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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.9

鉄道女子の酒井順子が敬愛する内田百閒と宮脇俊三を比較しながら鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#9-1

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

※この記事は、2020年3月10日(火)までの期間限定公開です。



前回までのあらすじ

女子鉄・酒井順子が二人の「鉄人」の足跡をたどる。鉄道紀行というジャンルを示した内田百聞が「なんにも用事がない」のに汽車で大阪に行っていた時代、普通の人にとっての鉄道は、用事を果たすために乗るものにすぎなかった。その四半世紀後、宮脇俊三は異なるアプローチでそのジャンルを背負う―――。戦争により旅は制限されるが、終戦を迎えたことで、二人は再び自由な旅に出る。そして、百間はついに「阿房列車」を出発させた。

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 昭和二十五年(一九五〇)十月に「特別ほう列車」で大阪往復をして以降、うちひやつけんは昭和三十年(一九五五)四月まで、計十四回にわたる「阿房列車」シリーズの鉄道旅を行っている。行った先での用事が無いのに、ただ鉄道に乗るために旅に出るというその行為は、今で言う乗り鉄の祖ともされているが、百閒からしたら、ただしたいことをしただけのことだった。
 百閒は「特別阿房列車」の旅において、特急「はと」の一等車を、楽しんでいる。一等車とは、現代におけるグリーン車よりもさらにぜいたくな、北陸新幹線などにおけるグランクラス的な存在である模様。
 今時の鉄道ファンの世界においては、グランクラスやグリーン車について、
「大好き」
 と手放しで語る人はあまりいない。そもそも新幹線のこと自体、「味気ない」と評価するむきが多いのであり、ましてやグランクラスやグリーン車のような贅沢な車両をや、といった雰囲気があるのだ。
 しかし百閒は、速さを素直に喜ぶし、また一等車に乗るという贅沢も好んだ。「特別阿房列車」にしても、東京~大阪の所要時間が一時間も短縮されたという事実が、百閒をして「列車に乗りたい」という気持ちにさせた理由の一つにあろう。
「漫然と煙草たばこを吹かしていれば、汽車はどんどん走って行く。自分がなんにもしないのに、その自分が大変な速さで走って行くから、汽車は文明の利器である」
 と、特別阿房列車の発車後に百閒は思っているが、百閒は、「乗っているだけで汽車が走ってくれる」ということに有り難さを覚えることができる最後の世代と言える。明治時代、初めて鉄道に接した人達が抱いた鉄道に対するしようけいと畏怖の念のかけらが、百閒の中には残っているのだ。
 戦争中、日本の鉄道は多くの車両や線路、人員を失った。戦争が終ると、線路の延伸やスピードアップが進んでいくが、百閒が「阿房列車」の旅を始めたのはその最初の時期。日本の鉄道の復活を体感することは、百閒のみならず、全ての日本人にとって喜ばしいことであったであろう。
 対して今を生きる我々は、「走っていて当たり前」というライフラインの一部として鉄道を捉えている。鉄道に乗りさえすれば、一定の時間で移動できるのは当然、と。
 我々はすでに、速さに対する興味を失ってもいる。リニア新幹線についても、
「そんなに速く走る必要はないのでは?」
 という感覚の人が多い。特に鉄道ファン達は、各駅停車の方が「味がある」として、急行や特急が走っていてもあえて鈍行の列車に乗り、それを「本当の贅沢」と称したりするのだ。
 昭和二十五年は、まだ列車の速さを素直に味わうことができる時代であった。百閒は、「線路の切れ目を刻む音を懐中時計の秒針で数え」ることによって、時速を計算してみたりもしている。それによると、線路が直線の区間で「はと」は、時速四十三~四十五マイル(約七十キロ)くらいで走っていた模様。
 このようにして時速を計算する手法は、往年の鉄道好きにはよく知られていたようだ。それというのも当時は、レール一本が十メートルの長さに統一されていたから。みやわきしゆんぞうも、
「三六秒間に継目の音がいくつ聞えたかを数えれば、その数が時速を示す。三六秒間に六〇ならば時速六〇キロである」
 と、『時刻表昭和史』に書いている。少年時代の宮脇も百閒と同様、レールの継目の数を数えて、自分が乗っている列車の速度を測っていたのだ。
 宮脇が子供の頃からずっと鉄道旅行をし続けていた、いわば鉄エリートだったのに対して、汽車で遠出をするのが十年ぶりだった百閒。その百閒が久しぶりにレールの継目を数えた時の感慨は、いかばかりのものであったか。
 阿房列車の旅でスピードを楽しんだ百閒の感覚も、しかし時と共に変わったようだ。昭和三十四年(一九五九)、百閒は交通新聞において「これからの鉄道を語る」との座談会に出席しているが、ここでは、
「そんなに速く走ってもしょうがないですよ。それより東京・大阪ノンストップ二十時間というのはどうです」
 といった発言をしている。
 出席者は、時の国鉄総裁で「新幹線の父」と言われたごうしん、十河と共に新幹線計画を進めていたしまひで技師長などで、時は新幹線開通の五年前。新幹線を推進する人々に「そんなに速く走ってもしょうがない」と言うというのは、何にでも反対せずにいられない百閒らしいが、そこにはひたすら前へと突き進もうとする日本をんだ部分も、あったのではないか。
 百閒が他界したのは昭和四十六年(一九七一)であり、昭和三十九年(一九六四)の新幹線開通より後のこと。やまぐちひとみ『酒吞みの自己弁護』には、百閒が新幹線のカレーについて語ったという言葉が記されている。新幹線にあったビュフェ(食堂車)のカレーは高くてまずいと言う人がいるが、百閒は、
「あれは単なるカレーライスではなく、カレーライス自体も二百キロで走っているのであって、二百キロで走っているカレーライスを百二十円で食べられるのだから非常に安い」
 と言ったのだそう。食堂車好きの百閒、新幹線の食堂車にも行かずにはいられなかったのではないか。そして時速二百キロの世界を、どう思っていたのか……。


#9-2へつづく
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