もっとずっと大きくて、平らな、動きもない、温度もない、それが空を支配している。どこか宗教画のように神秘的で、だけど、見たら誰もが不安を感じるような、不気味さがあって、そんな絵だったと思う。ただただ異様な光景。
 子どもの頃、僕はそんな空を本当に見たのかもしれない。あまりの恐ろしさで閉じ込めた記憶がこうやって、たまに飛び出る。
 まだ3時。もう一度寝るべきか。このまま起きてしまおうか。今日は金曜日。眠る代わりにお湯に浸かるのも良さそうだ。

 湯ぶねの蛇口を開けて戻ってきたら、外がわずかに明るくなっていて、少し早すぎはしないかと恐る恐るカーテンの隙間から覗いてみたが、空に絵など浮かんではいない。当然だ。秒針が動いてなかった。ちょうど夢のさなかに止まったのではないか。2時48分16秒。電池を交換しなければ。近頃、どうもおかしい。あの夢は、何か良からぬことが起きようとしている知らせであるとも考えられる。浴室のドアを開けたときから、耳の中で妙な音が細く響いている、これは予感の音だ。
 今、鼻に抜けた。ツーンとして少し痛い。せっかくお湯を入れているけれど、時間がないのでさっと済ませなければならない。今日は金曜日。数時間頑張って乗り越えれば、休みが待っている。

 頭痛がひどい。夕方までダラダラ寝てしまったせいだ。首もおかしいままだし肩コリも取れないからマッサージチェアが欲しい。
 3ヶ月ほど前に買ったままほこりをかぶっていた新商品のカップラーメンは、麵がスカスカでスープも想像していたものとは全然違い、おいしくなかった。寂しい気持ちで麵をすすっていたら、外で遊ぶ子どもたちの声が聞こえてきて、僕は思い出した、ここに引っ越してきた日のこと。夕日が部屋を照らし、フローリングには僕の影が、気持ち良く伸びていた。あの床の広さを取り戻したいと思った。ここでの新生活を思い浮かべて弾んでいた頃の自分を取り戻したい、そう思った。あの日もこんな夕方だったのに、何もかもが変わってしまったなー、そう思ったら泣けてきた。けどそれは、僕しだいでいくらでも取り返せるものなのだ。だから、明日は本気で片づける。きっちり収納し、ここは、もう二度と散らからない完璧な部屋になる。明日が少し楽しみだ。

 心が折れそうだ。このまま手あたりしだいに片づけていくのでは、正気を保つことすら難しい。どうしてこんなになるまで散らかしてしまったのだろう。
 ①どんな部屋にしたいのか、しっかりビジョンを描くこと。
 ②いま足りていない物を思いつきしだい、書きだしていくこと。(収納用品など)
 そしてまとめて買いにいく。(買い物は効率よく動く)
 ③使用頻度の低い物に対しては、とやかく考えたりせず、思い出にも引っ張られたりせずに、ゴミ袋にどんどん捨てていくこと、その覚悟を持つこと。
 どうせたいした思い出など僕にはないだろう、自分に厳しく。
 ④細かい物のひとつひとつを、使い勝手をよく考えて分類、出し入れしやすいように丁寧にしまっていくこと。その際、どこに何を入れたかを全部日記なりメモ帳なりに記録していったほうがいいかもしれない?
 ⑤洋服などはすべて写真に収めてファイルにしたほうがいいかもしれない?
 ⑥ホコリをかぶっているものに関して、洗える物は洗う。洗えない物は、ぞうきん、もしくはアルコール除菌のウェットティッシュで拭いていくこと。
 とりあえずこの6点をクリアすると考えれば部屋は片づくはずだ。
 アルモドバルの映画に出てくる登場人物の部屋みたいに色に囲まれた感じにも憧れるけど、そうすると家具などを総入れ替えしなくてはいけなくなりそうだから、予算的に厳しいだろう。穏やかでいられるような空間を目指したいのでベージュを基調にするのもいいが、清潔感が出るような若草色や淡い水色なんかもいいだろう。白を基調に若草色や淡い水色で彩る、というのがいいかもしれない。
 僕には好きな色がこれといってないことに気づく。柔らかな桃色なんか、落ち着けそうだけど、ちょっと女性的だろうか。桃色のカーテンに魅せられて下着泥棒が狙いを定める、しかし、待てど暮らせど吊るされているのは、しなびたオヤジの下着ばかり。僕は、肥えた妄想のやり場を失い怒りを露わにした下着泥棒からなんらかのいやがらせを受けることになる。
 カーテンと言えば、安部あべ公房こうぼうの小説に、たしかレモン色のカーテンという表現があったはず。あれは、なんの小説だったか。『燃えつきた地図』だったか、『箱男』だったかもしれない。
 黄色は風水的に金運アップというのを聞いたことがある。カーテンに取り入れても効果があるのだろうか。

 風水の本を買うために、本屋に行ってきた。風水の本は買えなかった。
 僕はうっかり手から本を落としてしまった。すばやくキャッチできず、床に落ちた。慌てて変な動きを見せた僕に嘲笑うような視線を向けた若い男がいた。全体の雰囲気も、やけに要領を得た感じで、ビジュアル的に優れているから、平気でそういう態度に出る。後から来て男の服のスソにつかまったあの小柄な女、彼女もどうせ見かけだおしで、ろくでもない考えの持ち主に違いない。カフカの『変身』なんか手に持っていたけど、あの女にあの主人公の気持ちなんか分からないだろう。
 彼らが去るのを待ってから、本をよく確認してみると、派手に落ちたわりには、表紙にかけられていた帯の内側がちょっと折れてしまっている程度の損傷で済んでいた、奇跡。丁寧に直して、本棚の元の位置に戻した。
 だってそれは風水の本でなく、その近くにあってちょっと気になっただけの夢占いの本だったから。仕方ない。帯だし、内側だし、破れたわけじゃない。セーフだろう。部屋を片づけようと思っている人間が不要な本を、しかもあんなに分厚い本を、3,000円近くも出して買うわけにはいかないのだ。
 見えるところに店員はいなかったけど、防犯カメラでこの後の僕の対処をじっと窺っているかもしれないということに気づいてしまってからはダメだった。せめて目的の本を買うことで少しでも売り上げに貢献すべきだと分かってはいたが、風水の本はあまりにも種類が多く、腰のあたりはもぞもぞ落ち着かないし、汗は大量に出てくるし、もうどれがいいか判断できる余裕などどこにもなくて、僕は店から出た。
 僕は、やっぱり責任を持って買うべきだったのだろうか。どうせ夢をよく見るのだから買ってもよかったかもしれない。でも今は、部屋を片づけたい。読む時間も、置く場所もない。だから、仕方ない。
 疲れてしまった。部屋の片づけは風水の本を購入後、始めることにする。つまり、来週に延期された。今日は明日の治療の予習をやって、早めに寝ることにする。

 今日は2時間以上かかる治療が2つも入っていたので疲れた。
 原口たちは朝から金曜日の飲み会の話で盛り上がっていたけど、何がそんなに楽しかったのだろう。参加者は、原口と青井あおいくん、山根やまね、小山田、川西かわにし、といったところか。僕の悪口でも言って盛り上がったのかもしれない。
 今日、鍋島なべしまりょうさんの紹介で新規の患者さんが来てくれた。葉山はやま典子のりこさん。たぶん、鍋島さんの恋人だと思う。ちょっと神経質そうな人だったけど鍋島さんには少しとぼけたようなところがあるのでバランスの良い2人なのだろう。
 葉山さんは、8番を抜きたいとのことでの来院だったが、セラミックの冠が被せてある右下6番の根の先にうみが溜まっていたのでその治療を先にすることとなった。

 人間は無駄に脳を使い、そして、そのせいで自滅する運命なのかもしれない。
 実は、僕はここのところ暗いことばかり考えている。僕は考え過ぎている。

 いつからか僕の日記帳は、下水池となった。怒り、憎しみ、不満、不安、どうしてもそんな負の感情ばかり書くことになる。そもそもは、悩みや心のモヤモヤを整理整頓させて明日をより良く迎えるために始めたはずなのに、僕にはそれがうまくできない。ここに負の感情を吐き出しても楽になることはなく、気持ちも整わないまま、いっこうに浄化への一途をたどる兆しなし。かえって気持ちをたかぶらせ、頭に焼きつけて、明日を不安にさせている。
 溜まりに溜まった負の感情は、臓器に影響を及ぼす。血液によって体内をめぐる。僕の毛穴から、また、穴という穴から、出口を求めて下水の臭いがこぼれ出る。僕の汗は感情の下水だ。感情を浄化させれば、汗も変わる。赤ん坊のように甘い匂いの澄んだ汗が流れる。
 新しいノートになったことだし、まずは、嫌なことがあった分だけ、それを覆す前向きな考えを書くという努力から始めてみてはどうだろう。そうすれば、前向きに物事を考えるという思考回路が身につくのではないだろうか。新鮮で清々しい風が入ってくる。体が軽くなり、爽やかな清涼感が皮膚に漂う。希望に向かって走る、新しいノートから始まる新しい僕。
 だから、今日あったことは書かない。人生には、色々あるし。
 いちいち気にしていたら身が持たない。気にしない。気にしないが、気にしないでおこうと思えば思うほど気になる。無視できない感情だと気づく。心底、嫌な気分だ。やるせない。僕が神経質過ぎるのか?
 平気で人を傷つけたりできる奴は、自分が同じ目にあっても傷つかないというのか。そんなことはないはずだ。自分のことしか考えられていないからああやって刃物のような行動や言葉が出せるんだ。悪意がないなどとは言わせないよ。
 こういうのをやめようと決めたのに、結局書いてしまった。前向きとはなんだ?
 僕は、もっと鈍感になるべきだ。傷つけられても、くすぐったいよ、と笑いたい。大らかになりたい。
 あんな奴のことを気にしてどうなる? そう、どうにもならない。自分が自由に立ちまわれなくなるだけ。心を縛られるだけ。気にしないことほど最強の武器はない。あんな奴、どうでもいい存在なのだ。僕はもっと自分に自信を持てばいい。僕は他者に害を与えるような悪いこと何もしてない。一介の若造新人歯科助手なんかに負けてはいけない。
 誰からもよく思われたいなどという願望を心のどこかで未だ抱いているから変なことになる。無理をして変なふうに媚びたりするから、どんどんおかしなことになっていくのだ。もっと自分らしくしていればいい。大らかでいることだ。そうすれば明るい気持ちでいられるだろう。人の顔色も気にせずにいられる。
 次の週末で、今度こそ部屋の片づけを終わらせる。汚い部屋は負の温床だ。

 帰り、駅のホームで青井くんと遭遇。油断していた。「お疲れ」と挨拶を済ませたのにもう一度会う、最悪のシチュエーション。気づかないフリを決め込むはずが、うっかり目が合った。そしたら青井くんはわざわざウォークマンのイヤフォンを外し、接近してきた。「あっ、同じ電車ですね。お疲れさまです」と言われ、「うん、お疲れ」と返すと僕は話すことがまったく浮かばず、ただそわそわと電車を待ったが、こういう時に限って電車はなかなか来てくれない。急いでいる時に、信号はすぐ青にならない。エレベーターはすぐ来ない。探しものは、探している時にはみつからない。これだけはと願うことは、叶わない。それが僕の人生だ。
 青井くんは、沈黙を破った、軽やかに。だいたいこういう感じで僕と2人きりになってしまうと皆、僕がかもし出す異様な緊張を感じ取ってか、居心地悪そうな仕草を見せるのに、彼はまったくただの凜とした、いつもの、つるんとした綺麗な顔の青井くんであった。
 彼は、やっぱり何かが違う。世渡り上手とは、ああいう人間を言うのだろう。彼みたいな人は将来きっと、大物になる。院長より顔も良く、服のセンスだって上だ。歯科医としての腕も、油断していたら僕なんか越されてしまう。今はまだ、まあ、青井くんのほうがスマートで患者さんウケが良かったとしたってさすがに技術は、断然僕のほうが上と言い切れる。だけど、努力しなければ越されるだろう。あっという間だ。
 青井くんは、僕の出勤時間について訊いてきた。「いつも早いですよね」と言う彼に、「うん、早いよ」と答えてしまったら、また沈黙になりそうで、考えた僕は、事情を説明することにして、「満員電車が苦手だから、混雑時を避けてるんです」と、馬鹿をやった。答えに遅れて焦っていたし、緊張して、後輩相手に情けない。ほぼひとまわりも年下なのに。自分のペースでゆっくり喋ればいいんだよ。「朝の誰もいないクリニックは勉強するにもいいからね」と付け加えてみたけど、「です」と言ってしまった事実はもうどうしたって誤魔化しようがないから、僕はこのまま会話を続けていく自信をなくした。
 青井くんは、「偉いですね」と言ってくれた。朝早くに出勤して勉強していることが「偉い」って。目上の人間に「偉い」という言い方はどうかとも思うけど、だけど嬉しかった。彼は僕のこと、尊敬できる人間と少しは思ってくれているのだろうか。ない。彼はきっと僕を変だと思っている。きっと明日からはもっと敬遠されるに違いない。車内が、こういう時に限ってけっこう混んでいたものだから、青井くんと凄く顔が近くなってしまって、だから急いでカバンの中のミントを探したけど、見つからないから焦ってしまって、そしたら汗が噴き出した。カバンがぐちゃぐちゃになって、僕もぐちゃぐちゃになった。叫んでしまいたいくらいの限界だった。だから、「ちょっと寄っていくところがあるから」と噓をついて電車を降りた。
 急に変な角度を向いて小さくそんなことを言った僕は、たぶん相当不自然だったのだと思う。「あっ、そうですか、ではまた明日」と言った時の青井くんはちょっと変な顔をしていた。
 口のにおいぐらい開き直ってもよかったのではないか。結果、感情の下水まで撒き散らすことになって最悪だ。だけど、歯科医として彼に軽蔑されたくない。「うしょくがね、ちょっとほったらかしにしているのがあるんだ」なんてこと、言ったらどうなるだろう。青井くんのことだから、「僕、診ましょうか?」なんて言ってくれたりして、でもそれは大変に困る。
 ホームのベンチで落ち着いて探したら、ミントはあっさり出てきた。どうせ、あの場でスムーズに見つかっていたとして、その後の会話が盛りあがったかどうかは分からない。短く無意味な会話の羅列にしかならず、彼を退屈させてしまう自分に耐えられなくなっていたかもしれない。そうなったら下水はもっと大量に放出されただろうし、だから結果オーライかもしれない。わずかな違和感を残すに留めたのだから。
 次またこうやって青井くんと2人きりになってしまった時には、今度は僕からも何か話ができるようにしなければならない。
 なぜ前のクリニックを辞めたのかを訊いてみるのはどうだろう。それなりに会話が続きそうな気がする。あとは、たとえば、耳にイヤフォンをさしているからといって安易に「青井くんは普段、どんな曲を聴いているの?」などと口にするのだけは絶対によそう。「ホニャララです。ススメ先生もご存知ですか?」なんてことを言われて、「いやぁ、知らないなあ」と僕が答えて、会話はそれで終了してしまう。それならまだしも、青井くんが頑張ってくれて、「結構いいですよ。聴いてみます?」なんて続けてきたら、僕はきっと、「ううん、大丈夫。今度ゆっくり聴かせてよ」とか「今度CDを貸してよ」って答えてしまう。そして、そのまま青井くんがCDを持ってくる日は訪れない。それから僕は〝ああ、あの会話はやっぱりただ間を埋めるためだけのもので、青井くんはもう僕にCDを貸すと言ったことすら忘れてしまったんだな〟なんて、別にそのCDを聴きたかったわけでもないのに、つまらない被害妄想に苦しめられて、青井くんにとっての僕の存在意義とか考えてしまうんだ。
 でも、僕はその場で、「うん、聴いてみたい。聴かせて」とは言えない。瞬時に感想を言わなければならなくなる。何も感想が浮かばないのに青井くんから良く思われたくてなんとか気の利いたことを言おうとして、こんがらがっちゃったり、または、いい曲だと本気で感じているのにそれを上手く表現できなくて誤解させてしまったり、そういうのが、わずらわしい。
 僕が自分でも不思議なのは、本人を前に褒めるだとか慰めるみたいな類のことをしようとすると、変なところに妙な力が入って噓っぽくなってしまうところだ。お世辞を言うのが下手くそなのはもちろんのこと、本当に思っていることを言うだけなのにわざとらしくなって、言葉も顔も硬くなる。すると、そうなっている自分に意識が集中してしまい、途中から何を言っているのか、結局何が言いたかったのか、どんどん分からなくなっていく。
 感想などの類は、伝えることの上手い下手があるだろうに、それでこちらの感性をジャッジされるのかと思うと、そういうシチュエーション自体を避けたくなる。感情を表現するのはどうしてこんなにも難しいのだろうか。胸の内をそのまま引っ張り出して相手に見せることができたならいいのに。
 それで最悪なのは、「今度、聴かせて」とその場を断ってもまだ青井くんが、「あとは、有名なのだと、ナントカカントカなんかも聴きますねぇ」などとしつこく自分の聴く曲を紹介してくれた場合だ。僕にレベルを合わせてくれたのにそのミュージシャンさえも知らなかったら、「じゃあススメ先生はどんなの聴くんですか?」なんて苛立たしげに質問されて、その場で思いつく人を適当に答えたらさらに「あ、僕も好きです。アノ曲なんていいですよね」なんて言われて、僕はその曲を知らなくて、好きだって言ってしまった手前その曲を知らないとは言えなくて、だから頑張って合わせるけど、どうせどこかで咬み合わなくなって、「こいつ、知ったかぶりしてんな」って思われて、そして、しらける。彼の中で僕は、とことんつまらない残念な人に認定されるのだ。
 だからイヤフォンに触れてはならない。

 風水の本、棚2列に渡ってぎっしりと並べられていて絞りきれず、2冊買った。1冊と決めていたのに、この決断力のなさ。前回、手から落として帯を折ってしまったあの夢占いの本まで買った。今の本棚で収まるよう本を取捨選択すると決めたばかりなのに。スマートに生きられない自分がイヤになる。本棚をもうひとつ買うことになるのかもしれない。
 本屋で長時間立ち読みができる人、うらやましい。僕は、電車の中でだってあれだけ理解力が落ちてなかなか次の行へと進めないのに、特有のあの静けさの中では余計に周りが気になって、自分だけの世界に入り込むのは難しい。今日は1時間以上も滞在して、2冊に絞り込んだだけ頑張ったほうだ。
 それでも本屋の前を通ると吸い込まれるように中に入ってしまうというのは、どうやら、仕事帰りにふらりと本屋に立ち寄るという行為そのものにどこか酔っているところがあるらしい。本棚はおそらくもうひとつ買うことになるだろう。それでいい。
 見かけない中年の男が僕のレジを担当した。彼が数回鼻をスンスンさせたのが気になった。実際僕は、だいぶ汗をかいてしまっていた。もしその行動に意味がないのならば、接客中にあんな無愛想な顔で鼻をスンスンさせるのは慎んでほしい。鼻水が垂れてしまいそうなのだったら構わない、しかし彼の音は、乾いていた。
 へとへとだったけどツタヤまで足を延ばし、CDを借りた。店員のコメントがついていたものの中から邦楽と洋楽2枚ずつ。部屋の片づけをしながら聴いてみようと思う。
 磯田いそだ直美なおみさん、今日でひとまず治療が終わり。患者記録帳を整理したら、さっそく、風水の本を開いてみたい。まずは、『あなたにも風水・片づけで人生がおどりだす』から先に読むのが良いのではないかと思う。

 

今日やること


 ①まずは右側のカーテンを洗濯機に入れ、その制限時間の中で不要な物や長いこと使っていない物をスピーディーにゴミ袋へと入れていく。
 ②右側のカーテンをベランダに干す。
 本当はこの流れで左側のカーテンも洗濯したいところだけど、カーテン2枚を干すスペースがないから左側のカーテンは、明日。レースのカーテンは来週になるだろう。
 ③捨てていく作業が洗濯中に終わらなかった場合、つづきを行う。そして、目についたホコリはその都度、ハンディで吸い、雑巾か除菌のウェットティッシュで拭く。
 ④カーテンが乾いてきたら、程よいところでアイロンをかける。

 風水の本のおかげでかなりやる気になっている。運気が低下していくだとかトラブルのもとだなんて、はっきり言われてしまったからにはもうこのままではいられない。
 この部屋の場合、運気を上げるための模様替えなんていうのはまだ先のステージであり、とりあえず〝最低限片づいている状態であるのは当たり前〟なわけだから、この焦りが胸にあるうちに勢いで動く。
 不要なもの=のぼれる運気に蓋をするもの、であるわけで、そんなものは素早く排除だ。ホコリや汚れも取って、まずは部屋を清潔な状態にすること。今日はノンストップでテキパキと頑張る。

 もう2時。夜食にピザトーストを作って食べた。とても眠いし、疲れているが、気分がいい。右側のカーテンだけものすごくキレイだ。左と見比べると、いかにホコリが付着していたかが分かる。そして清潔な匂いがするのが良い。早く左側のカーテンもキレイにしたい。レースも。
 チラシ類が、やたら多すぎてイヤになる。電化製品などのカタログだとか、商品説明の紙、最新映画の広告、駅に置いてあるフリーペーパー、家でゆっくり読もうなんて思って持ち帰るけど、なかなか読まず溜まっていく。この癖を、なんとかしたい。ゴミ袋へそのまま捨ててしまえば楽なのは分かっているけれど、チラと読み始めると、この先なにかと役立ちそうな情報だったり、覚えておきたいことなどがあったりして、そんなわけだから、そういった部分をなるべく厳選しつつ切り取ってひとまとめに紙袋に入れた。この作業に結構な時間を取られた。今日だいぶ頑張ったのにまだ半分以上も残っている。滅入る。こういうのはどちらかというと、休日にまとめてやるよりは、夜とかにちょこちょこ時間を見つけて根気よく進めていくほうが良さそうだ。そして、うまいことジャンル分けして、綺麗に見やすくファイリングしていけたらいいだろう。
 今後、チラシなどを持って帰ってきてしまったときは、その日のうちに目を通し、役立つ情報があればファイルへ、目を通せなかった場合は時間切れということで潔く捨てる、という厳しいルールでいく。
 あと、昨日借りた洋楽のFiona Appleという人の曲がなかなかカッコよくて気に入った。店員のおすすめコメントに身をゆだねて借りてみたけど、有名な人なのだろうか。あんまり有名じゃないといいなあ。青井くんが知らなかったら教えてあげたい。今度この人の別のアルバムを買ってみよう。
 明日も頑張れ自分。

 今日、川西さんが鼻に手を添えた。僕はマスクをしている気でいて、うっかり間近で話してしまった。慌ててマスクをしてからも、何度か鼻に手が運ばれていたので、におっていたのは体のほうだったかも。もしかしたら自分自身の鼻毛か何かを気にしていただけかもしれない。けど彼女のことだから、「いまさらマスクされたって、もう鼻にこびりついて、くっさーい」っていうのを僕に伝えたくてやったのかも。
 帰りの電車でも、隣の若い男が何度か鼻をいじり、せき払いもした。僕をちらちら見ていたようにも思う。最近においのケアに油断が出ている。このあいだの青井くんの件もあったというのに、ダメだ。別のことに気を取られ過ぎているからだ。今日のことはとてもまずかった。よりによって彼女に。帰りに薬局に寄り、汗ふきシートを3パック購入。早く右下6番を取っ払いたい。

 首藤しゅとう和成かずなりさんが定期検診に来た。シンガポールから先週帰って来たそうだ。でも来月また、香港に行かなければならないのだそう。あれだけ忙しくしているのに、相変わらずプラークコントロールが良好で美しい口腔内であった。そして、僕の意識を高めてくれるあの、同じ人間なのに、顔だって決して整っているとは言えないし、イグアナに似ているのに、あの雰囲気、眩しいほどの清潔感。なぜあのように僕はなれないのか。なにが違うのか。彼には、物腰の柔らかさ、品があって、それでいてクールな印象がある。あの綺麗な着こなしも、つまりそれが服のセンスということなのだろうけど、それが彼の雰囲気をより特別なものにしている気がする。今日着ていたベージュの、あれはセーターというよりは、カットソーだとかニットだとかいうのか、とにかくセーターと呼ぶには薄手で編み目の細かいあれ。似合っていた。絶妙な明るさのベージュで、それがまた優しさとか華やかさみたいなものを演出している。ふんわりいい匂いもする。本当にずるい。いつもどこで服を買っているのだろう。なんの洗剤を使ったらあんなにいい匂いが出るのだろう。
 初期う蝕にならないかな。こんなこと考えてはならない。でも彼が、う蝕にでもなったとして、そしたらもう少し長い時間、観察して、彼を魅力的にしているより具体的な要因を見つけ出すこともできるだろう。そしてそれをそのまま真似るのだ。僕はあんな男になりたいのだということを今日、改めて強く感じた。僕の目標は彼だ。
 今の僕は、いつも不自然な態度で人を困惑させて、そんなだから上品さもないだろう。人に媚びるし、ちっとも爽やかじゃない、臭いかもしれなくて、自分にどんな服が似合うのかも分からない、今日はもしかしてオシャレな感じに仕上がっているのではなかろうかと思って無駄に私服でウロウロしてみても、誰からも何も言われずに終わる。そもそも服が似合わないのだろう。首藤さんになりたい。

 今日の昼休み、北さんのお弁当に入っていた春巻きがおいしそうで、食べたくなってしまった。帰りにスーパーらららの総菜コーナーで春巻きとエビチリと春雨サラダを選んだら、久しぶりに紹興酒なんていいかなと思い、買ってみた。酒が並ぶ棚の隅に紹興酒はあって、ホコリをかぶっていた。
 僕にとっての紹興酒、昔に一度、横浜の中華街でケンちゃんと飲んだ。あの日は、楽しかった。久しぶりに飲むと、正直、こんな味だったっけ、という感じだ。でも、コップ1杯飲んだだけだったけど、久しぶりのアルコールだったせいかなんだかいい気分で、とても眠たくなっている。たまにはこういうのもいい。

 なぜ僕は沈黙を恐れずにいられないのか、起きてからずっと考えている。
 相手を退屈させてしまう、それが恐い。いやつまり、退屈なやつだと思われること、相手が僕といることで苦痛を覚えることに耐えられない、そうだろう。
 人に有意義な時間を提供できる自分を、夢見ている。こんなこと人に知られたら笑われるかもしれないが、面白い人だと思われたい。ススメといると楽しい、みんなからそんなふうに思ってもらえる自分に進化できる日がいつか来る、そういう思いが、なぜかどうしても捨てられない。だけど、誰かと2人になるようなことがあればやはり毎度のように沈黙は訪れて、実際のキャパシティーを思い知らされる。「あの人と話してもつまらない」認めたくなくても僕はきっとそう思われているという自覚がある。だからこそ沈黙が起こりそうな気配を感じ取ると、なんとかしなきゃって、混乱して、変なことを言ってしまったり、緊張で声が小さくなるから訊き返されたりなんかもして、でも緊張がバレたくないから必死に格好つけようとしたり、しっかりしろよって、自分をさらに追いつめることになって、頭は凄いうるさいことになっているのに、口はまったく開かなくて、どんどん気まずい空気になって、相手の表情を見ることに耐えられなくなって逃亡。そこからは、苦痛や不快感を与えてしまっただろうという不安が何日間も僕を支配する。
 誰だって盛り上がらない会話をしてしまうことなんかある。そんなもんだ、よっぽどのサービス精神と話術の持ち主でない限りは。僕も高い理想は捨てるから、せめて人並みではありたい。その中で、時には誰かに笑って欲しい。
 この僕も、交友関係が広かったり、もっと経験豊かな人生を過ごしていれば、自然とそういうことが上手な人間になっていたのだろうか。それとも、こういったことというのは単純に生まれ持った性質が大きく関係しているのだろうか。
 どんなことでもいいから質問を投げかける、その後のことはどうなってもかまわない、そう考えれば容易いはずだ。だけどうっかり無神経なことを言って相手を傷つけたくない。だから無難に些細なことを訊く、だけどそんなのって、くだらない、そうだ、僕はどこかでそんな無駄なやりとりはくだらないと思ってきたんだ、たとえば、電車の中で聞こえてくる、お決まりの、盛りあがりのない、時間潰しでしかないような会話を、どこか見下している。だから僕は高度な話題を、分不相応にも見つけ出そうなんてする。そんなもの僕の中から出てくるはずもないのに。
 だったらいっそ、最初から黙っているほうが、楽だし格好もつくのではないか。開き直って、寡黙。相手に気を遣わせるぐらいに堂々と、黙っている。必要なのは勇気だろ。
 沈黙を受け入れる。沈黙に慣れてしまえばいい。いいのか? 理想に向かって努力することをあきらめてしまったら、僕は社会性を一切失ってしまう気がする。
 無意義な会話だっていいじゃないか、沈黙より絶対いいよ。くだらなかろうといい、どんな些細なことでも質問して会話を続けてみるべきだ、途切れないことを目標に。だいたい本当に僕は無意義な会話をする人たちを見下したりなんかしているのだろうか。たとえ無意義でも続けられるというのは、本当は凄いことなんじゃないの?
 僕に対して相手が意味のない質問で沈黙を埋めようとする時、僕は、自分を責める。僕に興味がないから話したいことなんて本当はこれといってないのに、気を遣ってくれている、それが申し訳ない。沈黙を埋めようとこんな僕に対して努力してくれるだけその人は優しいってことで、ありがたい。
 もしかしたら僕が、他者に興味を抱く能力というのが、ひょっとして人より劣っているのか? 相手に対し純粋な関心を持てないという欠陥。そうなのかもしれない。なぜ持てない?
 寿々音すずねがよく僕に言っていた「プライドが高い」というのも、僕のこういったところが、そのように感じさせてしまっていたのかもしれない。
 他者に関心を持てない、僕がそういった人間であるとして、でもそれは、こんな自分だから自分のことで精一杯になってしまって、そこに気持ちが集中してしまい、余裕がなくなっているってだけじゃないのかな。
 かまってもらいたい、良く評価されたい、そういった欲求はたしかに強い。でも他者に関心があるからこそ良く思われたいと願うんじゃないのか。自分をどう思ってくれるのか、ということでしか相手を見ない、僕は他者を自分の欲求を満たすための対象でしかないと考えているのだろうか、そんな傲慢で愚かな淋しい人間なんだろうか。寿々音ともう一度話したくなった。僕を責める時に言っていたことがいったいどういう意味だったのか、もう一度ちゃんと訊きたい。今だったらあの時よりもうちょっと理解できるような気がする。ボロッカスに言われても、ムキになって言い返したりせずに、彼女の主張を、僕への助言を、素直に理解しようとすることができるような気がする。
 時間潰しでやっているようなどうでもいい会話のやりとりを、案外みんなは楽しんでいるのかもしれない。僕がひねくれた、他者に愛情の持てない、愚かで、つまらない人間だから、会話を純粋に楽しむことができないだけなのかもしれない。会話をすることは、相手を知ること。知ろうとするから自然と会話が生まれる。それは決してくだらない事なんかではない。大切な時間であり、素敵な行為だ。
 僕は、会話はしなければならないものだと思っていただろう。したいものではなく、しなければならないものと。
 たしかに僕は、人間が苦手だ。でもそう思っているのは僕ばかりではないはずだ。人間嫌いでも話の上手な人はいるだろうし、人見知りだなんて言っておいて充分に人当たりが良く、そんなやつに限ってやたら雰囲気が魅力的だったりするんだどうせ。青井くんなんかまさにそのタイプに違いない。
 関心がなかったり小馬鹿にしているような相手とも上手に会話する人や、会話を得意としているような、つまり喋るのが好きだったり、自信に溢れた社交能力が高い人間だとか、そういった人たちが世の中には結構大勢いるだろう。それはたとえば原口のように、上手くやる奴はいる。そういう器用さを持って生まれたかった。根っこから明るく生まれたかった。
 ちゃんと仲良くなりたいんだ僕だってみんなと。周りを思いやれる人間になりたいって思うし、みんなのこともっと知ることで、好きになれるなら、最高だ。特に青井くんなんかとは、もっと仲良くなりたいと思っている。今のところ彼はこれといって誰かと特別に親しくしているという様子は見られない。原口に対しても少し距離を取っているように見える。もちろん僕に対しても青井くんはなんの興味もないだろう。
 青井くんは、他者に興味を持たない。いや実際のところは分からないが、そう見える。僕が他者に興味を持てない人間だとして、しかし、この「持たない」と「持てない」では、きっとだいぶ違う。このままではいけない。
 たとえば、僕は青井くんに興味を持ってもらえるようになりたい。であるなら、まずは僕が周りのみんなに対しちゃんと興味を抱くことだ。もっと積極的に質問をぶつけてみて、相手を知る努力をする。

 ここに、みんなの気になるところを書き出してみる。
 まず院長に対して、以前から気になっていたことがある。それはあの気の強い奥様のことだ。そういえば最近クリニックに来てないけど、それも気になるところだが、そもそもなんであんな人と結婚したのか。院長が、なぜあの人なのか。どんな出逢いで、なぜ結婚を決めたのか。これといって色気があるようにも、美人にも見えないし、あえて言うなら才女だからだろうか。人の女房を悪く言いたくはないが、頭が良いのならもう少し僕らが好意を抱けるような態度でクリニックにいらしてくれてもいいんじゃないか、という気がするんだが。家であの2人はどんな会話をして、どんなふうに過ごしているのだろう。
 僕は院長と、これまでほとんど雑談らしい雑談をした記憶がない。僕以外の人とは結構しているのに。黙って僕を見る院長は、何を考えているのか。治療に時間をかけるし、気弱で根性なしで、瞬発力がないから使えない、怠け者だし、話しづらくて可愛げもない。僕のこと、きっとそんなふうに思ってる。
 院長は、分からない。あの人から無意識というのを感じたことがない。いつだって準備の整った顔をしている。だから恐い。心のどこかが、完全に冷えきっているのかもしれない。
 業務上のことですら質問しづらいのに院長に私的な質問をしてみるなんてこと、これからもまずできないだろう。
 こんなこと絶対に訊けるわけないけど、「院長はこのクリニックにどんなドクターがいることが理想的だと思っているのですか?」というのは、とても知りたいことだ。
 うちのスタッフの中で院長の理想に一番応えられているのは、やはりそこは、星川ほしかわさんなのではなかろうか。星川さんの徹底した美意識には、感心する。彼女のテリトリーである受付まわりはいつも整っている。なんといっても彼女自身がとても整っている。引き締まった体と、綺麗にひかれたあの眉毛。つやつやとした肌は、年齢を感じさせない。32歳と噓言ったって充分通用する。受付に座る彼女のおかげでうちのクリニックには上品な印象があるだろう。裏で一体どんな努力をしているのか。家の中でも、たとえば、ストレッチをしながら歯を磨いたりなんかしているのだろうか。ソファーにさえも常に正しい姿勢で腰かける。美しく整った部屋は、いい匂いがして、それは、院長の好む匂いなのだ。院長との関係は、どうやって自分を納得させているのか。いつも大人の星川さんでも人知れず淋しさに泣くこともあるのだろうか。僕に何かできることがあるだろうか。お酒に付き合って話を聞いてあげるくらいならできるかもしれないけど、僕が相手じゃ不足だろう。なんのアドバイスも慰めも言えない。どうせ彼女は、院長のことをクリニック内の誰かに軽率に話したりするような女じゃない。
 こんな、本人に訊けないようなことばかりを書き出して何になる。川西じゃあるまいし、僕はデリカシーのない好奇心で相手を汚したいわけではない。こんなことに興味を抱くべきではない。イタズラに引っぱり出すことはいけないことだ。
 いまの僕に、相手を楽しませることのできる質問を考えるのは難易度が高くても、せめて退屈させない質問を備えておくのがいい。しかし、星川さんみたいな人を退屈させないというのは、それもなかなか、何を訊いても丁寧に答えてくれるような人だけど、それじゃあただ気を遣わせるだけだ。受付つながりで先に北さんについて考える。
 北さんには、食べ物についてのあれこれを訊いてみるというのはどうだろう。あの人、結婚しているから。
「冷凍したご飯ってどれくらいまで、もつものなんですかね? というのは、けっこう前に冷凍したと思われるご飯が奥から出てきてしまったんですけど、見た目にはこれといって危険な様子は感じられないんですけど、どうでしょうか」「白米?」「ええ、炊いた白米」「そうですね……」と、北さんの見解が語られる、といった具合に展開してくれるだろうか。
 僕は、食べ物にまつわる素朴な疑問なら結構持っているから、あの無口な北さんとも会話ができる気がしてきた。北さんに対する興味とはちょっと違うことになっているが、気軽に会話できるようになれば、今より北さんのことも分かるだろう。これからは、部屋の掃除の際に発生する疑問だったり料理のことなんかを相談してみる。なぜ今まで気づかなかったのだろう。こんな手があったのに。
 衛生士さんたちは、田端たばたさんから。でも、あの人とはわりといつも構えずに話せている。人の噂や悪口が大好物のくせに平気な顔で誰にでも愛想よく接する姿には、圧倒されるけど、でも、そのぶん話しやすいというのは、あの人のいいところでもある。あの調子だから僕なんか裏で何を言われているか分かったもんじゃないけれど、それでもその愛想のよさに救われる時もあるから。山根とか川西とかみたいに露骨に態度に出してくるよりは、ずっといい。
 じゃあその山根だが、沈黙で結構。このまま原口にボロボロにされるがいい。彼女が泣き崩れていようと僕は声をかけない。
 次、郡司ぐんじさんは「最近、何かあった? 大丈夫ですか?」
 訊けないかな。いきなりそんなこと言ったらビックリされてしまう。気持ち悪いって思われるかもしれない。だけど最近の郡司さんは絶対に何か変だ。だって、ウップンみたいなものを宿らせて目が窮屈そうだ。あの人は派手顔のくせしてたぶん生真面目だから、ああいう人は、誰にも愚痴などこぼさず、弱音も吐かず、恋人がいたとしてもその人の前でも無理をして、友達の前でも無理をして、思うことを、苛立ちなんかも、素直に相手に見せることができずに、もう我慢して我慢して、ある日突然、張りつめたものがボカン。ダメだよ。
 だけどうっかり「頑張り過ぎちゃダメだよ」なんて言ってしまったらきっと、「おまえはもっと頑張れよ」って言わないにしたって、思われる気がする。
「日記はいいよ」と勧めてあげたいけど、それも無理だ、僕が日記をやっていることは知られたくないからな。
 彼女が溜め込んだウップンの内、僕がもたらしたものは何%ほど含まれているのだろうか。彼女への接し方だけど、これまで以上に気をつけたいと思う。
 さて、助手のコたちは、
 小山田さんにおいては、何を言っても平気そうだから、今より一歩踏み出すならば、やっぱりちょっとだけ私的なことに突っ込んでみるということになるけど、「小山田さんは恋人いるんだっけ?」なんて言ってしまうのは、口説こうとしているみたいだ。誤解を受けたら、大変なことだ。「先生は?」と訊き返されてしまうリスクもある。そういう話題には、「そういう類の話は秘密」と答えるようにしているけど、その度に、どうせ裏で笑われていると思う。「何が秘密だよ。どうせ浮いた話なんてないって分かっていて訊いてるのに。バカだよねー」って、みんな笑ってんだ。ダメだ、陰口のネタを自ら提供してどうする。女のコたちって、どうして群れるとあんなに意地が悪くなってしまうのか。人の弱さだとかをわざわざ引っぱり出して面白がったりしちゃダメだ。さっきの僕は、星川さんに、院長にも、これと似たようなことをしてしまったわけだ。

 なんだかいい質問とか、浮かばない。僕はやっぱり、あの人たちのこと、好きになれないのかもしれない。苦痛になってきた。それに考えれば考えるほど、やっぱり彼女たちは僕になんの関心もない、どころか、むしろ嫌っている。
 助手のコたちの続き。
 垣内かきうちさん、彼女に対して積極的に話しかけるのは、気が乗らない。彼女が衛生士になろうとしている理由は知っている。そもそも歯科助手として入ってきた理由は、ドクター目当てのタマノコシ狙いだなんて、裏でみんなに言われているけど、本当の理由を僕は知らないし、それを訊いてみてもいいけど、「垣内さんはなんで歯科クリニックで働こうと思ったの?」と訊いたところでいまさらどうなのか。彼女が今、歯科衛生士の国家資格を取ろうと必死になっているのは、山根や郡司さんに馬鹿にされているのが分かっているから悔しいのだ絶対に。原口も垣内さんに対してどこか冷たいと思えるふしがある。言葉尻もなんだか彼女にだけいつもキツイ気がする。彼女からすれば、そうやって見下されていることを僕とかに同情されたりするのもまた、みじめなのだろう。早く衛生士になって見返してやればいい。
 とはいえ、院長から夕方の出勤でもいいから来てくれなんて言われているご身分なのだそうで、なぜかあの院長には気に入られているようだから、それならば環境としてはそんなに悪くもないだろう。結局のところ院長を味方につけていられるのは大きい。やっぱり垣内さんに訊きたい質問はひとつも見つからない。
「どうして、そんなのどうでもいいじゃないか、というところでさえも、いちいち闘志を燃やしちゃうの?」とか、
「自分以外の女のコが患者さんやドクターにチヤホヤされると、あんなに悔しそうな目で涙ぐむのはなんでなの? ちょっと、あまりにもなんていうか、恐いです」
 言いたい。あのコにそんなふうに言ってみたい。泣くだろうな。悔しそうに泣いて一生懸命反論するのだろう、あの剝き出しの顔で。
 彼女のそういう気持ち、本当は分からないでもない。ただ、あまりにも大げさだ。僕がそう思うくらいだから、それは本当に大げさだよやっぱり。悪いコではないのに。ドクターの事とかを絶対に悪く言わないし、でもそれは、たぶん、いいコだと思われたいからなんだろ?
 話をするとしたら、「専門学校はどう? 楽しい?」とかでいいか。楽しいって言葉はちょっと違うか。
 助手で残るは川西だけど、どうやったらあのコと仲良くなれるのか分からない。他のコたちだって分からないんだけど、あのコは本当にもうまったく分からない。エイリアンだから。
「兄弟とか、いるの?」
「あなたも将来はやっぱり歯科衛生士の国家資格取ろうとか考えてる?」
「旅行とか、よく行くの? やっぱり最近のコは海外なのかい?」
 どう返されるのか、意外と普通に答えてくれるのか。とんでもないことを言われることになるのか。なんで僕がこんなにあのコに怯えなければならない。なんでエイリアンと頑張って会話しようとしているのだろう。
 青井くんには「青井くんは、なんでうちのクリニックに移ってきたの?」の質問が待機している。一番肝心なのは青井くんで、他にも用意しておくべきかもしれない。
 気づいてしまった。この訊き方では、「なんでうちに来ちゃったの? 迷惑なんだよね」という意味を含んでいると彼に思われちゃうかもしれない。声の出し方で回避できるのだろうけど、こうして意識してしまった今、僕のことだから、わざわざ本当に何か意味深なイントネーションで言ってしまう気がする。誤解を受けるような言い方をしてこれ以上イメージをおかしくしたくない。
「青井くんは、なんで、前のクリニックからうちに来たの? まあ、きっかけみたいな意味でということなのだけど」×
 まわりくどいかもしれない。ちゃんと質問の意図は伝わるようにしつつもシンプルというのが望ましい。
「青井くんが、前のクリニックから、うちのクリニックに移ったのはどうして?」×
 最初より変になっている気がする。
「青井くんは、なんでうちに移ったの?」◎?
「青井くんはやっぱり、休日とかは友だちと会ったりするの?」「ああ、そういう日もありますよ」「へえ。青井くんの気の合う友だちっていったら、どんな人?」変な質問だな。

 原口には「原口先生は開業とか考えてないんですか?」がいい。絶対考えていると僕はみている。だから訊いてみたい。どんな顔をするのか見たい。これは、開業して、さっさとここから出ていってほしいという思いを込めて言ってみよう。絶対本当のことなんか教えてくれないだろうけど、表情で真意を読み取ってみせる。
 疲れてしまったから寝る。

 頭が冴えて、寝られない。
 相手を知りたいと思っていても、話したいこと、訊きたいことがあっても、踏み込んではならないことだってあるわけだ。相手との距離を考慮し、訊ける範囲の中から僕が素直に関心の持てることを見つけ出すというのは、なんて難しいんだろう!
 色々悩んだが、僕の場合、会話の内容に困る理由はこの遠慮にあるのかもしれない。他者に興味がないわけではないのだ。ただ相手の上っ面には興味がない、もっと奥深くにある何かが知りたい。だけど、深くまで入り込んでいきたいのならその前に、距離を縮める必要がある。縮めるためには、とにかく話をしないといけない。だからなんでもいいから話をしないといけない。そういうことだ。

 昨日の日記を読み返して、僕は、よけい自分が分からなくなってしまった。いったい、どうしたいのか、僕はやはり、望むばかりの人間なんだろうか。相手から話しかけられたら、それがつまらない内容であっても嬉しいよ。だったら僕だって、つまらないことでも人に話しかければいいはずだけど、僕が話しかけても、喜ばれないだろうって思うから、そうなるとやっぱり相手を退屈させないことを言うしかない。そういうふうに考えてしまうのは、プライドからとかじゃなくて、自分に自信がなさすぎてのことだ。だけどじゃあ、僕自身の中に純粋に、人と話したいという欲求は? あるよ、あるにきまってる。
 人で考えるから複雑になって難しいのかもしれない。道ばたの猫で、猫が言語を理解していると想定して、僕が話しかけられることといったら、
「腹へってるか?」
「エサ、うまいか?」
「おまえ、仲間は、いるのか?」
 ほら、せいぜいこんなものだ。僕は猫を可愛いと思っているから足を止めて、近づいた。猫が僕を警戒しつつも逃げないでくれたら嬉しい。猫はこんなこと訊かれたって、うるさいニャーって思うだろう、だけどどう思われたっていい、さすがの僕だって猫相手に自分をよく見せたいなどとは考えない。それなのに、話しかけられることが、たったの3つ。猫に関心がないわけじゃない。だって可愛いんだから。今どんなことを考えているのかとか、生きるうえで何を強く望んでいるのかとか、どんな食べ物が実際のところ一番好ましいのかとか、まあ、そんなことに本当のところ興味があったりするわけだけど、でも僕は訊かない。だって、訊いても仕方ない。猫が「オレ、大トロが好み。喰いてえなぁ」そんなふうに返してきたところで、僕はその猫に大トロを喰わせてあげられるわけではない。いや、あげられないわけではない、あげようと思わないんだ。わざわざ魚屋に行って、高いお金出して、そんなことはしてやれない。僕のものでもない猫に。
 何を考えているのかとか生きる上での望みとかだって、知りたいと思うけど、だけど実際教えてもらったところで僕にはどうすることもできないし、どうしてあげたいということでもない。なのに訊いてしまったからには、無視できなくなる。「へー」では済まないと思う。ただの好奇心でしたー、っていうのは、無責任というか、失礼というか、まあ、相手も僕に何かをしてもらえるなんてこれっぽっちも期待していないのだろうけど、それでも僕は勝手に苦しみだす。なんだか、ますます人と会話することがおっくうになってきてしまった。余計なことはあまり考えるものではない。

 今朝、小山田さんが来た時、すっかり油断してだらしないポーズを取っていた僕は驚いて、時計を見たら、まだ7時を過ぎたばかりだった。正直、大切な時間を邪魔されて居心地が悪かった。小山田さんも、「おはようございます。ススメ先生って、こんな時間からいるんだ……」と驚いた様子を見せたきり、しばらく何をするでもなくぼーっとユニットに座ったまま黙っていた。僕はカルテに集中しているふりをしていたけど、まだ1時間以上もこうして2人きりでいなければならないのかと思うと、息苦しくなった。「どうしたの?」と訊くべきかこのまま放っておくべきか迷っていたら、小山田さんが立ち上がり「ススメ先生、私、紅茶いれますけど、先生も飲みますか?」と声をかけてきた。僕のカップの中にはコーヒーが残っていて、正直、もう水分要らないという気分だったんだけど、せっかくの厚意を無下にするのはよくないと思って僕は「うん、ありがとう」と答えてしまった。
 小山田さんが紅茶をいれてくれている間、僕は考えた。紅茶を渡されたら、さすがに何か話しかけるべきだろうと。だから、「小山田さんって、恋人いるの?」と訊いてみた。変な意味に取られないよう「そういえばさ」といったニュアンスで僕にしては上手く訊けたつもり。
 小山田さんは、同棲して3年になるカレシがいると教えてくれた。「3年一緒に暮らすってすごいね。もう夫婦みたいなものだね」と言ったら、「そうですねえ……」と歯切れの悪い答えが返ってきた。僕は思い切って「倦怠期?」とたずねた。そしたら小山田さんは、カレシの浮気を疑っているという話をしてくれた。小山田さんが最近ニンニク臭くないわけも、このことが関係しているのかもしれない。たとえば、肉好きのカレシに焼き肉屋へ連れていってもらうことがなくなってしまった。カレシは前日に別の女と焼き肉を食べてしまったから、もしくは明日別の女と焼き肉を食べる約束をしているから、食べたくない。なんだか気の毒な話だ。
 小山田さんが堂々とニンニク臭くいてくれる日、僕は気が休まる。たとえ僕がなんらかの不快なにおいを発していたとしても、ひとりじゃないと思えるのがいい。
 小山田さんはカレシの携帯電話をこっそりチェックしてしまうべきか否かで悩んでいる。実は今日はその誘惑に負けそうだったから、早く家を出てきてしまったのだと告白してくれた。意外だった。小山田さんは、そういうことに関してはなんというか、どちらかというとあっけらかんとしているというか、右に左にとパッパッパって考えを仕分けていくような、そんな感じの人なのかなあと勝手に思っていたから、けっこう繊細な面もあることを知れたのは、よかった。
 親近感が湧いて、「なんで悩むの? 見ちゃえばいいのに」と言ってしまった。見てもし浮気が明らかになったら、そんな男とは別れてしまえばいいだろうと思ったので。だけど小山田さんは「そんな簡単に言わないでくださいよ」としょげてしまった。小山田さんは、男というのはどうせ浮気するものなのだから、まだ隠れてコソコソやっているうちは、自分のほうがその相手よりも大切にされているのだと考えるようにしているらしい。そうだろうか? 「僕は浮気なんてしたことないけどなあ」と言いたかったけど、やめておいた。「そりゃあ、ススメ先生では浮気なんてできないでしょう」なんて思われたらいやだったので。
 でも僕にもしも本当に大切で、本当に大好きだと思える恋人がいたなら、別の人に心揺れたりなんかしないと思うけど、それでも万が一、本当に搔き乱されてしまうほどに素敵な人と出逢ってしまって、しかもその人が僕のことをすごく好きになってくれたら、どうなるだろう。恋人はすごく僕に良くしてくれていて、だから、別れようだなんて簡単に告げられずに、じゃあ諦めようと思っても、誰もが惹かれてしまうほど素敵な人を断ち切ることなど、こんな僕を好きだと言ってくれているのに、僕は本心を隠して、ねじ伏せて、「ごめん、僕、付き合っている人がいるんだ。だから、ごめん」だなんて、言えるのだろうか。どちらかを選ぶなんて、それはとても難しい。どちらの傷つく顔も見たくないから。2人を比べなくてはならないこと自体、つらいだろう。こんな僕を好きでいてくれる貴重な人に、自ら、永遠のサヨナラ、そんなの無理だ、できない。それに、正直、もったいないって、思ってしまう気がするよ。誤魔化しながら2人と付き合う、悪い選択。絶対にバレないように努力する。そんなことは、だんだん耐えられなくなる。二股はいつか知られることとなる。そして、せっかく愛してくれた人に、見損なわれて全て終わり。2人とも僕のもとから去り、またひとりぼっちになる。そんな状況に立たされているわけでもないのに、なんだかものすごく胸が苦しくなってしまった。僕は1人だけを誠心誠意、愛していられる人間でいたい。欲望というものは残酷だ。
「やっぱり携帯電話は見ないほうがいいかもしれないね」と撤回しておいて良かった。「うっかり見てしまったら、相談に乗ってくださいよ」と言われた。嬉しかった。ただの社交辞令だろうけど。もしも相談されたら、どうしようか。恋愛関係にある2人の問題に、僕なんかが、いったいどう意見すれば、無責任にならずに済むのか分からない。


(このつづきは本編でお楽しみください)
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