『濱地健三郎の呪える事件簿』「リモート怪異」

残暑を吹き飛ばす“怖いミステリ”。「まさかの結末」が待ち受ける心霊探偵小説! 有栖川有栖『濱地健三郎の呪える事件簿』「リモート怪異」試し読み#3
残暑を吹き飛ばす「心霊の謎」、読んでいきませんか?
「怪と幽」で絶賛連載中の、有栖川有栖さんによる「濱地健三郎シリーズ」。その最新刊の『濱地健三郎の呪える事件簿』から期間限定で「リモート怪異」「呪わしい波」の2話を配信いたします!
リモート怪異(後編)
「この部屋にはおれしかいないよ。えっ、若生さん、どうしたの?」
彼は半笑いだった。わたしがマジなのかふざけているのか判らず、どんなリアクションをしたらいいのか、戸惑っているみたいに。
わたし、ソファの背もたれに掛かった指が動くのをじっと視ていた。フッシーは、ちょっと後ろを振り返って、「何もないけど」。形式的に振り向いただけで、あんなに視線が高かったら視えるはずがない。
指は尺取り虫みたいに這い上がってきて、親指が視えるようになる。ああ、左手なんだ、と思っていたら、次は彼の左側から小さな右手が出てきた。誰かが潜んでいることをフッシーに教えなきゃ。
「ソファの後ろに人が隠れてる。背もたれに両手を掛けてるよ」
上ずった声で言ったら、彼は腰を上げてソファの裏を覗き込む。また半笑いで「誰もいるわけないって」という返事。両手が背もたれに掛かったままなのに。
彼は、座り直して、「若生さん、即興で怪談を創ろうとしてる?」だって。
シエラちゃんは苦笑していた。わたしの冗談が見事にスベった、と思われたみたいで、淋しい気がしたものよ。
指は、するりと引っ込んだ。引っ込むところを確かに視た。
茫然とするわたしに、フッシーとシエラちゃんが呼びかけてきたけれど、応答できなかった。わけが判らず、頭が混乱しちゃったせいで。
「おれを標的に選んだのが失敗だよ」ってフッシーは言う。「どうせなら香芝さんに向かって『後ろに誰かいるよ』とやればよかったのに。そしたら『きゃーっ!』だったよ」
シエラちゃんはシエラちゃんで、「酔いが回ってきましたか?」よ。酔ってる自覚はまったくなかった。いえ、事実、わたしは完全に正気で、酔っ払ったりしてなかったの。
場の空気が白けかけたので、フッシーが温め直そうとした。「そりゃ、まあ、おれは色んなものを背負っている男だけどさ」なんて調子で。
そんな軽口は無駄だった。
彼の後ろに、何かがせり上がってきて、わたしは悲鳴を吞み込んだ。よく叫ばず我慢したものよ。
子供だった。長めの前髪をはらりと垂らした、十歳ぐらいの男の子の顔が半分ぐらい、ソファの上に出てきて、目が合いそうになったわ。その子がパソコンの画面を覗いたから。
「あなたの後ろに……子供がいる」
やっとこさ声に出した時、もうその子は引っ込んでいた。ソファの後ろにしゃがんだの。
「シエラちゃんにも視えたでしょう? はっきり映ったもの」
絶対、証人になってくれると思ったのに、彼女は首を振った。ちょっと迷惑がっているような表情を浮かべてたな。
フッシーはまた立ち上がって、今度はしっかりとソファの裏を見た。それからわたしに向き直って、「怪談はもうやめにしようね」と、たしなめるように言った。これ以上ふざけると怒るよ、という感じだったので、「ごめん」って謝っちゃった。
でも、視なかったことになんてできなくて、訊いてしまった。「過去にその部屋に十歳ぐらいの男の子がいた?」と。フッシーは大袈裟に肩をすくめてみせた。
「子供にまつわる因縁話なんてないよ。事故物件じゃないことは、仲介業者にしつこく確認して借りている部屋だからね」
ああ、自分と同じだ、と思った。わたしも引っ越す前には、事故物件だけは避けようとよく調べたものよ。
他人の部屋に失礼なことを言ってはいけないから、それ以上は何も言えなくなった。何だか判らないけれど、視てはいけないものを視てしまったな、と後悔しながら。
フッシーもシエラちゃんも黙ってしまって、もう楽しい飲み会という雰囲気じゃない。タカヴィッチは座椅子で眠ったまま。お開きにしようか、ってわたしは言い出そうとした。
ああ、そうしたら──。
シエラちゃんが腰掛けている籐のソファの背もたれに、小さな手が二つ掛かっていた。彼女を挟み込むように両側から。全身に顫えがきた。
「……フッシー。シエラちゃんの……香芝さんの後ろに何か視える?」
恐る恐る訊いてみた。彼が視えると答えても視えないと答えても怖かったけれど、訊かずにいられなかった。
彼には視えず、シエラちゃんは怯えた。
「若生さん、もうやめてください。わたしは怖がりなんですから。何かいるような気がして、後ろを振り向けなくなりました」
彼女は気配を感じたのかな、と思ったけれど、そうじゃない。
「何もないのは知っていても、そんなふうに言われたら誰だっていい気がしませんよ」ということだった。
小さな両手は、背もたれの上をもぞもぞして引っ込む。怖くて心臓がどきどきしているのに、目は画面に釘付けよ。やっぱり正体が気になるもの。
そうしたら──。
また男の子の顔が現われた。今度は鼻のあたりまで。ソファの端の方からぬっと出て、画面越しにはっきり目が合った。その子がカメラをまともに見たのね。
フッシーの部屋に子供の幽霊が棲みついているんじゃなかった。シエラちゃんの部屋にも出現するんだから。瞬間移動でパソコンの中を渡り歩いているみたい。
ということは、タカヴィッチの家にだって飛んでいくかもしれない。彼は無防備に眠りこけてる。悪いことが起きたらどうしよう、と心配になってきた。
「タカヴィッチ。高道さん!」と呼びかけたのは、一つには今言ったように彼の身に危険が迫っているかもしれないから。もう一つは、彼ならわたしと同じものを視てくれるかもしれない、と思って。でも、熟睡してしまったようで、目を覚ましてくれない。
そうしたら──。
そうしたら──その時。
呆れたような顔をしていたフッシーとシエラちゃんが「若生さん!」と揃って叫ぶの。
「えっ?」と二人を交互に見たら、こっちを指差していた。カメラが遠近感を強調するので、指が画面のほとんどを埋めている。
「後ろに男の子が……」
フッシーが搾り出すような声で言った。
わたし自身も画面に映っているじゃない。後ろに誰もいないって、それを見れば判るじゃない。でも、「いる」って言うのよ。言われたら、そんな気がしてきて──わたしは、わたしは──。
実貴子は顔を伏せ、「ひっ、ひっひっ」と引き攣るように笑った。その時の恐怖が甦り、感情がおかしな洩れ方をしたのか、とユリエは思いかけた。
「ユーリーったら、食い入るように画面を見ちゃって。わたしの話、怖かった?」
急に口調が明るくなったので、「えっ?」となる。
「わたし、怖くて振り向けなかったのよ。そうしたらね、フッシーとシエラちゃんが『ごめんごめん』『すみません』と謝りだした。『ちょっと悪戯したんだ。もう怖がらなくていいからね。赦して』ってフッシーが手を合わせる」
実貴子が説明を求めると、シエラがソファの裏側に「出てきていいよ」と声を掛ける。白いTシャツを着た十歳くらいの男の子がはにかみながら現われた。幽霊でも何でもない生身の子供だ。
「『大成功。上手だったね。あのきれいなお姉さん、びっくりしてくれたよ』と言ってから、彼女はその子の頭を撫でた。それから、わたしにまた詫びたの。『すみませんでした。伏見さんと一緒に仕組んだ悪戯です。この啓太君に手伝わせてしまいました』って。バツが悪かったらしく、啓太君という子は逃げるように画面の外に消えちゃった。まさか本物の子供が共犯だったとはねぇ」
啓太は、伏見の甥だった。オンラインでの悪戯を思いついた伏見は、最新ゲームソフトをお駄賃にして、甥に幽霊の真似をさせたのだ。「頃合いを見計らって、まずフッシーが啓太君を自分の部屋に引き入れて、ソファの裏に待機させた。トイレに立って戻るタイミングで死角から隠れさせたのね。しばらくそのままにさせて、合図が出たところで指をごそごそしたり顔を覗かせたりする。派手なくしゃみが悪戯スタートの合図だったらしいわ。啓太君は芸達者で、叔父さんに指示されたとおりにやって、わたしの肝を冷やしてくれた。あの子、学芸会で活躍するタイプかもしれない」
およその見当がついたが、ユリエは訊いてみる。
「その子がシエラさんの部屋にも現われたのはどうしてですか? ご近所に住んでいたとしても、やけに素早いですね」
実貴子は、うんうんと頷く。当然の疑問だね、というように。
「実は、世間がコロナで騒がしくなってきた頃に、シエラちゃんは転居していたの。引っ越しシーズンになると業者さんが忙しくなるから、それより早い二月初めに新居に移ったんだって。引っ越した先は、フッシーと一つ屋根の下。同棲を始めたわけじゃないよ。ちょっとお洒落なシェアハウス。四人が生活できるんだってさ。言われてみれば、フッシーはそんなようなところに住んでいると聞いたことがあったわ。いい部屋が空いたと彼から情報を摑んで、シエラちゃんは迷わず決断したの。くどいけれど、二人ができていたとかいうのとは違って、あくまでも部屋が気に入ってね」
「二人の部屋は同じ屋根の下だから、啓太君は素早く移動できた……」
「そう。ちなみにそこのオーナーはフッシーのお姉さん夫妻で、シェアハウスの隣に住んでいるから、啓太君は叔父さんの部屋にしょっちゅう遊びにくるんだって。シエラちゃんにも可愛がってもらっていたらしいよ。だから、喜んで悪戯に加担したんでしょう」
啓太が伏見の部屋でひと芝居を打った時、〈ここはもういいから次の部屋にすぐ行け〉という合図も決まっていたのだ。シエラの部屋のドアは、彼女が席をはずした際に施錠が解かれており、音を立てずに入室した少年は、パソコンのカメラに映らないように屈んでこそこそとソファの裏側へ。
「──という具合に、三人掛かりのトリックにまんまと騙されちゃった。リモートの飲み会にこんな罠が仕掛けられていたとはね。タカヴィッチは悪戯に嚙んでいなかった。あの人が酔って脱落しちゃうのは予想できたので、それを待って作戦を発動させたのね。わたし一人だけにおかしなものが視える、という状況を作りたかったって言ってたわ。やられた」
ユリエが黙ったままなのを、実貴子は気にしだす。
「つまらなかった? 本当に怪奇な現象の話を期待していたのなら、ごめんね。怪談かと思ったら怪談じゃなかった、ってネタで」
何かを期待するより先に彼女が語りだしたのだから、そんなふうに謝ってもらう必要はない。
違うのだ。
ユリエは実貴子の話を聴きながら、さっきからずっと別のものに注意を奪われていた。今も彼女とどうにか会話を成立させながら〈それ〉を観察している。
実貴子はまるで気づいていない。自分の右斜め後ろに四、五歳ばかりの男の子が立っていることに。何か小動物のイラストが胸元にあしらわれたパジャマを着て、実貴子の後頭部を見つめているようだ。
顔の向きからそう思えるだけで、見つめているのかどうかは定かでない。その子の姿はさながら粒子の粗い画像で、目元が柔和なのは見て取れても、瞳まではよく判らないのだ。
数分前にソファの端に指が現われ、顔が覗き、やがて上半身を晒した。実貴子の話をなぞるような登場の仕方だった。
生きた人間ではない。幽霊には個体差が大きく、こんなふうに視えるものを目撃したのは初めてのこと。濱地のようにその素性の見当をつけるのはユリエの手に余った。
実貴子に何か返事をしなくてはならなかった。
「いいんです。怪奇な現象とは仕事で日常的に遭遇していますから」
「心霊関係のお仕事に従事しているから間に合っています、か。そもそも幽霊が視えるユーリーにしてみれば、怖くも何ともない話だったよね」
パジャマ姿の子供の上体が、陽炎のようにふるふると揺れている。警戒を解く気にはならないが、〈それ〉の口元には笑みがあり、実貴子に危害を加えようとする素振りはない。
会話を途切れさせないようにしなくては。
「わたしはあまりいい聞き手じゃなかったかもしれません。でも、うちの事務所では扱ったことがない種類の案件だな、と思いながら聴いていました」
「じゃあ、少しは新奇性があったんだ。発案者のフッシーに言ったら大喜びして、また別の誰かを脅かそうとしそうだなぁ。実際、じわじわ怖かったし、悪戯だと知った後も夜中にパソコンと向き合っている時、ふと背中が気になったりするのよね」
今、後ろに子供が立っています、と実貴子に言っても下手な悪ふざけに取られるのがオチで、気分を害されそうだ。彼女に視えるものであれば、パソコンの画面にも映っているからとうに気づいているはず。もしもカメラで捉えることができない存在だったとしても、気配で感知できるだろう。体が接しんばかりに〈それ〉と近いのだから。
ユリエはグラスに残っていた発泡酒を飲み干し、どう対処すべきか考えながら会話を続ける。
「若生さんも誰かにやってみたらどうですか? 簡単なトリックだから。身近に協力してくれる甥御さんや姪御さんがいたらできますよ」
「残念ながら駄目。わが子はもちろん、甥も姪もまだいないのよ。ご近所に小さなお友だちもなし。いっそのこと名優の啓太君を借りちゃおうか。きれいなお姉さんを騙した罪滅ぼしをしてくれてもいいはずよねぇ。ひっひっ」
「啓太君に兄弟はいないんですか? 四、五歳ぐらいの弟さんに手伝ってもらったら、さらにインパクトがありそう」
「兄弟はいないそうよ。それに、四、五歳の子供じゃ幼すぎて演技指導が難しくない?」
「そうですね」
パジャマの子供は啓太とは関係がなさそうだ。実貴子の部屋は事故物件でもないそうだから、そこでただならぬ死を遂げて想いを残した子がいるのでもないとすれば──。
実貴子のビールが尽きた。潮時というものに敏感な彼女は「そろそろ」と言った。
「もう十一時だね。長々と付き合ってくれて、ありがとう。久しぶりにユーリーと話せて楽しかったわ」
子供は、パソコンの画面に顔を向けた。角度が変わったせいか、かろうじて瞳が視える。その子が小さく手を振ったのは、ユリエにかまって欲しかったからだろう。
一瞬だけそれを受け止め、面白くないからやめなさい、と目顔で伝えた。母親がわが子をたしなめる気持ちを想像しながら。そして、つれなく目を逸らす。
「わたしも。楽しい時間でした」
「今、変な顔をしなかった?」
「いえ、くしゃみが出かかっただけです」
それで納得してもらえた。
「気が向いたらまた連絡するかもしれない。その時は適当に相手をしてね。濱地さんの齢が判ったら速報を。──じゃあ、コロナに気をつけて」
「実貴子さんも。心霊現象でお困りの節は、ぜひ濱地探偵事務所へ」
パジャマ姿の子供はまだいたが、努めてそちらを見ないようにした。
「おやすみなさい」を交わして通話を終える。
すぐさまユリエはパソコンの前を離れて、スケッチブックと鉛筆を取った。あの子の記憶が薄らいでしまわないうちに描いておきたかった。
三分ほどでラフなスケッチができたが、次の機会に実貴子に見せて、「この子に見覚えはありますか?」などと尋ねるつもりはない。ただ記録しておきたかっただけである。
〈この程度〉と言ってはいたが、実貴子は自分の住まいが気に入っているようだ。快適に暮らしている彼女に、そこには幽霊がいます、と教えることはできない。当人は〈それ〉に気がつかず平穏に生活できているのだから。
濱地は、雑談の相手をするだけで依頼人の不安を払い、案件を処理した。おしゃべりどころか何もしないのが最善の方策。そんな事態もあるのではないか。
あのパジャマ姿の子供は邪悪なものではなく、ウェブでの通話が面白くて覗きにきただけに思える。ずっと前から居着いていた可能性もあるし、伏見たちの悪戯ごっこが呼び寄せたのかもしれない。ぼくもやってみたい、と。
ただならぬ死を遂げたのではなく、悲しくはあるが、ままある病気や事故が原因で亡くなっただけであっても同じこと。
──生きたかったんだね。もっと色んなものを見たり聞いたり、悪戯をして大人を驚かせたりもしたかったのよね。
いい大人が口裂け女に化けたりもするのだから、人を驚かせるのは楽しいのだ。
だが、自分も悪戯をしたくなって出てきたのだとしても、調子に乗せてはならない。そう考えたから、名前も知らないその子が手を振ってきたのにかまわず、素っ気ない反応を返した。童心が傷ついたのならかわいそうではあるけれど、いつまでもこの世界で迷っているのも不憫だ。行くべきところに発つきっかけを与えたつもりなのだが、ごめんね、と謝りたくなる。
もう午後十一時を過ぎていて、濱地に電話をするわけにはいかない。このことについて意見を求めるのは明日の朝だ。
──志摩君が下した判断は正しいよ。
ボスにそう言ってもらえることを希いつつ、ユリエはパソコンの電源を切った。
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作品紹介
濱地健三郎の呪える事件簿
著者 :有栖川有栖
発売日:2022年09月30日
江神二郎、火村英生に続く、異才の探偵。大人気心霊探偵シリーズ最新刊!
探偵・濱地健三郎には鋭い推理力だけでなく、幽霊を視る能力がある。彼の事務所には、奇妙な現象に悩む依頼人のみならず、警視庁捜査一課の刑事も秘かに足を運ぶほどだ。リモート飲み会で現れた、他の人には視えない「小さな手」の正体。廃屋で手招きする「頭と手首のない霊」に隠された真実。歴史家志望の美男子を襲った心霊は、古い邸宅のどこに巣食っていたのか。濱地と助手のコンビが、6つの驚くべき謎を解き明かしていく――。