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試し読み

【小説試し読み】 細田守『未来のミライ』①

それは過去から未来へつながる、家族と命の物語。
細田守監督が書き下ろした
映画「未来のミライ」の原作小説!
映画公開を記念して試し読みを実施いたします。

 ほんの少し昔、磯子いそごの街には、丘の上に横浜プリンスホテルがあり、水色の帯を巻くE209系がガタゴトと音を立てて根岸ねぎし線を走っていた。国道16号を杉田すぎたの交差点から南下し、海洋研究開発機構の建物を横目に青砥あおと山の坂道を上がってしばらく行った先の丘陵の、南側に面した傾斜地には、大きくて立派な家々が競うように肩を並べていた。その肩と肩のあいだに挟まれたような小さな土地に、小さな家が建っていた。小さな家には小さな庭があり、小さな木が生えていた。
 ある日、結婚したばかりの若い夫婦がやって来て、小さな家と小さな庭と小さな木を見てすぐに気に入った。小さくともふたりで暮らすには十分な大きさで、そのうえ傾斜地のため格安だったので、早速契約を交わすと、不動産会社の担当者にカメラを持たせ、小さな家の前に立つ小さな木の前で、並んで写真を撮った。
 彼らは、彼が運転する赤いボルボ240で引越しの荷物を運び込み、新しい生活を始めた。ふたりとも都心で遅くまで働く毎日だったので、休日にゆったりと過ごすことのできるこの家での時間を大切にしていた。本を読んだり、音楽を聴いたり、ちょっとだけ凝った料理を作ったりして過ごした。あるいは何もせず、夕方までただただひたすら眠ったりした。
 総合出版社に勤める彼女は、真面目で責任感が強い完璧主義者。いい本を作るためには欠かせない性質を備えていた。が、裏を返せば神経質で、心配性で、ゆえに人の評価に敏感な性格だった。褒められてもわざわざネガティブに捉えてクヨクヨし、挽回しようと必要以上に頑張りすぎて、さらに疲弊する、という悪循環によく陥った。それでも周囲は、彼女の完璧主義を評価し、また頼りにするので、自分は神経質だと自分で気づきにくくさせた。
 建築事務所に所属する彼は、芸術家肌のマイペース。元来は一人でいることを好んだ。それゆえに独創的で、世間や他人に流されない強さがあったが、悪く言えば頑固で聞く耳を持たず、ある意味鈍感で、興味のあること以外はいい加減で、協調性がなく、空気も読めず、普段は穏やかなくせに自分のペースを乱されると途端に怒りっぽくなり、仕事の締め切り間際にはしょっちゅうピリピリした。と、欠点を挙げ出せばきりがない。
 このように性格的には対照をなしているので、大きなことから取るに足りない些細ささいなことまで、ふたりはよく衝突した。が、それでも別れることなく生活を共にしているのは、性格を超えた相性というか、縁があったからなのだろう。
 ある日突然、彼女が犬を飼いたいと言いだした。クリーム色のイギリス系ミニチュアダックスフントで、ペットショップで目が合って心を射貫かれてしまったのだと言った。彼は生活のペースが変わってしまうことを心配したが、結局、渋々承諾した。その翌週、夫婦の家に子犬がやってきた。赤い首輪をしてたまご形のゴムボールにかじりつく姿は、見ていて飽きることがなかった。その日の成長について、散歩の途中でのちょっとしたアクシデントについて、無防備な寝顔の愛らしさについて、いつまでも時間を忘れて語り合った。まるで子犬の親になったような気分だった。
 彼女が妊娠したのは、結婚から6年目のことだった。
 日に日に大きくなっていく彼女のお腹を、彼は定点観測のように写真に収めた。産婦人科で見せてもらうエコー画像。そのバウムクーヘンを切り取ったみたいな白黒の画面にちょうど収まるように、胎児の大きな頭と小さい体が見えた。足の間に、はっきりと映る男の子の証。心臓がピクピク動いているのを見て、彼の胸もバクバクと高鳴った。これから生まれてくるこの子の将来に、経済的な責任が取れるのだろうか、と。しかしそんな彼の憂鬱を置き去りにするように、彼女のお腹はどんどん張り出していった。彼女は予定通り産休を取り、慌ただしく出産に向けた準備をした。予定日より1週間早く、陣痛がやってきた。申し合わせていたとおり彼女のお母さんが上京してくれた。陣痛を促進させるために、助産師さんの指示で、彼に付き添われて夕暮れの公園をふーふー言いながら歩いた。その7時間半後、彼女は生まれたての赤い顔をした新生児と一緒に自撮り写真に収まり、やり遂げて晴れ晴れとした笑顔を見せた。そばで見守っていた彼女のお母さんは、これであんたもついに親になったんだね、と、長い旅を終えた旅人みたいにつぶやいた。
 出産に立ち会ったあと、彼にやるべき仕事が与えられた。名前をつけることだった。新生児を前に、腕組みしてうなった。事前に用意していたいくつかの名前候補は、目の前の顔と全く合っていないと思えたので、改めて一から考え直すことにした。産院での短い面会時間のあいだに彼女と相談を繰り返し、彼はついに答えを導き出したのだった。
「訓」。
 読みは、くん、と呼ぶ。
 かわいい名前だね、あまりほかにない名前だからみんなに覚えてもらえるかもね、と彼女は同意し、新生児に「くんちゃん」と呼びかけた。彼は半紙に筆で「命名 訓」と書いた。
 アルバムには、彼と彼女のあいだで笑顔をはじけさせる男の子の、1歳ごろの写真が残っている。また、里帰りして病院にひいばあばを見舞った際、ひいじいじに抱かれて写る2歳ごろの姿がある。それらは同じ子のようでいて、決して同じではない。新生児であったものは、あっという間に乳児と呼ばれるものに変わり、そしてまた乳児は、またたく間に幼児と呼ばれるものに変わる。さらに、乳児の間にも無数のステップが存在し、幼児の間にもまた無数の成長の段階がある。子供を「子供」と一口にくくれないほど、目まぐるしく変化してゆく。親はそれら成長の軌跡を、できれば全て覚えていたいと欲するが、日々の出来事に対応するのが精一杯で、ちょっと前はどうであったかなど、驚くほどあっけなく、信じられないほど簡単に忘れ去ってしまう。子供の「今」をあれこれ気にかけ、またあれこれ「未来」を案じるのみだ。
 彼と彼女は、子供が大きくなった時のことを考え、家を建て替えることを決心した。設計は彼がした。小さな庭に小さな木の生えた小さな家の周りに、工事用の足場が組まれた。現場監督にカメラをお願いして、いつかの夏と同じみたいに、並んで写真を撮った。
 おとうさん、おかあさん、ダックス、そして3歳になった男の子。
 このとき男の子は、まだ知らない。
 おかあさんのお腹の中の新しい命を。

(つづきはこちら)
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>>映画「未来のミライ」公式サイト


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