繰り返す夢から脱出できるか? 大人のための冒険ホラー! 新井素子「絶対猫から動かない」#35-4
新井素子「絶対猫から動かない」

※この記事は、2020年1月10日(金)までの期間限定公開です。
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この子は……中学生なのだ。ただ、単に、中学生なんだ。それだけ、なんだ。(それに、多分。今、死にかけている女子中学生の、とても親しい友達なんだろうと思う。今死にかけている子は、この子の親友……っていうか、とても大切な友達なんだろうと思う。)
言い換えれば。
この子は、子供なのだ。
中学生だから。子供だから。だから、三春に、〝ぺち〟をすることができたのだ。
子供である、ということは、ある意味でとても強い。
何せ、子供は、未熟だ。社会経験がまるでない。
俺には、できない。
俺が何かやろうとする時には、嫌でも俺、考えてしまう。これから俺がやろうとすることは、現状、プラスになるか、マイナスになってしまうかを。
けれど。
いや、もう、俺、自分が子供だった時は、記憶にないけれど。そのくらい、
そして。
今、三春に〝ぺち〟ってやってしまった子供は……多分、それ、なんだよ。
何も考えていない。
とにかく、やりたいことを、やってしまった。
三春に、〝ぺち〟。
……やりたかったんだろうなあ。
実の処、俺も、やりたい。けど、俺にはできない。
〝ペち〟。
そうしたら。
三春が、言ったのだ。
「あの……ねえ……」
ぺちってやった、その中学生の手を押さえて。
ただ……三春、まだ、目を瞑っている。
絶対に、その中学生を見ないようにしている。
「あんた。名前も知らない、中学生のあんた」
こう言われた瞬間、中学生が息を吞むのが判った。〝ひっ〟って……それこそ、ひきつったような声を出す。
そして、その中学生の手を押さえたまま、三春は。
「なんか……あんたの気持ち、判らないこともないような気がしないでもないような……って、そりゃ、判るんだか判らないんだか、言っててよく判らなくなったんだけれど」
おや。何だか三春も混乱している感じだ。
「昔、三春ちゃんがまだ三春ちゃんになる前、あんたみたいな人間がいたような気が、しないこともなくて……えー、よく判らないんだけれど、そんな時、三春ちゃんになる前の三春ちゃんは、なんだかとってもあったかい、そして、神聖なものに触れたような気持ちになって、うん、人間の〝気概〟みたいなものに触れると、妙に感動を覚えることがあって……だから、その時、三春ちゃんになる前の三春ちゃんは」
もう、三春が何を言いたいんだか、よく判らない。いや、三春自身が、自分が何言ってんだか、よく判っていない気配だ。
「で、その……何が言いたいんだか、三春ちゃんも、よく、判らなくなったんだけどね、けど、その……中学生」
こう言うと、目を瞑ったままの三春、軽く、中学生の額を、人指し指でぴんっと
「あんた、中学生、そりゃ、無謀ってものだからね。あんたの分際で、三春ちゃんを平手打ちしようだなんて、もう、無謀としか言いようがない」
あ。三春自身は、自分にされた〝ぺち〟を、平手打ちだって認識している訳か。
で、この三春の言葉を聞いた中学生は……〝ぺち〟をした中学生は、息を吞み……そして、それから。
「ひっ」
また、息を、吞んで。
「ひっ」
もう一回、息を吞んで。そして、それから。
「ひっ……ひっ、ひっ、ひっ、ひくっ」
大きく息を吸い。そして次の瞬間、この中学生、いきなり泣きだしたのだ。
「ひくっ! ……ひっ! うえ……え、ええええんっ」
え。この局面で、泣く、か?
俺はそんなこと思っていたんだけれど、中学生の方は、そんな俺の思いも知らずに。
「え……えええんっ!」
本気で、身も世もなく、泣きだしちまいやがんの。
「こ……こ……怖いいー」
だから、そんなこと、今更言うな!
「怖いー、けど……けど……許せない、いー」
でも。泣きながらも、中学生、まだ必死になって、何かを言っていて。それから、もう、鼻水まみれで、泣きながらも、もう一回、右手を、後ろに引いたのだ。
うしろに引かれた右手。この右手は、ほっとくと……多分、次の瞬間しなって……三春の頰に、また、〝ぺち〟をやることになったんじゃないかと思う。
けれど。
「ちょい待ち」
こんな中学生の右手を押さえてくれたのは、市川さんだった。いつの間にか(いや、多分、あの〝ぺち〟を聞いた瞬間から、市川さん、動き出していたんじゃないかと思う)、中学生の手を、市川さんが押さえていて。
「だから、そーゆーのは、あたしの仕事だって……」
この局面で、この市川さんの言動。
ああ、もう、ほんとに。
今となっては。
誰も。
誰一人として、眠る前に打ち合わせたこと、守ってねーなっ! 目を開けてしまっただけではなく、ほんっと、みんな、勝手なこと、やりまくっていやがるよなっ。
俺がそう思った瞬間。
三春の言葉が、割り込んできた。
「……あんた達、ねえ」
この言葉を言う前に。三春は一回、ふうって息を吸って、それから、ふううううって長いこと、その息を吐いたのだ。ほんとに、何かもう、たまりませんわっていう感じで。
「ほんっと、何やってんだ」
それから。一回、三春、首を振る。中学生の位置と、中学生の手を押さえた市川さんの位置を、目を瞑ったまま推測しているような風情で。
そして。そういう連中の位置が判った処で、三春、くわっと目を開ける。
いや、目を開ける時に音がする訳、ないんだけれど。まさに、〝くわっと〟って感じで目を開けると、あたりを
そして。
「呪術師!」
びいん……って感じで、張りつめた言葉で。三春は、まず、大原さんに、呼びかける。「これ、なんとかして」
……って、これはその……言っていることがあまりに抽象的っていうか……何、要求しているんだ三春? 多分、大原さんもそう思ったようで。
「これ、なんとかしてって、なに、それ。その場合の〝これ〟って、何? どうしろっていうのあたしに」
ここで、三春、髪の毛を
「じゃあ、いいや。とにかく……中学生組! 動くな!」
これまた、びいん……って感じで、張りつめる世界。
「あと、先生も、動くんじゃないっ!」
この三春の言葉が届いた瞬間、中学生のみんなが、そのまま固まってしまうのが判った。
そしてその後。
「なんか変な看護師! あんたも、動くんじゃないっ! あと、誰だっけか、〝妙に鋭い男〟! あんたも動くんじゃないっ!」
この言葉が俺に聞こえた瞬間……市川さんが、硬直するのが、判った。多分、この瞬間、市川さん、動けなくなってしまったのではないのかと思う。そして……そして、この言葉を聞いた瞬間、俺も、動けなくなってしまった。〝あと、誰だっけか〟って、爆発的に失礼な台詞だよな、俺は付け足しかよって思ったんだけれど……この台詞を聞いた瞬間から、俺の体は、ぴきんと硬直してしまって、
「三春ちゃんはねえ、今、あんた達なんかにかかずらってる場合じゃないんだから」
……なんだこれ。やたらと失礼な台詞だな。
「三春ちゃんはね、思い出したんだから。昔は三春ちゃん、三春ちゃんじゃ、なかった。何かが、三春ちゃんじゃなかった三春ちゃんを、三春ちゃんに、した」
この台詞……最早、意味不明。
「今、三春ちゃんがやりたいのは、その〝何か〟をなんとかすること! ……いや……そんなこと、できるような気はしないんだけれど……やらない訳には、いかない」
揺れている、三春の言葉。
こんなことを言っている三春自身が、自分で自分の台詞に納得できていないんだろうなってことが、読み取れる。
けれど、多分、三春は、今、こう言うしかないのだ。たとえそれが虚勢であろうとも、自分を鼓舞する為にも、自分にこう言い聞かせるしか、ないのだ。そんなことが……最早動けなくなって、ただ、三春の言葉を聞いているだけの、俺にも、判った。
「だから。三春ちゃんは、これから色々何だかんだする予定だから、あんた達は、動くんじゃないっ!」
▶#36-1へつづく ※11/11(月)公開
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