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試し読み

【試し読み③】『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』〈§1〉物が集まっただけでは世界にならない

 試し読み第三回ではいよいよ、『論理哲学論考』の本文に入っていきます。
 授業を受けるように、読んでみてください。

>>#1〈はじめに〉
>>#2〈§0 『論理哲学論考』の目的と構成〉

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§1 事実の総体としての世界、可能性の総体としての論理空間
  ──一〜一・一三節

【抜粋】

 一 世界は、成立している事柄の総体である。
 一・一 世界は事実の総体であり、物の総体ではない。
 一・一一 世界は諸事実によって規定される。さらに、それらが事実のすべて・・・であることによって規定される。
 一・一二 なぜなら、事実の総体は、どのようなことが成立しているかを規定すると同時に、どのようなことが成立していないかも規定するからである。
 一・一三 論理空間のなかにある事実が世界である。
 ……

【解説】
物が集まっただけでは世界にならない


 以上が、『論考』冒頭の一連の文章である。
 先に「§0 『論理哲学論考』の目的と構成」でも述べたように、この著作の最大の難所はいきなりやってくる。つまり、出だしから前半五分の一あたりまでが最もとっつきにくい。したがって、ここは焦らず、根気強く、ゆっくり理解を進めていってほしい。
 さて、この一番台の節では、世界とは何か、世界はどのような要素から構成されるか、といったことが確認されている。もう一度、本文を読み返してみよう。
「世界は、成立している事柄の総体である」、「世界は事実の総体であり、物の総体ではない」、これは当たり前のことを言っているようにも思えるかもしれない。しかし、この一節と一・一節で指摘されているのは、世界とは何かをめぐる基本的かつ重要なポイントである。
 世界は、成立している事柄・・、つまり事実の総体(事実すべての集まり)であり、の総体ではない。もしも逆だったらと考えてみよう。つまり、世界とは物の総体であり、事実の総体ではないとしたら、どういうことになるのだろう。
 簡単に言えば、こういうことになる。ただ物が集まっただけでは、それらの物がどうなっているか、あるいは、物と物がどういう関係にあるかといったことが、全く分からなくなってしまう、と。
 具体例で考えてみよう。たとえば、いま私がいる部屋のテーブルの上には、リンゴやみかん、パソコンなどがある。──いや、「ここにリンゴがある」などと言うことはできない。なぜなら、ここにリンゴがあるということ・・(事柄、出来事)は事実だからである。世界が物の総体であり、事実の総体ではないとしたら、「ここにリンゴがある」という事実すらも世界には含まれなくなってしまうのだ。また、当然、リンゴが赤いこと・・や、リンゴが果物であること・・、いまテーブルの上にリンゴがあること・・、リンゴの横にみかんがあること・・等々、具体的な物の性質や物同士の関係なども世界に見出せないことになる。つまり、世界がリンゴやみかん、パソコンなどの物の集まりであるとしたら、それらがいかにあるかも、それらがそもそもあるかどうかも言えなくなる。だから、世界が単なる物の総体であるはずがない。というより、我々が出会う世界は、まずもって事実の総体でなければならない。我々ははじめから、ここにリンゴがあることや、リンゴが何らかの色をもつこと、リンゴの横にみかんがあること等々に出会うのである。
 この、世界がまずもって事実の総体であるというポイントは、次のような仕方で表現することもできるだろう。たとえば、「リンゴ」という自体は真にも偽にもなりえない。「リンゴは真である」とか「リンゴは偽である」ということは全く意味を成さない。真偽を言えるのは、「リンゴが赤い」とか「テーブルの上にリンゴがある」といったこと・・なのである。そして、そうしたこと・・が実際に成立しているとき──たとえば、実際にリンゴが赤かったり、テーブルの上にリンゴがあったりするとき──、それらは「真である」とか「事実である」と呼ばれるのである。

事柄のすべてが「論理空間」を構成する


 世界は事実の総体である。そして、事実の総体とは、成立している事柄のすべてである。したがって、事実の総体とは、どのような事柄が成立していない・・・・・・・かも同時に定めるものである。それはちょうど、自分がこれまでどの都道府県に行ったかがはっきりすれば、それによって同時に、自分がこれまでどの都道府県に行っていないかもはっきりするようなものである。これが、一・一節へのコメントとなる一・一一節と一・一二節でウィトゲンシュタインが述べていることの中身だ。
 成立している事柄であれ、成立していない事柄であれ、それらのすべて──世界の可能性の全体──を、彼はさらに一・一三節のなかで、「論理空間」と呼んでいる。この用語は今後頻出するから、いま簡単に解説しておこう。
「空間」とはここでは、可能性の全体を指す。たとえば、いま私がいる研究室という空間──いわば「私の研究室空間」──は無数の可能性に満ちている。いまは机の上にはペンが一本あるが、これは引き出しのなかにあることも可能だ。また、いまは机の右端にマグカップがあるが、これは左端にあることも可能だし、いまよりあと数センチ左寄りにあることも可能だ。本棚の本をいまとは別様に並べ替える仕方も、それこそ途方もない数にのぼるだろう。そして、言うまでもなく、可能性の全体としての空間は、この狭い研究室よりも遙かに広い。私がエベレストの山頂に立つことも、百二十歳まで生きることも、これから事実と化すことはまずないだろうが、可能性としては言及できるのである。
 ウィトゲンシュタインの言う「論理空間」とは、我々に想定しうるだけの可能性が目一杯寄せ集められた、最も広い空間のことだと言える。そこでは、私は火星に降り立つこともありうるし、銀河系を脱出することもありうる。また、織田信長がスターリンと握手することもありうる。(戦国時代に人知れず存在していた天才が、織田信長をサイボーグ化して延命させたのかもしれないし、あるいは、ソ連の天才科学者がタイムマシンを発明してスターリンを過去に送り込んだのかもしれない。)さらに、明日太陽が昇らないことすらありうる。(今日これから突然現れる宇宙人が、太陽を爆発させたり軌道をずらしたりするかもしれない。)
 つまり、蓋然性(起こる確実性、可能性の程度)がどれほど低く、荒唐無稽なことであろうとも、また、タイムトラベルのように物理的には不可能なことであろうとも、少なくとも意味を成していさえすれば──論理的に誤りとまでは言えず、その意味で論理的には・・・・・可能なこと・・・・・なのであれば──それらはすべてこの最も広い空間に含まれる。
 逆に言うなら、「マグネットの次は織田信長だ」という文字列のような、そもそも意味を成していないこと──論理的・・・に破綻していること──はさすがにこの空間には含まれない。ウィトゲンシュタインの言う「論理空間」とは、さしあたりそのような、最低限意味を成していることの全体を指すと捉えておいてほしい。事実であれ虚構であれ、ありとあらゆる可能性の全体を、彼は「論理空間」と呼ぶのである。(なお、ウィトゲンシュタインが「論理」および「論理空間」という言葉に対して正確にはどのような意味合いを込めているかについては、もっと後になってから本格的に検討する。)

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 いかがでしたでしょうか。
 最初、「世界は、成立している事柄の総体である。」で(???)となった人も、古田先生の説明でウィトゲンシュタインが何を言っているのかがわかっていただけたのでは。
 この調子で、わかりやすい例を出しながら丁寧に解説してくれるので、きっと一冊読み終わったときには『論理哲学論考』が語れるようになっていると思います。ぜひ、チャレンジしてみてください!
古田 徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 (シリーズ世界の思想)』


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最新号 2019年9月号

8月10日 配信

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