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試し読み

【キャンペーン実施中】江神二郎、火村英生に続く、異才の探偵。ミステリーの名手、有栖川有栖が贈る大人気心霊探偵小説「濱地健三郎シリーズ」より「あの日を境に」特別試し読み!#1

ミステリーの名手、有栖川有栖さんが贈る大人気心霊探偵小説「濱地健三郎シリーズ」。
第3弾の『濱地健三郎の呪える事件簿』の発売を記念して、シリーズ既刊から特に反響の大きかった「あの日を境に」「霧氷館の亡霊」「浴槽の花婿」の3作を期間限定で配信します。
第1弾は『濱地健三郎の霊なる事件簿』 (角川文庫) より「あの日を境に」をお届けします。

サイン本プレゼントキャンペーン実施中‼

これを記念して10月11日(火)より、Twitterで感想を投稿くださった方を対象に、シリーズ1作目のサイン本プレゼントキャンペーンを実施中です!
(応募要項は記事末尾をご覧ください)

「あの日を境に」#1

 やっと返信がきた。
 ひどくそっけないメールが。
〈仕事が忙しいんだ。そんなに責めないでくれ〉
 突き放すような言葉に悲しくなり、あおけにベッドに倒れ込む。本当に仕事が忙しくて会えないのだとしても、こちらが不注意で恨みがましい調子のメールを送っていたのだとしても、自分に対して温かい気持ちを持っていたならこんな文面にはならないだろう。
 ──愛想を尽かされたんだ。わたしと付き合うのに飽きたってことよね。
 結論を出すのは性急すぎるが、避けられない事態なら早いうちから覚悟をしておくべきかもしれない。二十五歳の未那は、これまでに恋人との別離を二度経験していたが、そのうちの一度は彼女から別れを切り出し、もう一度はどちらからともなく自然に関係を解消させた。ふられた、切られた、てられたというわけではなかったから免疫がなく、どう振る舞えば心の傷が最も小さくてすむのか判らない。
 ──だけど、どうして?
 みきに嫌われる理由がどうしても思い当たらない。二週間前の電話で「何か怒ってる?」といたら、「いいや。怒らせるようなことはしてないだろ」とぶっきら棒に言われた。その時は未那もカチンときて、「じゃあ、どうしてそんな不機嫌そうな声でしゃべるの? 何かの八つ当たりだったらやめてよね」などと返したのだけれど。
 ああいう態度がよくなかったのかな、とも思ったが、彼が自分をうとむごとくよそよそしくなったのはそのさらに一ヵ月前からだ。最後に会ったのは八月二十日。幹也が好きなSF映画を観てから食事に行こうとしたところで、チケットを買う前に「ごめん。ここにくる前から頭が痛いんだ」とデートは打ち切られた。
 その後は何度か電話のやりとりがあったが、明らかにさっさと会話を終わらせようとしているのがうかがえて、どうにも解せなかった。それでも、「この頃ずっと体調が悪くて、おまけに仕事がやたら忙しいんだ」と会えない言い訳をしてくれるうちは、ましだったのだ。
 そのうち電話に出なくなり、メールを送ると〈色んなことに追われている。時間と気持ちに余裕ができたらこっちから連絡するよ〉とのこと。待っていても梨のつぶてだから我慢できずにメールすると、〈こっちから連絡するって言っただろ〉と怒りだした。
 心配になってきて職場の気の置けない同僚に話したら、「他に好きな女ができたっぽいね。それ以外に考えようがないんじゃないの?」と不安をあおるようなことばかりを言われ、落ち込んだ。まさかとは思うが、否定できない。
 ──でも、だけど。
「でも」と「だけど」が頭の中でぐるぐると渦巻く。自分と幹也は、とてもうまくいっていたのだ。ちょっと可愛い女の子が視界をよぎったぐらいで、彼があっさり心変わりをするなんて信じられない。軽い男ではないし、それまでは幸せでいっぱいだった。映画みたいにこんな情熱的な恋ができるなんて、と有頂天だったのに。
 八月十一日から十二日にかけて、二人で海に出掛けた。未那の希望にこたえてくれて、彼の車で新潟まで行き、きれいなビーチで泳ぎ、改装したばかりの洒落しやれたホテルで初めて一夜をともにした。翌日の午前中もビーチで遊び、「もしかしたら、今ここでプロポーズされるのかも」という瞬間まであったというのに、すべては遠い夢のようだ。
 手を伸ばして、ベッドの上に投げ出したスマートフォンを取り、新潟のビーチで幹也と撮った写真を画面に呼び出した。抜けるような真夏の青空の下で、二人は頰を寄せて無邪気に笑っている。少年のような体つきのくせに、苦み走った顔をした彼がこの時はだらしないほどに表情を崩していた。それにも増して、まゆを八の字にした自分のにやけっぷりときたら恥ずかしいほどだ。この時点まで二人が幸福だったことは間違いがない。
 ──いつから? どこからおかしくなってしまったの?
 写真を順に見ていく。タオルを首に掛けてパラソルの陰でコーラを飲む彼。サーフパンツ姿で砂の城を作っていく彼。帰路に就く前、ホテルのレストランの窓辺の席で微笑む花柄シャツの彼。どれも穏やかな顔つきで、撮影者を優しく見つめている。
 最後の一枚には人間の姿はない。未那が車の助手席から撮ったもので、真っ青な空にぽつんと浮かんだいちの雲だった。あまりにも見事に馬の形をしていたので、「見て見て」と運転席の幹也に突き出した。「たてがみをなびかせて疾走しているみたいでしょう。すごくカッコいい」とはしゃぎながら。「おい、目の前にそんなものを出したら危ないよ」と言いながら、彼は笑っていた。まさか、あれが原因で嫌われたとは思えない。
 そうきゆうかける白いペガサス。今見ても美しい馬だ。自分たちの明るい未来を祝福しているみたいだ、と馬鹿な喜び方をしていたけれど、逆だったのではないか? 見掛けに反して、それは理不尽で不吉なものの到来を告げていたのかもしれない。
 雲はこんぺきの海の上に浮かんでいた。ホテルをチェックアウトしてまもなくそれを撮影し、しばらくするとまぶたが重くなったのを覚えている。「眠ればいいよ。起きていても運転を替わってもらえないんだし」と彼が言うのに甘えて、「わたしだけごめんね」と寝入った。海水浴の疲れと愛し合った夜の名残りがい交ぜとなり、とてもではないが睡魔に抵抗できなかったのだ。
 ──「眠ればいいよ」とあんなに気持ちよく勧めてくれたんだから、そのことに腹を立てたってこともないはず。一時間も眠り込んだから気分を害したんだとしても、そんなさいなことをいつまでも引きずるなんてあり得ない。
 ほくりく自動車道からかんえつ自動車道に入り、どこだったかのサービスエリアで休憩した時、心なしか幹也に元気がないように感じたが、あれは疲労のせいだろう。運転してくれることへの感謝とねぎらいの言葉をかけたら、「うん」とだけ応えた。それ以降は車内で無口になったので、話しかけない方がよさそうだと判断し、二人ともが好きな音楽を流しながらのドライブになる。そして、未那がマンションの前で車を降ろしてもらうまでまとまった会話はなかった。
 何度思い返してみても、自分が忌避される原因として思い当たるものがない。その夜に送ったメールの返信がごく短かったのは単に疲れているせいだったのかもしれないが、翌日から現在に至るまで以前のようにおどけた楽しいメールは一通も届いていない。
 ──何故だか知らないけれど嫌われた。あの日を境に。
 駄目なのかもしれない、と思ったらじりから熱いものがこぼれた。まだ泣くのは早すぎるのに、涙腺が先走りをしている。
 こんな意味不明のまま別れるのは耐えられないから、どうせ駄目なのだとしても自分が嫌いになった理由を問いたださずにはいられない。が、彼の元に押しかけて行って詰問するのは破局を自ら引き寄せるようで勇気が出なかった。
 自分の心をほんろうし、苦しめる男がますます恋しい。わたし、かわいそうだな、と思った。

 その喫茶店に入ると、志摩ユリエはすぐに求める顔を見つけた。進藤叡二はこの前と同じ四人掛けのテーブルにいたのだが、向かいの席に連れがいる。スーツを着た若い男で、背中を丸めて何事か熱心に叡二に語りかけているようだった。
 えっ? と思う。デートの約束をしていながら叡二が男友だちと話し込んでいたからではなく、スーツの男の後ろ姿に黒いもやのようなものがまとわりついていたからだ。説明がつかない現象であるだけではなく、何かまがまがしい気配が感じられて、思わず足が止まった。
 顔を上げた叡二と目が合い、彼はひょいと手を挙げてみせた。向かいの男がこちらを振り返り、ユリエを見るなり脇に置いてあったショルダーバッグを肩に掛けて「じゃあ」と立ち上がる。
「早かったですね、志摩さん。まだ七時十五分前ですよ」
 童顔の叡二は屈託なく言ってから、急いで去りかけたスーツの男をユリエに紹介する。
「彼、幹也といって中学時代からの友だちです」
 幹也は、首をすくめるように軽く会釈して、「どうも」とくぐもった声で言った。優しそうだが哀しげな目をしている。髪型はすっきりとした短髪。叡二と同じく二十三歳なのだろうが、こちらは目尻のしわのせいか、実年齢より老けて見えた。類は友を呼ぶのか、きやしやなところは叡二とよく似ている。
「初めまして。志摩です」と挨拶すると、また頭を下げて「どうも」。それから覇気のない声でびてきた。
「すみません。デートの前に、ちょっと進藤君をお借りしていました。もう失礼しますので、ごゆっくり」
 最後に「またな」と叡二に声を掛けて、すたすたと離れていく。その肩のあたりに黒い靄の切れっ端が漂っていたが、正体を見極める前に彼は店の外へと消えた。
 幹也の尻のぬくもりが残っているシートにユリエが座ると、ウェイトレスがすかさずやってきて飲みさしのコーヒーカップを片づけ、オーダーを訊いてくれる。「ミルクティー」と答えた時、何故かユリエは口の中にざらりとしたものを感じた。
「あいつ、腕時計を気にしながらしゃべっていたんですよ」叡二が言う。「七時にここで志摩さんと待ち合わせているのを言ってあったから、『邪魔しないように十分前には必ずせるから、もう少しだけ付き合ってくれ』って」
「大事な急ぎの話があったの?」
 それなら自分が彼の邪魔をしたことになる。
「そりゃまぁ、大事な話かな。恋愛についての真剣な相談だったんですけれど、なんか要領を得ないところがあってろくなアドバイスをしてやれなかった。──そんなことより、お疲れさまでした。本日の探偵稼業はどうでした?」
 デートモードに早く切り替えようという心遣いからか、叡二は話題を転じようとしてくれたが、ユリエは茂里幹也という男にまとわりついていたものが気になった。
「今日は事件の依頼もなくて、暇だった。濱地先生はコーヒーを飲みながら心霊現象に関する難しそうな文献を読みふけるばっかりで、わたしはのんびり伝票整理。──そんなことより、茂里さんとどんな話をしていたのか訊いてもいい?」
「あれ、『そんなことより』を返されちゃったな。茂里の恋の悩みなんか聞いてどうするんですか? おれのカウンセリング能力がチェックされるのかな」
「そんなチェックはしないから、話してみてよ」
 まだ口の中がざらついている。ユリエは口元をぬぐうふうを装いながら、ハンカチで舌の表面をひとでしてみたが、すっきりとはしなかった。
「さっきも言ったとおり、あいつとは中学からの付き合いで、高校が別々になってからも連絡を取り合っていました。大学を卒業してからも年に二回ぐらい飲みに行く仲です」
「何をしている人?」
「大学を中退して、しばらくロックバンドでドラムスをたたいていたんです。ミュージシャンになりたいという夢は破れて、今は親父さんが経営するちゆうぼう機器の問屋を手伝っています。まだ手伝っている、という程度らしいけれど、ゆくゆくは跡を継ぐんでしょう」
「夢に見切りをつけるのが早かったのはわたしと同じね」
「おれも早かった」
「きみはあっちに行けるかもしれないじゃない」
 彼女と彼は、同じ大学の漫画研究会で一年違いの先輩後輩だった。ユリエが才能の致命的な不足を認めて探偵業に転身を図ったのに対し、叡二は漫画原作者になることを目標に目下はライターで生計を立てている。
「恵まれない天才、おれの漫画原作が売れるのはいつになるやら。──で、茂里の悩みですけれどね」
 厨房機器問屋の跡取り息子が恋した相手は銀座に本社があるメーカーに勤めるOLで、名前はかね未那、二十五歳。二つ年上の女性と茂里が親しくなったきっかけは、雨宿りをしていた彼女に傘を貸したことだった。
「今年の四月のことです。映画館を出てみたら天気予報がはずれて雨が本降りだった。ぼうぜんとする彼女にあいつが『どちらまで? よかったらそこまで一緒に行きますよ』と声を掛けたのが始まりで、れ初めとしては古典的でしょ?」
「うーん、実際にそんなことで付き合い始めた人を身近に知らないけれどね」
 相合傘で歩きながら観たばかりの映画の感想を語り合い、「お茶でもどうですか?」という幹也の誘いが受けれられ、メールアドレスを交換して別れる。四月のうちに映画デートが一回。五月になると週末ごとに映画鑑賞やディナーをともにするようになり、夏に向けて親密さの度合いは高まっていった。
「相手のことを知るにつれて、仲よくなっていったわけです。恋人同士と言っていい関係になり、八月には海にも出掛けた」
「沖縄かどこかへ?」
「いえ。彼女が『日本海で泳ぎたい』と言うので新潟まで車を飛ばしたそうです。二人での初めての泊まりがけの旅行でもありました。最近は海水浴の人気が低下しているせいもあるのか、きれいな砂浜だったのにあまり人がいなくて、とてもナイスな雰囲気だったそうですよ」
「いいなぁ。わたし、日本海で泳いだことがないの。来年は行ってみようかな」
「おれ、車を飛ばしますよ。って、来年の八月まで十ヵ月もある。遠いなぁ」
 叡二が真顔になって見つめてきたので、ユリエはとっさの反応に戸惑う。ふと黙って互いを見つめ合うというのは、恋愛の始まりや進展を意味するのは経験的に承知していたから。彼との関係をどこまで進めるつもりなのか、彼女は自分でもよく判っていなかった。
「ああ、いや、でも」
 幸いと言うべきか、叡二の方が困った顔になって頭をいたので、ユリエは態度を保留することができた。
「どうしたの?」
「志摩さんと新潟の海に行くのはやめた方がいいかもしれない。茂里と未那さんとはその旅行からおかしくなったそうなので縁起が悪いや」
 旅先ではその人間の本性が出やすいから、親密さが増す反対の結果になることもありがちだ。しかし、二人はけんをしたわけではないという。行きの車中から笑顔がはじけ、一日目の海水浴を楽しんだ後は改装オープンしたばかりの小さいが洒落たホテルのレストランでおいしいフレンチのディナー。窓いっぱいに海が広がる部屋は快適で、何から何まで申し分がなかった。
「翌日も朝食後にひと泳ぎして、ホテルでランチをとってから帰ったんだけど、そのあたりからおかしくなってきた、と」
「喧嘩もしていないのに、何がどうおかしくなるの?」
「そこが不可解なんです」
 叡二は、友人から聞いたままを伝える。未那が遊び疲れた様子だったので、幹也は「眠ればいいよ」と言い、助手席の彼女はうつらうつらしていたが、じきに寝息をたて始めた。幹也の方には疲労感もなく、車の運転は大好きだ。傍らで恋人がたてる寝息は耳に心地よいばかりのはずだったのに、理解が難しい不快感が胸の奥から湧いてきた。
「『自分でも判らない』という点を強調していました。本当は起きておしゃべりの相手をしていて欲しかったとか、自分も疲れていたから隣で寝られるのが面白くなかったとか、そういうことは絶対になかったんだそうです。なのに、じわじわと不快なものが込み上げてきた」
「それって、『自分では理解できない』とかおおに言ってるだけで、やっぱり彼女が寝たことに腹が立っただけでしょう」
 ユリエにはそうとしか思えず、器の小さな男だな、というのが率直な感想だったが、叡二は友人をかばう。
「あっさり斬って捨てないでやってくれますか。あいつ、首をひねりながら話したんですから。まあ、何にしてもそれが一時的な感情だったらどうってことはありませんでした。問題は、それが継続していることです」
「彼女が嫌いになってしまった? 極端な気がするけれど、別に不思議な話でもないと思うな」
 叡二はまた頭を搔いて、もどかしげな表情を見せた。幹也の話自体が「要領を得ないところがあった」から、説明に苦労しているのだろう。
「ちょっとした態度が原因で相手への想いが冷めたというのなら不思議はないのに、あいつは『そうじゃない』と言い張ってました。『好きだ、愛してる』。それなのに、どうしたことか彼女のことを考えると気分が悪くなるんだそうです。会うとますます駄目で、どうしても我慢ができず『ごめん、体調がよくないから』と逃げるように帰るなんてことも」
「ひどいなぁ。デートもできなくなったわけ?」
「はい。八月二十日に短い時間会ったきり、メールや電話のやりとりだけになって一度も会ってない」
 不可解というより理不尽な話で、ユリエは幹也よりも兼井未那に同情してしまった。わけが判らず困惑しているに違いない。叡二はというと、未那と同等に幹也のことを案じているようだ。
「自分で自分の感情が理解不能になって、苦しんでいるんですよ。いや、感情については『好きだ、愛してる』で一貫しているのか。それなのに彼女がアレルギーの対象みたいになっちゃった。『俺はどうしたらいいんだろう?』っていう悩みの相談を受けたら、志摩さんはどう答えます?」
「どうって……」取りとめがなくて、答えに窮する。「とりあえず、もっとくわしい話を聞かせてもらうしかなさそう」
「うーん、そうですよね。ただ、茂里についてこれだけは言わせてください。おれがあいつを好きなのは、真っ正直で噓をつかない奴だからです。誠実な男なんです」
 叡二のしゃべり方は大学時代の先輩に対するままで、相変わらず堅い。律儀な性格によるのだろうが、幹也のことを悪く思われないようふだん以上に言葉遣いが丁寧になっているのかもしれない。
「昔から相談を持ちかけるのは、おれだったんですよ」叡二はさらに言う。「つまらない愚痴をいつも辛抱強く聞いてくれたりもしました。だから、たまにはおれがあいつを助けてやりたいんですよね」
 今回のことについても、幹也から泣きついてきたわけではなかった。この半年ほどをしていたので、昨日の夜、気紛れに「おう、元気にしてるか?」とメールを送ったら、すぐさま電話がかかってきて、「時間があったら会って話を聞いてくれ。明日にでも」となったそうだ。
「志摩さんには関係ないことだから、この話はもうやめましょう。今日はどこへ食べに行きます? この近くにおいしいパキスタン料理の店ができたらしいので──」
「ねえ、叡二君。さっきの人に電話をかけて呼び戻してくれないかな」
「は?」
 恋の悩みへの名回答がひらめいたわけではない。幹也の体にまとわりついていた黒い靄が無性に気になりだしたのだ。どうにもよからぬものに見えた。彼の心身に起きた不可解な異常の原因は、あれなのではないか? だとしたら、濱地の下で働くうちに霊的なものにアクセスする能力がかくせいした自分が関わるべき領域だ。
「確約はできないけれど、力になれるかもしれない」
「本当ですか? 志摩さんがそう言ってくれるんなら」
 さっそく電話してみると、相手はすぐに出た。短いやりとりで通話は終わり、叡二は親指を立てる。
「そのへんをぶらぶらしていたので、すぐここに戻ってくるそうです。『デートはどうしたんだ?』と言うので、『いいからこい』と答えたんですけれど……志摩さん、何か思いつきました?」
「ううん」とユリエは首を振る。黒い靄については、当人がきてから話せばいい。
 十分ほど経ったところで、幹也が姿を現わす。どこか遠慮した様子でこちらに歩いてくるのをじっと観察したが、何も変わったところはなかった。
 ──わたしの錯覚だった? いや、そんなはずはない。
 あまりじろじろ見たせいか、幹也は自分の顔に手をやって、「何か付いていますか?」と訊いてきた。
「いいえ、ごめんなさい。失礼しました」
 ユリエが詫びると、叡二が隣に座るように促してから言う。
「顔色がよくなっているな。さっきはもっとあおかったぞ」
「そうか?」幹也は席に着きながら「おまえがそう言うんなら、そうなんだろう。このところずっと気分がよくなかったんだけれど、歩いているうちに楽になってきた」
「医者には診てもらったのか? 子供じゃないんだから自分の体のことは自分で管理しないと」
「体の病気じゃなさそうだから、病院には行ってない」
「素人が勝手に決めつけるのはよくないだろう。行ってみろよ」
「意味ないよ、多分」
 二人のやりとりを聞きながら、ユリエは不穏な気配がしないかと探ってみたが、特に何も感じられない。よからぬものが幹也に取り憑いているのだとしても、いったん鳴りを潜めたようだ。

「あの日を境に」#2につづく

『濱地健三郎の呪える事件簿』発売記念!
「濱地健三郎シリーズ」1作目『濱地健三郎の霊なる事件簿』サイン本プレゼントキャンペーン


記事の感想をご投稿いただいた方の中から抽選で10名様に「濱地健三郎シリーズ」1作目『濱地健三郎の霊なる事件簿』サイン本をプレゼント!

【ご応募方法】
①KADOKAWA文芸編集部アカウント( @kadokawashoseki )をフォロー
②「#濱地健三郎の呪える事件簿発売記念」タグを付け、「濱地健三郎シリーズ」試し読みを読んだ感想&おすすめコメントをツイート
で応募完了!

【応募締め切り】
2022年11月7日(月)23:59ツイート分まで

キャンペーンの詳細はこちらをご覧ください。
https://kadobun.jp/news/campaign/entry-46840.html

ご応募お待ちしております!

作品紹介



濱地健三郎の呪える事件簿
著者 有栖川 有栖
定価: 1,925円(本体1,750円+税)
発売日:2022年09月30日

ここから読んでも楽しめる! 大人気心霊探偵小説第3弾!
探偵・濱地健三郎には鋭い推理力だけでなく、幽霊を視る能力がある。彼の事務所には、奇妙な現象に悩む依頼人のみならず、警視庁捜査一課の刑事も秘かに足を運ぶほどだ。リモート飲み会で現れた、他の人には視えない「小さな手」の正体。廃屋で手招きする「頭と手首のない霊」に隠された真実。歴史家志望の美男子を襲った心霊は、古い邸宅のどこに巣食っていたのか。濱地と助手のコンビが、6つの驚くべき謎を解き明かしていく――。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322104000334/
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