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試し読み

【新連載試し読み】この静かな町で、半年の間に五人の人間が消えた。最注目の俊英が描く、「壊れてしまった世界」。太田愛「彼らは世界にはなればなれに立っている」

1 月 10 日(金)発売の「カドブンノベル」2020年2月号では、太田愛さんの新連載「彼らは世界にはなればなれに立っている」がスタート。
その冒頭を公開します!



 序章

 右の耳に父が言う。
 ──おまえの体にはこの町の人間の血が流れている。始まりの町に生まれた者の誇り高く勇敢な血だ。
 見ろ、と父が北を指さす。
 ──あの山に眠る光る石と共に、我々の歴史は始まったのだ。
 父の目には、山へ向かう大勢の鉱夫たちの姿、そのき出しのたくましい肩から流れ落ちる汗の粒まで見えているかのようだ。
 父が生まれるはるか昔、この塔の地・始まりの町のれいめいの光景。町の人間にとって、呼ぶたびにこだまのように過去からよみがえる輝かしい残響だ。人々は力を合わせて働き、光る石は力強い心臓のように休みなく富を送り出し、港が造られ、鉄道が敷かれ、そうして、南の海岸線に沿って新たに第二の町から第六の町が生まれたのだという。
 しかし、父が指さす山に私が見ているのは、子供部屋から見えるいつもの風景だ。なだらかなりようせんに沿って風力発電のプロペラが並んでおり、先端が摩耗して黒ずんだブレードが眠たそうに回っている。
 あの山を守るために、と父は私の右の耳に言う、我々の祖先はこの地に塔を築いた。そこから水平線に現れる略奪者の船影を見張り、果敢に迎え撃ち、打ち負かしたのだ。
 父は誇らしげに広場の方角にきつりつする巨大な石の塔を振り仰ぐ。
 秋の終わりの庭には、父と私の長い影が伸びている。
 私は塔を見上げるふりをして、扉口にたたずむ母を盗み見る。夕食の魚を煮込むセージの匂いがしている。膝まであるエプロンは夕映えの鮮やかなオレンジに染まっているが、その上にあるはずの母の顔は、ポーチのひさしの陰に溶けて見えない。

 私が六歳の時、初等科に上がった年の記憶だ。この町にとって自分がどのような存在なのか、おぼろげにわかりかけてきた頃だった。
 長く故郷を離れ、見知らぬ地を転々としたのち、私はようやく帰郷の機会を得た。それはいわば、大きな航海の前に水夫に与えられる短い休暇のようなものだった。生まれ育った町を目指して夜を日に継いで旅を続けるあいだ、あの晩秋の庭のひとこまが、なぜかしきりと思い出された。
 帰り着いたのは明け方だった。うっすらと辺りが白み始めるなか、私は無人の広場に立って街並みを眺めた。
 始まりの町はすっかり変わってしまったと聞いていたので、悲しくはあったが驚きはしなかった。そこは一言でいえば、世界中のどこにでもある町のひとつになっていた。かろうじて昔日の面影を残しているのはこの石畳の広場だけだ。
 ──今さら君が帰ったところで、起こってしまったことは変えられない。
 きっとカイならそう言うだろう。
 あるいは、マリならこう言うだろう。
 ──泣いて元に戻るものなんて、この世にありゃしないんだよ。
 私は目印のついた一枚の敷石を見つけ出し、それを裏返す。三十センチほどの深さの穴にビスケットの円い缶がしまわれている。大きなリュックサックを背負って町を離れる前夜、私は缶をここに隠したのだ。かつて明るいブルーのティーポットが描かれていた蓋は、過ぎた歳月をものがたるようにさびに覆われていた。
 私は蓋を開いて中のものを取り出した。
 薄緑色の小さな硝子ガラス石。映画館のスタンプカード。封の切られていないひと箱の煙草たばこにはサンザシの小枝が描かれている。それらはいずれも忘れがたい出来事と結びついていた。しかし、なにより重要な意味を持つのは、油紙に包んだ一枚の写真だった。
 それは港に客船が入った日、この広場で催されたお祭りを写したものだった。
 夏の夕暮れ、広場は色とりどりの電球を連ねたイルミネーションで飾られ、塔を背にして仮設舞台が作られている。揚げ菓子や飲み物の屋台が広場を縁取るように建ち並び、ランタンを載せたいくつもの円テーブルでは町の人々や旅行客がくつろいでいる。
〈週報〉の発行人が試し撮りをしたもので、誰もカメラの方を見ていない。けれども私にとってこれは奇跡のような一枚だった。生涯けっして忘れることのできない人々が偶然にも、ひとり残らずここにおさまっているのだ。彼らは私にとって、始まりの町という星座をかたちづくる恒星だった。ゆがんだかたちではあったが、彼らがそれぞれの場所に存在していた町こそが、私の故郷だったのだ。
 写真の中の私は十三歳で、両親と共にテーブルに座って白い粉砂糖をまぶした揚げ菓子を頰張っている。父はビールのジョッキを手に母になにか話しかけており、淡い緑色のドレスを着た母はいつもの癖で少し首を傾けるようにして父の方を見ている。
 仮設舞台の正面、一番良いテーブルについているのは〈伯爵〉だ。伯爵といっても本物の貴族ではなく、遺伝的に受け継がれるらしい尊大な性格と突発的な大盤振る舞いによってそう呼ばれていた資産家で、このお祭りを思いついて気前よく資金を出したのも伯爵だった。
 伯爵は町の銀行、ホテル、映画館、缶詰工場、数隻の客船などを所有しており、さらに町の外にもいくつもの会社や工場を持っていた。そういうわけで、銀行が金で破裂するのを防ぐためだろうと人々はうわさしていたが、伯爵には数年に一度、長い船旅に出る習慣があった。何ヶ月もかけて海の向こうの地を巡り、そのつど膨大な土産もの──宝石や絵画はもちろん、踊り狂う奇怪な彫像、座ると妙な音をたてる椅子、用途のわからない巨大な牛の鼻輪のようなものまであれこれ持ち帰り、これまた伯爵のものである博物館に並べるのを喜びとしていた。
 それらの土産ものの中でも、もっとも華麗で洗練されたもののひとつとたたえられていたのが、伯爵の向かい側に座っている〈コンテッサ〉だった。
 驚いたことに、伯爵は旅の途上で出会った美貌の娘を正式な養女にして町に連れ帰ったのだ。コンテッサという呼び名は、表向きは彼女がホテルのバーで頼むカクテルの名前に由来することになっていたが、伯爵の妻がとっくの昔にパラチフスで死亡していたことと、伯爵の熱い視線に応える日頃の彼女の艶然たる微笑とを考え合わせれば、コンテッサが実質的なコンテッサ、つまり伯爵夫人であることは明白だった。
 伯爵たちのそば、舞台のかみ脇に控えているのは、長いローブをまとった〈魔術師〉だ。みずから百歳を超えていると豪語していただけあって、瘦せた体に腰まである髪も胸まで垂れ下がったひげも荘厳なまでに白く、ローブを尻までめくり上げて石畳の上の吸い殻を拾い集めてさえいなければ、それなりに立派に見えたことだろう。
 肝心の『魔術』の方はというと、消えたはずのはとの脚が箱から突き出てけいれんしていたり、仕掛けの二重底がはずれているのがまる見えだったりで、きちんと成功したことはかつてなかった。それでも本人は一向に気にせず、魔術師然とした気取った動作で笑顔を振りまくものだから、町の人間は魔術は驚くものではなく、笑うものだと信じていた。
 魔術師の反対側、舞台のしも近くにいるのが、〈なまけ者のマリ〉だ。マリはどこにいても目をひいた。この町でただひとり褐色の肌をもっていたからだ。
 写真の中のマリは三十歳前後、片手を腰に当てて物憂げに煙草を吸っている。
 マリの登場はひとつの事件として町の人々に記憶されていた。ある冬の早朝、伯爵の料理番が魚を仕入れに出たおりに、海岸公園に倒れている子供を発見した。見たこともない褐色の肌をしたその子供は、こんぼうのようなもので殴られたらしく、頭頂部に縦に開いた傷口から血を流していた。
 驚いた料理番は魚を積んだ荷馬車に乗せて高台のお屋敷に連れ帰ったのだが、忙しさに取り紛れて子供のことを忘れてしまった。後に経緯を知った町の人々からうっかりにもほどがあるというあきれた声があがったのに対して、料理番は先代の伯爵が亡くなってから半月というもの、中央府から鉄道に乗ってだらだらと五月雨さみだれ式にやってくる弔問客につつがなく料理を振る舞うことがどれほど大変なことか、客船の観光客に浮かれていた人間になど決してわかるわけがないと目に涙をためて反論したという。
 そんなわけで数日後に執事が荷台で眠っている子供を見つけて料理番に問いただし、おそらく客船に乗ってきた誰かが町に捨てていったのだろうという結論に至った時分には船はすでにはるか海の向こうの港にあった。頭の傷からある程度予想されていたことだが、問い合わせに対し保護者だと名乗り出る者はいなかった。回復した子供は名前もなにもいっさい答えず、仕方なく執事がマリと名付けた。
 当時マリは見たところ七、八歳くらいで、体つきもしっかりしていたので、ホテルの洗濯場の夫婦が下働きとして引き取った。その夫婦が腹にすえかねるほど嫌なやつらだったのか、あるいは頭に負ったの後遺症だったのかは定かではないが、最初の一年ほどマリは一言も口をきかなかったらしい。
 夫婦が亡くなり、マリが映画館の受付に座るようになったのがパラチフスが大流行した翌年で私が初等科に上がった年だった。だから私の記憶の中にあるのは、この写真のマリともうひとつ、映画館の受付に座っているマリの姿だった。
 マリの左側にひとりの老婆が写っている。全身がブレていることから、かなりの速さで舞台と逆方向に歩いているのがわかる。老婆は黄色いパラソルを差しており、そのパラソルに対する愛着がいささか度を越していたため、町では〈パラソルの婆さん〉と呼ばれていた。
 土砂降りの雨の日、パラソルの薄い布を貫通して降り注ぐ雨にずぶれになりながら、平然と通りを行く婆さんの姿は町の恒例の風景となっていたし、三月の大風の日など、おちょこになったパラソルを握ったまま街灯と壁の隙間にはさまっているのが発見されたのだが、人々が救出する間もけっしてパラソルを離そうとせず、取り上げようとしようものなら金切り声をあげて抵抗した。
 噂によると、そのパラソルはコンテッサが老婆に与えた護符のようなものらしかった。
 ある夏、どこからともなく町に現れた老婆は、突然通りで妄言をわめき散らして人々を驚かせた。そこへたまたまコンテッサが来合わせて老婆に自分の黄色いパラソルを手渡したところ、たちまち羊のようにおとなしくなったという。以来、老婆はパラソルを肌身離さず持ち歩いていたのだが、ひとつだけ護符の力をもってしても抑えられない奇癖があった。老婆はなぜか図体のでかい男を深く憎悪しており、見つけるやいなや容赦ない罵声を浴びせながらパラソルで打ちかかるのだ。
 その格好の標的となっていたのが〈怪力〉だった。
 呼び名のとおり、怪力は並外れた筋力をそなえていた。町に来た当初は浜で引き網漁の引き子として日雇い仕事をしていたのだが、あるとき道を歩いていてぎようこうに出くわし、人生が一変した。私はその一部始終を目撃していた。
 その日、坂道の下に一台の車がまっていた。町に二台きりの自家用車はいずれも伯爵が所有していたが、停まっていたのはそのうちの大きな方で、馬車のような箱型の車だった。運転席ではお抱え運転手がなんとかしてエンジンをかけようと奮闘していたが、車はぜんそくの発作を起こしたように乾いた音をたてて身震いするだけで、後部座席の伯爵はいらちもあらわにステッキで運転手の制帽を小突いていた。車は高台のお屋敷に戻る途中で故障して立ち往生していたのだ。
 通りがかった男たちがすぐさま褒美めあてに車を押して動かそうとしたが、急勾配の坂を数メートル押し上げるのが精一杯で、何度やっても磁石にでも引かれるように元の位置に戻った。ついにかんしやくを起こした伯爵は車を降り、ステッキを振り回して役立たずどもを追い払ったのだが、その時、遠巻きに眺めていた女子供のさらに後ろに、頭三つほど飛び出た怪力の巨体を見出したらしく、ステッキの先で怪力を指して、そこの者、と言った。やってみろ、が省略されているのは明白だった。
 怪力はびっくりして立ちすくんだが、伯爵は早くしろというように再び車に乗り込んだ。
 怪力はわなにかかった動物のように切羽つまった顔をして車に近づいた。それから意を決した様子で車体の後部に両手をつくと、足を踏ん張り、歯を食いしばって力を込めた。大きな黒い車体がゆっくりと動き始めた。やがて男たちが押し上げた地点を過ぎても、まるでタイヤと坂道が目に見えない歯車でみ合っているかのように車はじりじりと坂道を上り続けた。真っ赤になった怪力の顔からは汗がしたたり落ち、食いしばった歯の隙間からうなり声が漏れた。私を含めて子供たちは、いつのまにか車を追って声援を送っていた。そしてとうとう怪力がひとりで車をお屋敷まで押し上げた時には、ついてきた大勢の人々が我を忘れて歓声をあげた。
 伯爵は自分の役に立つことがどれほどの恩恵をもたらすか、機会あるごとに人々に知らしめるのを怠らない性格だった。そこで、高齢で耳が遠くなっていた博物館の警備員を引退させ、新たな警備員として怪力を雇い、さらに家具付きの夜警室を住居として提供したのだ。
 以来、怪力は青いサージの制服を着て博物館に座るようになった。口数の少ない控えめな性格だったので、来館者を黙って見ているという仕事は性に合っているようだった。もっとも普段は訪れる者もほとんどなく、やることといえば窓から迷い込んだテントウムシを捕まえて外に逃がしてやるくらいだったけれど。
 写真の中の怪力もやはり警備員の制服姿で、パラソルの老婆の襲撃から首をすくめて逃げ出そうとしている。怪力と一緒にいた〈葉巻屋〉が先に気がついたのだろう、おどけた身振りでパラソルの老婆の方を指さしている。
 すり切れた鳥打ち帽をかぶった葉巻屋は、町一番の情報通だった。といっても、葉巻きを買いに来た客から噂話を仕入れていたわけではない。そもそも葉巻屋は、葉巻きを売っていなかった。煙草の吸い殻をほぐして残り葉を集め、それを薄い紙で巻き直して売ることをなりわいとしていたのだ。そのため一日の半分は人の集まる場所をあちこち歩いて吸い殻を収集しており、おのずと様々な情報が耳に入ってきたわけだ。
 葉巻屋はよくしやべる陽気な男で、鼻歌を歌いながら一本の煙草を五秒で巻く熟練の技の持ち主だった。また商才もあったらしく、燃えにくいおがくずを葉に混ぜて吸い終わるまでの時間が長くなるように工夫したり、自主的に吸い殻を集めて持ってくる者に煙草を値引きして売ってやったりしてそこそこに繁盛していた。
 古い写真には、私と同じように当時まだ家の中の子供だった二人も写っている。
 ひとりは赤毛のハットラ。彼女は両親にはさまれて円テーブルに座っている。あのころ、ハットラはたったひとりで広い世界に通じる扉を開けようとしていた。
 もうひとりは優等生のカイ。彼は分厚い本を抱え、憂いに沈んだ横顔を残し、広場を立ち去ろうとしている。カイはこの町の暗い秘密を知ってしまったことで苦しんでいた。だが私はそのことに気づかなかった。

 伯爵、コンテッサ、魔術師、なまけ者のマリ、パラソルの婆さん、怪力、葉巻屋、赤毛のハットラ、カイ、そして父と母。
 私がいま立っている広場に、あの夕暮れ、彼らがいた。
 なにをすればあのあとに起こったことを防げたのか、今でもわからない。
 写真が撮られてからほんの半年のあいだにいくつかの事件が起こり、このうちの五人が町からいなくなった。それらは互いに響き合うように発生した一連の出来事であり、同時に深部にひとつの根を持つ事件でもあった。けれども、そのことに私が思い至ったのはずっとあとになってからだった。
 私は写真を手に、もう一度、変わり果てた町を眺めた。
 もしかしたら、いなくなった五人は、私がこのようなかたちで町に帰ってくることをも予期していたのではないか。
 初めてそう思った。

 最初のひとりがいなくなったのはお祭りの四日後、七月最初の木曜日のことだった。

このつづきは「カドブンノベル」2020年2月号でお楽しみください!


「カドブンノベル」2020年2月号

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