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試し読み

伊坂幸太郎、幻の<殺し屋シリーズ>未完中編「Drive」、期間限定試し読み① 文庫『AX アックス』発売記念(〜4月30日まで)

2/21(金)に発売された伊坂幸太郎さん文庫最新刊『AX アックス』は、「AX」「BEE」「Crayon」「EXIT」「FINE」の全5編の連作集。各編の頭文字が「A」「B」「C」「E」「F」となっており、「D」が抜けていることにお気づきでしょうか?
幻の「D」は、実は「Drive/イントロ」という題名で「小説 野性時代」2015年11月号に掲載されたものの、書籍には未収録。
今回は文庫『AX』の発売を記念し、その未完中編の全文を、特別に期間限定で公開!
『AX』の主人公「兜」が家族とドライブ中に、物騒な事態が……。新たな殺し屋も登場。ぜひお楽しみください!

伊坂幸太郎さんより:「Drive」について。

兜のお話を、「AX」「BEE」「Crayon」という三つの短編で書いた後、もう一つ、中編を書き上げて単行本にするつもりでした。『ジャッカー』という少し昔の映画が好きだったので、それに倣い、殺し屋と車の出てくるエンターテインメント小説にしようかな、と「Drive」というタイトルで書きはじめました。「兜の家族」「ぎっくり腰の天才狙撃手と年下の相棒」「害虫駆除の奇妙な男とその友達」といった三組が東京湾アクアラインのパーキングエリア「海ほたる」で出会う、といった漠然としたイメージだったのですが、全体の三分の一ほどを書いたところで行き詰ってしまいました。ストーリーがどうこうというよりも、僕自身のモチベーションが原因です。結局、一年ほど時間をかけて気持ちを切り替え、まったく別のお話、「EXIT」「FINE」を書くことで一冊の本にすることはでき、これはこれで結果的には良かったのかなと自分では思っています。というわけで、「Drive」は僕の中では、発表する予定のない未完成のものなのですが、今回、『AX』文庫化記念に公開してもらうことになりました。正直なところを言えば、改稿の余地はたくさんありますし、たとえば天才狙撃手の名前が「鷹」なのですが、これは別の作品『オー!ファーザー』の登場人物と重なっていますから、そのことも自分では引っかかっています(どうして気づかなかったんだろう)。ですので、「作品」として読んでもらうのには少し申し訳ない気持ちもあります。「こんなのもあったんだね」といった気楽な気持ちで、(下書きを眺めるような感覚で)読んでいただければ幸いです。


 わたしは優しい。妻は言ったが、自ら口にする段階で真実味はなくなる。優しいかどうかは他者が決めるものだからだ。妻もそれは分かっている。だから、最も近くにいる他人、兜に向かい、「よね?」と訊ねた。「わたしは優しいよね。そう思わない?」
「まさにそのことについて俺も考えていたところなんだ」
「あら」彼女は言いながら、赤のアテンザの後方に移動し、大きなバッグをトランクに詰めた。
 兜は、恐妻家にプロとアマチュアがあるならば、と思う。もしアマチュアなら、妻が荷物を運ぶことを気にし、「重いだろ。運ぼうか」と声をかけるだろう。そして、荷物を実際に持ってあげるに違いない。が、妻には妻の考えと、やり方がある。下手に夫が横から口や手を出すことで、「自分のやろうとしていたことが阻害された」と不満を抱くことがある。もしくは、「わたしだって、これくらいの荷物、運べるのに」と立腹する可能性もある。
 妻が依頼してきた時、その段階で初めて手を貸す。彼女の指示通りに。
 そこまで分かっている自分に兜は、誇らしさを覚える。
 が、妻がトランクを閉めた音が少し大きかったことが気にかかった。その音の大きさは、彼女の不愉快の表われに感じられたからだ。「今は、こちらから声をかけて、鞄を運ぶべきだったのか」と自信を失う。正解はなかなか分からない。恐妻家と呼ばれる者たちはみな、同じ悩みを抱えているはずだ。一流のディーラーたちがマーケットの流れを完全に読むことができないのと同じだろう。彼らは「まさに株式市場は生き物ですから」と言う。「だから、その瞬間瞬間でどうすべきかは変わるんですよ」と。それと同じだ。「まさに妻は生き物ですから」という文章が過る。
「親父、これはトランクがいいかな?」円形に畳まれた簡易テントを持った克巳が訊ねてくる。「というか、こんなの使うの」
「どうだろうな」
「おふくろが念のため、持って行こうと言ってたけれど。鴨川シーワールドって水族館でしょ?」
 目的地は東京湾の向こう側、房総半島の東側、老舗水族館だった。兜は一度も行ったことがなかったが、キャンプ場があるとも思えない。だが妻が言うのならば、持って行くほうが良いだろう。「トランク内がいっぱいなわけでもない」と自らに言い聞かせるように、言った。「おまえと遠出するのも久しぶりだな」
 兜としては、高校三年生の克巳と出かけられること自体は嬉しかった。思春期の高校生にとっては親は鬱陶しい存在に他ならない。しかも克巳が受験生となってからは、学校や勉強とは縁遠い兜としてはいっそう、どう接していいのか分からず、距離を置いていた。どうにか希望の大学に入学が決定したらしく、ほっとしたところだ。
「本当に運転させてくれるの?」
「あ、そうだよな」「おふくろには?」「まだだ」「やっぱり」「おまえのことが心配なんだよ」
 克巳はいつの間にか教習所に通っており、運転免許を取得していた。今時の若者は車に対する憧れや興味がない、と聞いていたから意外ではあった。妻は例によって、母親ならではの勘繰る力を発揮し、「大学生になったら、軽薄な仲間に唆されて、海とかビーチとかに車で行かされるんじゃないかな。煽られて、スピードを出し過ぎて、電柱にぶつかるんだから」と心配を兜にぶつけた。海とビーチの違いが分からなかったが、それ以上に、彼女の語る克巳の危機がいつも、被害者としての心配ばかりであることには、一言申したくもなる。人を傷つけるどころか、命を奪うことを仕事にしている兜からすれば、息子が加害者側に立つことへの心配も常にあった。積極的に犯罪に関与するような息子でないのは確かだが、その気はなくとも良からぬ思惑に巻き込まれたり、知らぬうちに罪に加担していたりすることはありえる。兜は今まで、そういった若者を何人も見たことがある。とはいえ、そのことを妻に話すつもりはない。
 今回の鴨川までのドライブに克巳が参加するのは、「車を運転してみてもいいぞ」という兜の、裏工作、裏取引のおかげだった。そうでもなければ、十八にもなって、親とイルカのショーを見に行ったりはしないだろう。とはいえ取引のことを明かせば、そんなことを勝手に約束して! と怒られるに決まっているため、当日の今になってもまだ、そのことを妻に言えないでいた。
「頼むよ、親父。約束だよ」「海ほたるまで行ったら、そこからおまえが運転ってことでどうだ?」「じゃあ、それで」
「何こそこそ喋ってるの」助手席に座っていた妻が出てきた。
「いや、何でもないよ」兜は慌てて説明する。
 午前十時前だ。高速道路を使い、道が混んでいなかったとしても鴨川の水族館までは往復で三時間は見たほうがいい。日帰りするとなれば、それなりに慌ただしかった。
 運転席でベルトを装着する前、屈みながらシートの下に手をやる。座席の裏に細長い棒状のもの、セラミック製のニードルをはめ込んであり、それを手で確認した。先が尖っており、取り出せば武器になる。家族旅行には不要に思えたため、外していくべきかどうかと少し悩んだが、「わたしは優しいなあ」と助手席の妻が言ってきたため、手を離し、背筋を伸ばした。
「優しい?」
「浮気した夫を、ドライブに行くことで許してあげるんだから」
「浮気? 親父、浮気したの?」後ろの座席に乗ってきた克巳が驚きの声を出す。
「濡れ衣だよ、濡れ衣。ほら、そういうことを言うと克巳だって勘違いするだろ。完全な誤解だ。だろ」
「まあね」さすがに妻もそれは認める。「でもまあ、紛らわしかったから」
「紛らわしくなんかない」「推定無罪だからしょうがない」「推定も何も無罪なんだ」


 疑いの目を向けられたのは、以前、通っていたボルダリングジムで一緒になった女性との関係についてだった。二十代後半の会社員で、仕事が終わった後に時折、ジムに来てはそのジムの壁を登っていた。らしかった。兜は正直なところ、ジムに通っていた時にはその女性のことを意識したことがなく、いたかどうかも覚えていなかった。ボルダリングジムで覚えているのは、とある社会人男性と程よい距離感の友人関係が築けたことだけだ。
「あ、ごぶさたしています」その女性が声をかけてきたのは、ファミリーレストランでだった。杉並区の、兜の自宅近くにある店で、本来であれば家族全員で夕食を、という話だったのだが、克巳が、「俺はパンでいいよ」とすげない返事をしてきたため、妻と二人でテーブルに座っていたのだ。
「パンで、という言い方はないと思わない? パンが、でしょ。パンに失礼だよ」妻が、克巳に対する不満を吐露し、兜は、「うんうん、確かに」と肯定の相槌を打っていた。そして時折、「パンで、はひどいよな」と相手の発言をそのまま復唱する。
 そこに、「あ、ごぶさたしています」が来た。
 顔を上げれば、細身で薄着、肩ほどの髪が似合っている女性がいた。背は高いほうかもしれない。胸元の開いたワンピースを着ている。
 兜はその挨拶が自分に向けられたものなのかどうかもはっきりせず、周囲をきょろきょろしてしまう。
「あら」と妻が言いながら、兜を見た。
「あ、突然すみません。前に、ボルダリングジムでよくお見かけしていたので」
「ああ」と兜が言ったのは、あくまでも、「ボルダリングジムであれば、会っている可能性はあるな」といった程度の感想を抱いたからだが、妻はその、「ああ」には深い意図、後ろめたさやごまかしが含有されていると思ったらしく鋭い目で睨んできた。
「最近は、もう行ってないんだ」兜は言う。
「知っています。わたしもそろそろやめようと思っているんです」
「ああ、そう」
「浮気は良くないと思って」
「え?」
「あ、いえ」彼女は微笑みながら、手を振る。「わたし、空手をずっとやっていたんですけど、それに集中したほうがいいかと思って」
「空手からボルダリングに浮気してはいけない、という意味で、浮気と言ったんだね」兜は念入りに、解説してみせる。誤解を招いてはならない。
「じゃあ、三宅さん、また」と言い、彼女は去った。
 どうして自分の名前を知っているのか、と兜は疑問に感じたが、おそらくはボルダリングジムでトレーナーが呼んでいたのを聞いたのかもしれない。
「あの人、どういう人?」妻が訊ねてくる。
「どういう人も何も、知らないよ」狼狽してはならない。「ボルダリングジムが一緒だったんだろうね」
「そんな他人事みたいに」
「いやほんと、知らないんだ」
「向こうは名前も知ってたけれど」
「記憶力がいいんだろうね」兜は冗談まじりに言ったが、妻は、「どういうこと?」と詰め寄ってくる。「そういえば、ボルダリングジムで親しくなった人と飲んでくる時があったよね?」
「あれは、男性だ。娘さんのいるお父さんで」
「あなたが言うにはね」と訝るような言い方をする。
「俺が言おうが誰が言おうが」
「まあね」
 さすがに追及に無理があると、妻も分かってはいるようで、その点はほっとしたが、それ以降、妻はどこか機嫌が悪く見えた。ことあるたびに溜め息を吐き、兜の帰りが遅くなると、それはもちろん仕事の関係上、遅くならざるを得なかったからなのだが、もしかするとあの女の件で怒っているのか、と気を回したくなった。冷静に考えれば、常日頃から妻の態度はそのようなものだったはずだが、少し気がかりがあると、特別な理由があるように思えるから不思議だ。
「空の天気を見て、日頃の行いがどうこう、と反省するのと同じだな」天気も妻の機嫌も、ちっぽけなこちらの存在とは無関係に、変化する。
「親父、天気がどうしたの」
 夜のリビングで雑誌をめくりながら、兜は独り言として呟いていたようだった。克巳はいつの間にか二階から降りてきたらしく、そう言った。冷蔵庫を開け、麦茶をグラスに注ぎ、飲んでいる。そこで、車の運転免許の話になり、「今度、ドライブにでも行くか」となった。
 妻は最近、克巳の親離れが進んだことに寂しさを覚えているから、家族で出かければ少しは気分も良くなるだろう、という読みもあった。それで、浮気の罪滅ぼしになるだろう、と思いかけ、苦笑する。浮気は明らかにしていないにもかかわらず、もはや、自分が罪を犯したような気分になっているのだから、恐ろしい。

 アテンザは国道を抜け、インターチェンジを入ると首都高湾岸線に入る。後ろの席に座る克巳は、いつもは親に関心も払わず、「自分は関係ない」といったスタンスを取るのだが、さすがに運転には興味があるのか、ハンドブレーキ近くまで身を乗り出し、兜の運転方法やフロントガラスからの光景をよく見ていた。
 高速の料金支払所のETCゲートを通る際には、どういう段取りで行けばいいのかを兜に確認する。子供に対して教えられることがある、とは幸せの一つに違いない。話しながらも兜は悦びが胸に広がるのを感じる。
 高速道路では、つい追い越し車線に出て、速度を上げ、いいところを息子に見せたくなるがすぐに思いとどまる。事故でも起こしたら目も当てられない。惜しいと思えるような人生ではなかったため命は惜しくなかったが、妻と息子に何かあったら、と考えると恐ろしくて仕方がない。
 一方で兜は、大井パーキングエリアに寄るべきかどうか、とそのことに頭を悩ませていた。
 予定では寄るつもりは微塵もなかった。
 が、予定通りにはいかないのが世の常だ。
 首都高に乗る直前にメールが届いた。ドリンクホルダーに入れておいたスマートフォンに着信した。運転中であるから放っておいても良かったが、前の信号が赤になり、手すさび半分にメールを読んだのだが、その差出人が、診療所の医師の名前であることに、まず嫌な予感を覚えた。兜に仕事を依頼してくるのは、その医師だからだ。兜はいつもその診療所に行き、患者が診断を受けるようなふりをしながら、指示を受ける。つまり、どこそこのだれそれの命を奪うように、という注文を出されるのだ。若い頃の兜は、そこから発注される仕事によって、生活を送ることが、つまり人生を歩むことができた。が、家族ができて以降は、その業界から足を洗うことを望むようになった。少しでも早く、業界から遠ざかり、家族との平和な時間をできる限り長く味わいたい。今までの自分の、非道かつ非情な仕事を考えれば虫が好すぎる希望だとは承知していたが、兜はその思いを捨てきれなかった。とはいえ通常の会社とは異なり、兜のいる業界では、自己都合で辞めるのはなかなか難しい。
 普段は診療所で仕事の話をし、メールはほとんど使わない。よほど急ぎの連絡なのか、と警戒せずにいられない。
 メールの内容は短かった。
「大井パーキングエリアに立ち寄ること。渡すものがある」
 こちらの居場所が分かった上での、メールだ。兜のスマートフォンのGPSの検索は、医師も行うことができる。もちろん、望んではいない。飼い犬扱いされているようで、不快感しかなかったが、それは約束の一つだった。行方を晦ますようなことがあれば、その時点で反旗を翻したことになる。追われる身になるのは間違いない。
 兜も海千山千、それなりの危険は乗り越えているから、すぐに捕まるようなことはないかもしれぬが、裏切者や憎らしい相手に対しては、しつこいのが業界の人間の特徴だ。
 有名なのは、数年前に、娘の元恋人を追いはじめた男だ。大事な一人娘に暴力を振るった末に逃走した若者を許せないがあまり、自分たちの部下をその男の追跡に総動員することを選んだ。
「それだけ捜して、見つからないんだったら、もうそいつはいないんじゃないか?」兜は以前言ったが、すると情報屋の桃は、「公共事業みたいなものだよ。その事業が有意義かどうかは別にして、仕事が生まれるのはみんなにとってありがたい」と笑った。
「何のメール? 仕事?」助手席の妻が言ってくる。関心があるのかどうかも分からなかったが、訊かれたからには答えなくてはいけない。
「まあね。ただ、急ぎではないようだ」ちょうどそこで信号が青になり、アクセルを踏む。
 位置情報から、兜が車で首都高に入ることを予想していたのだろうか。どこに向かうかまでは把握できていないはずだ。いちかばちかだったのか、どういう予定であろうと口実を見つけて、大井パーキングエリアに行け、ということなのか。
 渡すもの、とは何なのか。
 余計なことには関わりたくない。が、無視することもできなかった。

第2回へつづく
※本試し読みは、4/30(木)までの期間限定です。

伊坂幸太郎『AX アックス』特設サイトhttps://promo.kadokawa.co.jp/ax/


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