『濱地健三郎の呪える事件簿』「呪わしい波」

気がつくと全身の自由が奪われていた。「まさかの結末」が待ち受ける心霊探偵小説! 有栖川有栖『濱地健三郎の呪える事件簿』「呪わしい波」試し読み#1
残暑を吹き飛ばす「心霊の謎」、読んでいきませんか?
「怪と幽」で絶賛連載中の、有栖川有栖さんによる「濱地健三郎シリーズ」。その最新刊の『濱地健三郎の呪える事件簿』から期間限定で「リモート怪異」「呪わしい波」の2話を配信いたします!
呪わしい波(前編)
気がつくと全身の自由が奪われていた。
両手の指先から両足の爪先まで硬直して、瞼が微かに動くだけ。薄く開いた目に染みの浮いた天井が映った。
──ああ、金縛りか。今年になって初めてだな。
ひと月のうちに何度も襲われたこともあるが、ここしばらくは起きなかった現象だ。子供の頃からの長い付き合いだから、これはどうしたことか、という驚きはない。
昔はわけが判らずパニックになりかけたりもしたが、科学的に説明がつく生理現象にすぎないことを本で知ってからは、恐怖が薄れた。
不愉快で気味の悪いことだから、渦中で平静を保つのは難しい。それでも年齢を重ねるうちに達観し、しょっちゅう片頭痛に襲われている知人よりはよほどましだ、と自分に言い聞かせられる境地にまで至っていた。
──今日は何を見せてくれるんだ、俺の脳は?
布団のまわりから瘴気が立ち上り、水底から見上げているように天井が揺らぐ。襖の向こうでは床がみしり、みしりと鳴りだした。五メートルほどしかない短い廊下を何かが行ったり来たりしているらしい。「はあ」とも「ああ」とも聞こえる大きな溜め息を洩らしながら。
足元に人の気配がある。視野の外なのに幼い子供であることだけは判った。その子は畳に尻餅をついた恰好でぺたんと座り、毬か何かを弾ませて遊んでいるらしい。
階段を軋ませて、誰かが上がってきた。この六畳間を目指しているのだろう。同業の仲間やら近所の住人やらといった顔見知りが寝室まで闖入してくるのはよくあるパターンだ。
立て付けが悪いはずの襖が滑るように開いたかと思うと、入ってきたのは未妃だ。実物よりはるかに身長が高くなった娘は、枕元に立つなり深く腰を折って、彼の顔を覗き込んだ。能面をかぶっているかのごとく表情はない。「ふあ」と音を立てて吐いたその息が、彼の顔に当たった。
──まだか。さっさと終わってくれ。
代わり映えのしない茶番に付き合わされるのはかなわない。今夜はぐっすり休んで、明日は溜まっている荷物の片づけをしたいのだ。
廊下の足音は続いている。足元の子供は二人に増えたらしい。腰を伸ばした未妃は枕元に突っ立ったまま。
いきなりこんな経験をしたら、叫びだしたくなるに違いない。叫ぼうとしたら声も出せないことを知り、さらに戦慄するだろう。
旧臘の忘年会の席で、アンティークショップを何軒か経営している若社長が金縛りに遭ったことを話していた。いい出物があるとの情報を得て福島県の喜多方まで出向いたところ、買い取りの価格交渉に予想外の時間がかかり、日帰りのつもりが郡山で一泊するはめになった。そのビジネスホテルで怖い夜を過ごしたのだという。
傍で聞いたところではありふれた金縛りでしかなく、数分で体の自由が戻ったらしいのだが、当人にとっては人生で最も恐ろしい出来事だったという。
──うつらうつらしていたんです。半醒半睡かな。もう眠る、意識がなくなる、と思っていたら、ベッドの足元から何かが伸び上がってきた。白い着物をまとった髪の長い女ですよ。『うわっ、幽霊か!』と驚いた。慌てて体を起こそうとしても体がまったく動かない。もう怖くて怖くて。そうしたらその女が、がばっ、と僕の上にのしかかってきた! 悲鳴も上げられないのか、と思った次の瞬間に呪縛が解けていました。
ただの金縛りだろ、と笑う者がいた。疲れた時には俺もなるよ、と言う者も。若社長も照れた笑みを浮かべつつ、なおもその時の恐怖を語っていた。
──心霊現象でも何でもないんですよね。でも、実際にかかってみるとそうは思えなかったなぁ。目が覚めてからも胸がどきどきして、寝ようとしたら同じことが繰り返されそうな気がする。部屋を明るくしてテレビを点けたまま、朝まで起きていようかと悩みましたよ。
若社長には、それまで霊的な体験はまったくないそうだ。世の中には科学では説明がつかない不思議なことがあるとも聞くが、それらは単なる錯覚か、あるいは暗示にかかりやすい人間の世迷い言だと考えていた。また、仮に心霊現象なるものが実在するのだとしても、特殊な能力のある人間にしか感知できないのだろうから、自分には無縁だ、とも。
──だけど、違いました。今まで無縁だったのに何の前触れもなく変なのに遭遇してしまった。これからもあるかもしれない、と思うのは嫌なもんですね。
金縛りは心霊現象ではない。睡眠には二つの種類があり、ノンレム睡眠というものからレム睡眠へと移行するようになっているが、いきなりレム睡眠に入ってしまったことが原因で起きる生理現象にすぎない。脳がまだ起きているのに体が先に眠ったことで発生するもので、平たく言えば寝ぼけているだけだ、と解説する者がいたが、若社長の不安は払拭されないままだった。よほど怖かったのだろう。
──原因を解説されても、だったら安心しました、とはなりませんよ。あんなの二度と御免だなぁ。
子供の頃から経験していると、平気になれずとも、繰り返し襲われるうち因果なものとして諦めるしかなくなる。すぐ近くの席だったら若社長たちの話に加わったかもしれないが、少し離れた席でのやりとりだったので、わざわざ口を挟んだりはしなかった。
子供たちの声が低くなった。ひそひそと密談している。
それにかぶさって、座敷箒で優しく畳を掃くようなザラザラという音が聞こえてきた。
──夜中に掃除? いや、違う。
水が打ち寄せているのだ。これは波の音。ゆったりとしたテンポで反復している。その中にも何かがいるのか、ぴちゃぴちゃと水が跳ねる音が混じる。
波打ち際は漸進し、足首の下あたりの布団が湿ってきた。ひんやりと冷たい。これがそのまま上がってきて、布団全体がぐっしょりと濡れてしまったら、どれほど気持ちが悪いだろう。
尻の下まで水がきた。腰のあたりまできた。錯覚だと承知していても、感触はとてもリアルだ。ざらついた潮騒が高まり、心を乱す。
足元の子供たちも、枕元の未妃もいなくなっていた。部屋には満ちてくる波に包まれてゆく彼しかいない。
──これぐらいで勘弁してほしい。今夜はしつこいな。要素も多いし、いつもと感じが違う。
長い付き合いなので、金縛りの解き方についてもある程度の心得がある。この状態に陥ってそれなりの時間が経過した。もうピークは過ぎ、終わりが近いはずだ。
両手の指先に意識を集中させると、動かせそうな気配があった。人差し指から動く場合が多い。まずは右手の、次に左手の人差し指がぴくりと動く。自由の恢復を感じつつ、乱れている呼吸を整えにかかった。焦らず、ゆっくりと。
慣れ親しんだ世界が徐々に戻ってきた。部屋中に見ていた不穏な空気が消えて、日常が返ってくる。「やれやれ」と言葉を発することも可能になっていた。
久しぶりに金縛りに遭った原因は、考えるまでもない。商品の片づけ作業による肉体的疲労と、あの問題からの精神的ストレスだ。コロナ禍は──おそらく関係あるまい。
目を覚ますと朝だった。
昨夜の金縛りはどこかいつもと違っていたが、いったん去った後はぶり返すことなく、朝まで熟睡できたのはありがたい。十一時に床に就き、目覚めたら七時過ぎ。ふだんどおりである。
彼──苑田亘輝は階段を下り、まずは仏壇の水を換えて手を合わせた。妻に病気で先立たれて四年。この朝の儀式は一日も欠かしたことがない。
洗顔を済ませ、ダイニングでテレビを観ながら朝食を摂る。冷や飯で茶漬け。少し前までは朝はもっぱらパンだったが、うまい漬物を見つけてから和食に切り替えた。
茶碗と皿を流しに運んでから両肩を回してみると、ひどく凝っている。先月あたりから肩こりが気になりだした。腕を酷使するほど忙しくはしていないのだが。
肩だけではなく、体調そのものがよくはなかった。慢性的にだるいし、健啖家を自任していたのに食欲も落ち気味である。気になってはいるが、病院で検査を受ける必要までは感じていない。
コーヒーを飲みながら読むために新聞を取りに行った。お宝。お宝もどき。お宝だか何だか彼自身にも判別がつきかねるもの。雑多な品々を陳列した店を抜け、シャッターポストに差し込まれた朝刊を手にしてダイニングに戻った。
テレビで観たばかりのニュースを活字で読む。新型コロナの感染は落ち着きをみせているようだが、一時的な小休止だろう。いずれ第二波、第三波がやってきて、第一波が序の口だったと思う事態になりはしないか心配だ。
疫病はそう簡単に去るものではない。寄せては返す波となって、何年にもわたって人間社会を苦しめるだろう。ワクチンが早く開発されることを祈りつつ、当面は警戒を続けるしかない。
八時を過ぎた頃、店内の机に向かってパソコンを起動させた。夜のうちに二件の注文が入っている。古木を使った民芸調の状差しは安い品だが、かつてフランス王室御用達だったクリストフル製のカトラリーセットは強気の値付けをしていた。寝ているうちに結構な売り上げが立ったのだから便利な時代になった。どちらも梱包や発送が楽なのも助かる。
このところ買い取りの相談や依頼も多くなっているのは、コロナ禍で巣ごもりをしている間に家に溜まったものの整理や処分をする機会が増えたせいだろう。ぬいぐるみについての問い合わせが一件届いていた。仕入れたそばから売れた品もいくつかあり、そんな流れを大事にしようと積極的に買い取るようにしている。古物商を廃品回収業者と勘違いしているのではないか、と言いたくなるつまらない依頼もあるので、しっかりと選別はしているが。
受注した旨と支払い方法を客にメールで伝え、ぬいぐるみ買い取りの相談についてはいくつかの質問を書いて送った。それから、昨日やり残した梱包作業を行ない、宅配便の業者に電話して「三つあります。台車に載りますので、よろしく」と集荷を頼む。
十時になったので、店のシャッターを開けた。梅雨入りしているのに空に雲はなく、日差しが強い。
開店するなりお客が入ってくる店ではないから、のんびりと商品にはたきを掛ける。骨董品としての価値が高い和簞笥やヴィクトリア朝のテーブルからセルロイドの玩具、レトロ風デザインの腕時計、安いことだけが取り柄の食器類までが犇めき、混沌とした品揃えだ。〈雑宝堂〉という店名は伊達ではない。
はたき掛けの最中、閉店した美容室から仕入れたシザーの値札に目が留まった。先日、ふらりと入ってきた客に「これ、桁が違ってない?」と言われたのを思い出したからだ。確かに数字が読みにくかったが、桁を間違えたりはしていない。鋏など百円ショップでも売っている、とその客は思ったのだろう。美容室や理髪店で使われているシザーは十万円で買えない、と言うと疑わしそうな目になっていた。
値札を書き直したら、刃の部分に汚れが付いているのが気になってきた。店先の消毒用アルコールをティッシュに吹きつけ、軽く拭っておく。輝きが戻った。
昼は素麵にしようか、まだ一食分は残っていたはずだが、と考えていたら引き戸が開き、本日一番の客がやってきた。日傘を畳んで入ってきたのは、四十代後半ぐらいに見える女性。ノースリーブが涼しげなワンピース姿で、小ぶりのショルダーバッグ──ブランドまでは判らないが上物──を肩に掛けている。
「こんにちは」
向こうから先に声を掛けてきたので、彼はすかさず応じる。
「いらっしゃいませ。六月だというのに、今日も晴れて暑いですね」
初めての来店ではなかった。半月ほど前にも一度、これぐらいの時間にきたのを覚えている。
目鼻立ちがはっきりとした顔で、睫毛が長く、豊かな頰がマスクからはみ出していた。落ち着いた雰囲気をまとい、話し方は丁寧。前回は、ペアのワイングラスを買ってくれた。
「またお近くにご用事が?」
尋ねると「はい。ちょっと」との返事。
前回、短い会話を交わした折に、このあたりに住んでいるのではなく、知り合いに用事があってきているのだ、と聞いていた。
「あのワイングラス、愛用していますよ。いい買い物をいたしました」
うれしいことを言ってくれる。客がこちらの機嫌を取る理由もないから、本当に気に入ったのだろう。
「それはよろしゅうございました。こちらこそ、いいお客様に買っていただき、ありがたいことです」
「他にもよさそうなものがお店に並んでいたので、また寄せていただきました。特に目当てのものがあるわけではないので、あれこれ拝見してもかまいませんか?」
「はい、もちろんです。どうぞご存分に。気になる品がありましたら、お手に取ってご覧ください。お傘はそちらの傘立てにでも」
両手が自由になると、客は店頭の品々をゆっくりと見て回った。用事はもう済んだのか、早く着きすぎた調整がしたいのか、時間に余裕がありそうだ。
七宝焼きの細工が施されたコンパクトをしげしげと眺めていたので、どうやらお買い上げだな、と期待したら、首を傾げてもとの場所に戻してしまった。
売れても売れなくてもかまわない。この感じのよい女性の興味を惹くのはどんな品だろうか、と気になって観察をする。
「こういうおもちゃ、集めている方が多いからいいお値段になるんでしょうね」
セルロイドやブリキの玩具を指して言った。むやみに商品に触ろうとしないのも上品だ。
「希少価値ですね。おもちゃですから、本来はお子さんが乱暴に扱う消耗品です。きれいな状態のものは多くありません。そこにコレクターの方は価値を見出します」
「このブリキの兵隊さんなんか本当にきれいで、新品みたい。子供に遊んでもらえなかったんでしょう。コレクターの大人に買って大事にされるのだとしたら、モノにも色んな運命がありますね」
くるりと体の向きを変えて、家具が並ぶ一角に足を進める。途中で歩調を落として、小さく深呼吸をしたりした。店内の古物の匂いを嗅いで楽しむように。
装飾の入った鉄金具がいかめしい簞笥の前で、彼女は立ち止まった。
「これは金庫ですか?」
簞笥と呼ばれるが、用途は金庫だ。てっぺんに提げるための金具が付いていることから察しがついたらしい。
「はい。北前船や千石船で使われていた特殊な金庫で、船簞笥と言います。海が荒れて、船内のものが壁にぶつかったりしても壊れないよう頑丈に作られています。海難事故に遭って浸水した場合に備えて、防水性も高い。大きさや用途別に懸硯、帳箱、半櫃と三種類あるうちの、これは懸硯です」
「防水性を高めるために、こんなにがっちり作られているわけですか。あら、金具に家紋が」
「豪華なものでしょう。桐と欅に漆が塗ってあるんです。たんまり儲けていたから、こういうものを作れたんですね。名産地の筆頭は佐渡で、これは都内にお住いのコレクターから入手しました。職人技は箱の中にも発揮されていて、色々なからくりが仕掛けてあったりします。一部お見せしましょう」
「いえ、こんな高価なものはとても買えませんから」
客は遠慮したが、「見ていただくだけで結構です」と言って鍵を開け、二重底や隠し箱を披露した。店の商品を褒められるのは、わが子を褒められるのに等しい。彼はいい気分だった。
「船簞笥は、船が沈没しても大事なものが助かるようにできています。これは水に浮くんです」
「こんなに金具がびっしりで、沈んでしまいそうですけれど」
「言い伝えられているだけでもなく、再現したもので実験したら本当に浮いたそうですよ。いざとなったら、人間が捉まって浮かんでいることもできたと言われます」
「へえ、すごい」
店内をぐるりと見て回ってから、客はアンティークグラスのスパイス入れを買ってくれた。熱心に接客してくれた店主に気兼ねして、無理に買い物をしてくれたのではないか、とも思ったが、「またよいものが見つかりました」と言ってくれた。口元はマスクで隠れていても、微笑んでいたのが判った。
彼女のおかげで午前中を気持ちよく過ごし、素麵もうまく茹でられた。さらに新たな注文がネットに入り、鼻歌が出そうになっていた彼だが、「ごめんください」の声を聞いてたちまち表情が曇った。
「突然ですみません。少しお時間を頂戴できますか?」
隙なくスーツを着こなした男は、許しを与えてもいないのに、もう店内に踏み込んでいた。店を構えていたら門前払いもできない。
「カンナギ開発の彦山です。営業中に失礼いたします」
何度も会っているのに、いつも名乗るのがまた鬱陶しい。
「今日もよく晴れて暑いですね。六月なのに」
さっきの客に自分が掛けたのと同じ言葉を投げてきたので、自己嫌悪に陥りそうだった。
「あんたのために時間を費やしたりしないよ。汗をかきながら何度きても返答は変わらないから、帰ってもらおうか。商売の邪魔だ」
目も合わせず応えた。
「そんなにつれなく言わないでください。お客さんがいらしたら黙りますから、お邪魔はしません。そもそも〈雑宝堂〉さんは、今ではネット販売が中心じゃないんですか? 倉庫とパソコンがあれば十分……というより、経費が減ってお商売の効率がぐっと上がると思うんです」
ひと言ひと言が神経を逆撫でする。心の中に暗鬱な雲が広がっていくようだ。
「商店街からはずれてはいますが、駅から徒歩七分の角地。こんないい場所に店舗をかまえていたら、固定資産税だけで大変でしょう。お店を手放して、ネット販売だけにするのは賢い手だと思うんですが」
「お前は賢くない、馬鹿だ、と言いにきているわけだ。馬鹿の相手をしにくるあんたも相当な馬鹿だよ。他人の商売のやり方に文句をつけるな」
にらみつけてやったが、額の汗をハンカチで拭った彦山は、世にも涼しげな顔になっている。鉄面皮とはこのことか。
「私どもは、可能な限り苑田様のご希望に添いたいと考えています。交渉の余地があるとすれば、やはりご売却いただく金額でしょうか? お移りいただく先の条件ですか?」
「どちらでもない。交渉はしない、と前からはっきり断っているだろう。他人が売りたがっていないものを買おうとするな。まったく傲慢だよ、あんたたちの会社は」
こちらの言うことなど、まるで聞いていない。
「この土地にこだわる理由がおありなのでしょうか? 先々代からこちらで骨董品店を営んでおられるのは存じていますが、ここでなければできない商いでもないかと。先ほども申したとおり、昨今はネットで繁盛なさっているようにお見受けします」
「嫌みにしか聞こえない。繁盛なんてしていないよ。細々とやっているだけだ。だいたい『こだわる』とは何事だ。辞書を引いたことがあるか? こだわるというのは、どうでもいいことに執着する、という意味だ」
「そうなんですか? もともとはそうなのかもしれませんけれど、今は別の意味で使われていますよ」
言い返されて、ますます腹が立ってきた。
「そっちこそ、どうしておれを立ち退かせたがるのか判らん。どこにでもあるようなマンションを建てたいだけだろ。売れないと言われたら、とっとと他を当たればいいだろ」
隣のコインパーキングは、もうカンナギ開発に売り渡されていると聞いたし、裏の空き家についても話がついたらしい。彼らとしては、残るこの角地が是が非でも欲しいことを判っていながら毒づいた。
「いえいえ、そう簡単に諦めるわけにはいかない。こちらのような優良な物件はめったにありません」
「売りに出してないのに物件とか言うな。──もうたくさんだ。十秒以内に敷居を跨いで出て行ってくれ」
「話し合っているうちに思わぬ妥協点が見つかり、双方にとってよい結果になる、と信じているのですが」
「妥協点なんてものはない。話すだけ時間の無駄なんだよ」
「お嬢様のご意見はいかがでしょうね。ご相談なさったりは?」
「結婚して家から出た娘は関係ない。ここはおれの家で、おれの店だ。──もう十秒が過ぎる。頭からアルコールを掛けて消毒されたいか?」
退去命令に従わないのなら腕ずくでも排除するつもりでいたが、こちらを見たまま後退りを始めた。敷居のそばで止まり、馬鹿丁寧に一礼する。
「仕切り直した方がよさそうですね。残念ですが、本日はこれにて失礼いたします。また日を改めて──」
最後まで言わせず、「くるな!」と怒鳴りつけた。
(つづく)
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作品紹介
濱地健三郎の呪える事件簿
著者 :有栖川有栖
発売日:2022年09月30日
江神二郎、火村英生に続く、異才の探偵。大人気心霊探偵シリーズ最新刊!
探偵・濱地健三郎には鋭い推理力だけでなく、幽霊を視る能力がある。彼の事務所には、奇妙な現象に悩む依頼人のみならず、警視庁捜査一課の刑事も秘かに足を運ぶほどだ。リモート飲み会で現れた、他の人には視えない「小さな手」の正体。廃屋で手招きする「頭と手首のない霊」に隠された真実。歴史家志望の美男子を襲った心霊は、古い邸宅のどこに巣食っていたのか。濱地と助手のコンビが、6つの驚くべき謎を解き明かしていく――。