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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.24

【連載コラム】鉄道ファン必読。内田百閒と宮脇俊三の著作から、酒井順子が鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#17-2

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

※本記事は連載コラムです。

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「九州のゆかり」には、「阿房列車」の旅を題材にとりつつ、「阿房列車」の原稿では取り上げていなかったことも、書かれている。ヒマラヤ山系が「君」になっていたりもして、読者としては、違う旅について読んでいるような気持ちにもなる。
 平山三郎は自著の中で、百閒のとある座談の中の言葉を紹介しているが、そこで百閒は、旅から帰ってきてすぐにその旅について書くのは、本当は好きではないと語っている。旅から帰って一年、二年とつと大抵のことは忘れてしまうけれど、
「それを今度自分で自分の気持の様につづり合はせる。その方が真実だ。行つて来たままの直接経験と云ふものは粗末なものです」
しばらく間を置いた方が、本当のリアリズムになります」
 ということなのだ。
 なるほど、と思いつつも、とはいえ紀行文の締め切りを一年、二年先に設定してくれる出版社はあったのかしらと思えば百閒も、
「さうは云っても、売文のち場からなかなかさう行かないんでね」
 と言っている。「阿房列車」の原稿の進みが遅いのも、旅から戻ってから書くまでに、なるべく長く時間をとるための手法だったのかもしれない。

 紀行文は、一般的にはノンフィクションとされている。行っていないところに「行った」とは書かないし、見ていないものを「見た」とは書かないだろう、と読者は思っているのだ。行っていないところに「行った」と書いたとて罪ではないが、そうなると紀行文というよりは小説になってこよう。
「阿房列車」も、行っていないところに「行った」とは書いていないが、しかし普通の人には見えないが百閒には見えていたらしいものについては、書かれている。しようひんけんの池に怪しい水神の目玉を見、いずでは神様に化けたきつねと一献かたむける。それは、百閒にとっての「事実」である。
「阿房列車」シリーズ最後の「不知火しらぬい阿房列車」には「列車寝台の猿」との副題がついているが、この旅で百閒は、猿のような人間につきまとわれている。
 宮崎から鹿児島へと巡った百閒は、鹿児島からそのまま東京へ帰ることはせず、例によってやつしろへ向かう。すると鹿児島本線の車中で、猿のような男にじろじろと見られるのだった。出立の前夜、夢の中で百閒の寝巻を引っぱった猿が、この男なのでは……という恐怖心が、湧いてくる。
 八代で楽しく二晩を過ごした後、帰京のため東京行きの「きりしま」に乗ると、今度は食堂車に、その猿男が乗っていた。猿男はここでも、百閒の顔をじろじろと見ている。
 その後、百閒がコンパートメントの寝台で横になると、入り口のドアのガラスに映ったのは、猿の影。うつらうつらとすれば、今度は何かがのしかかってきて、
「猿がどうしたと云うのです。
 人の事をしつこい。
 どこまで行っても同じ事ばかり。
 そんなに気になるなら、キキキ」
 と、ぶつぶつと語り始める……。
 翌朝目がさめると、列車が走っているのはせきはらのあたりだった。隣の一等車に行ってみると、あの猿男がまたもややってくる。百閒達の向かいに座った猿男は、百閒を見ながら酒を飲む。
 ……というところで、「不知火阿房列車」は終わり。「冥途」などにしてもそうだが、百閒の作品の中には、現実なのか幻想なのか、随筆なのか小説なのかも謎、というものがある。「阿房列車」シリーズは極めて現実寄りの作品であり、平山も著書『実歴阿房列車先生』では、
「先生が阿房列車で記述される文章は、いちいちすべてうそはない」
 と書いているが、それでも旅のところどころに、異界への入り口がぽっかりと開いている。猿男によってその入り口へと突き落とされそうになったところで、「阿房列車」シリーズは終了するのだ。
 そこに大団円的な盛り上がりや、旅の総括といったものは、ない。特に目的もなく始まった旅は、特に意味もなく、ぽそっと終わる。猿男の登場によって、読者としては今までの旅が現実であったかどうかも定かでないような気持ちにすらなって、阿房列車の終点は謎めいた煙に包まれるのだった。
 百閒は、「これが最後だ」と思いながら「不知火阿房列車」の旅をしたわけではあるまい。これで終わるかもしれないし、また行きたいと思えば行くかもしれないし、行ったとしてもそれを原稿に書くかどうかもわからない。……そんな感覚で、それぞれの旅をしていたのではないか。
 百閒は阿房列車の旅から、徹底して「意味」を取り除いている。もしかしたら、「戦争も終わって、自分も還暦を迎えたし、心残りがないように」とか「戦後の日本を見てみたい」といった気持ちがあったのかもしれない。しかし作品としての「阿房列車」からは、その手の意味づけは一切見えず、自分を見つめ直すわけでも、戦後の日本を見つめ直すわけでもなく、物見遊山ですらないその旅は、実は旅ですらないのだった。
「区間阿房列車」の、旅に出る前に既に書いておいた冒頭部分には、阿房列車は必ずしも遠くに行く必要はない、とある。市電を借り切って乗るだけでもいいのだ、と。
 残念ながら「市電阿房列車」は実現しなかったが、速くなくても立派でなくても、列車であれば乗りたい百閒。芸術院会員に推挙された時、「イヤダカラ」という理由で辞退したように、世間が求める理屈や意味を超越した「乗りたいから乗りたい」という感覚が、そこにはある。
「乗りたいから」というだけで、意味なく列車に乗ってどこかへ行く大人が存在することを世に知らしめた、百閒。百閒が開いた扉、ではなくて百閒が敷いた線路の上を、その後多くの人が走っていくことになるのだった。



#18-1へつづく
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