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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.8

鉄道女子の酒井順子が敬愛する内田百閒と宮脇俊三を比較しながら鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#8-2

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

※この記事は、2020年2月10日(月)までの期間限定公開です。

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 宮脇が中央公論社に入社した昭和二十六年は、奇しくも百閒が「小説新潮」に「特別阿房列車」を発表した年である。若い編集者であった宮脇が、こうじまち六番町の百閒の家の前まで行ったと以前も記したが、それはこの頃、すなわち結核で休職する前のことであったと思われる。
「阿房列車」シリーズの最初となった「特別阿房列車」は、昭和二十五年(一九五〇)の十月二十二日に出発した、大阪への一泊旅行について記した作品である。
「阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分でもちろん阿房だなどと考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」
 との書き出しで、阿房列車シリーズは始まっている。
 鉄道趣味を公言してはばからない人が珍しくなく、鉄道おたくが一定の地位を獲得している今、「なんにも用事がない」のに鉄道に乗るという行為は、特に珍しいものではない。しかし昭和二十五年当時は、事情が異なっていた。つい五年前までは、不要不急の旅行はしてはならぬ、という戦争中だったのであり、汽車での移動をするにはよほどの「用事」が必要だったのだ。
 それが、「なんにも用事がない」のに汽車での旅ができるようになったということは、日本が多少なりとも落ち着きを取り戻してきたということの証左となろう。
「特別阿房列車」の旅のことを初めて百閒が口にしたのは、その年の十月の初めであったと『阿房列車物語 百鬼園回想』において、ひらやまさぶろうは書いている。平山三郎は、阿房列車の旅の全てに同行した、国鉄職員の「ヒマラヤ山系」。「特別阿房列車」には、
「国有鉄道にヒマラヤ山系と呼ぶ職員がいて年来のじゆつこんである。年は若いし邪魔にもならぬから、と云っては山系先生に失礼であるが、彼に同行を願おうかと思う」
 と、紹介されている。
 鉄道好きというと一人旅を好む人が多い印象があるが、こと百閒に限っては、一人旅が嫌い、というよりは、体質的に不可能だった。
「元来私はどう持ちで結滞屋で、だから長い間一人でいると胸先が苦しくなり、手の平に一ぱい汗が出て来る」
 ということで、それは今で言うところのパニック障害に近いものなのかもしれないが、とにかく「遠い所へ行く一人旅なぞ思いも寄らない」のだ。
 そこでヒマラヤ山系がお供に駆り出されるわけだが、しかし時にはかなり長期にわたった阿房列車の旅に、国鉄の一職員がなぜ毎回随行できたのかというと、平山が国鉄内で、百閒の担当編集者的な立場にいたからである。
 平山は、鉄道省(当時)において、戦時中の職員の士気を高めることを目的につくられていた奉公会の機関誌「大和やまと」の編集部員だった。昭和十七年(一九四二)に、平山が百閒に「大和」への原稿を依頼したのが、二人の出会い。
 平山は、昭和八年(一九三三)に刊行されてベストセラーとなった『百鬼園随筆』の大ファンだった。随筆の大家として名高く、気難しいとの評判もあった百閒。駄目で元々の気持ちで、平山が日本郵船まで行って原稿を依頼したところ、あっさりと承諾され、それから「百鬼園散録」というタイトルで「大和」での連載が始まったのだ。
 大正六年(一九一七)生まれの平山は、百閒よりも二十八歳年下。「阿房列車」スタート時で三十代前半ということで、旅の道連れにはうってつけだったことだろう。常にぼうようとしている「ヒマラヤ山系」は、阿房列車シリーズにおける欠かせないバイプレイヤーとなっている。
「特別阿房列車」の旅が行われた昭和二十五年には、戦前に走っていた特急「つばめ」が復活していた。この前年に「へいわ」という名で走り出した、東京~大阪を結ぶ特急が、由緒ある名前「つばめ」になったのである。
 さらには、やはり東京~大阪を結ぶ各等特急「はと」が誕生。同年十月には時刻表が改正となり、「つばめ」「はと」ともに運転時間が一時間短縮され、八時間となる。「急行列車等の時間の工合が大体戦前の鉄道全盛当時に近くなって」きたということが、百閒の旅心に火をつけたのだろう。
 平山からもらった改正時刻表を、百閒は読みふける。
「くしゃくしゃに詰まった時刻時刻の数字を見ているだけで感興が尽きない。こまかい数字にじっと見入ったままで午前三時を過ぎ、あわてて寝た晩もある」(「特別阿房列車」)
 というほどだった。
 かくして百閒は汽車で大阪に行くことを決意し、平山に声をかけ、旅費を賄うための金策にも動く。百閒はこの二年前、空襲で焼け出されて住んだ男爵家邸内の掘っ立て小屋から、三畳間が三つ並んだ「三畳御殿」に引っ越しているのだが、この時も「錬金術」すなわち借金を駆使している。お金が無いのは変わらずだったが、しかし一等好きの百閒は、戦後やっと復活した一等列車に乗りたいのだから、ここでも「錬金術」は必要だった。
 戦争が終わって、百閒の人生は、ちょうど一巡りした、というところだったのではないか。年齢も還暦を過ぎて、一巡り。戦争が終わって、鉄道のダイヤもまた、戦前レベルまで戻ってきた。昭和二十五年の十月二十二日という特別阿房列車出発の日は、百閒の人生において新たなスタートとなったのかもしれない。
 朝起きるのが苦手だったり、あらかじめ汽車の切符を買っておくことが嫌いで(「先に切符を買えば、その切符のづけが旅程をきめて、私を束縛するから、何日か前から切符を買っておくと云う事は考えなかった」という理論)当日に買おうとしたりと、出発の日もてんやわんやの百閒。何とか12時30分東京駅発の特別急行第三列車「はと」の一等車の切符を確保できたのは、もちろん国鉄職員である平山の尽力によるものである。今後も百閒は、各地でこのような坊ちゃん気質かたぎをふりまきながら旅をするのだが、皆がそれを嫌がらないのは、百閒の独自な魅力のせいなのだろう。好き放題にさせてあげたいと思わせるところが、百閒にはあったのではないか。
 列車に乗る前、百閒はとある儀式にとりかかる。「私は汽車に乗る時、これから自分の乗る列車の頭から尻まで全体を見た上でないと気が済まない」ということで、歩廊(ホーム)に降り、一号車から十号車まで、全てを見て歩くのだった。
 平山三郎も、その習性について記している。
「ステッキで機関車の胴体をひっぱたく様な真似をして、列車の編成を先頭から車尾まで、東京駅の歩廊をさつそうかつしていかれるのに私がいていかれぬ程だった」(『阿房列車物語』)
 と。そしてそれは、
「汽車に乗るのが楽しくて仕様がないと云う風にも見えた」(同)
 と。
 これは、百閒だけの習性ではない。今を生きる鉄道好きの中にも、同様の習性を持つ人は少なくない。鉄道好きは究極の目的として、自己と鉄道を一体化させたいのではないかという仮説を以前書いたが、車両を全て点検する作業というのは、これから一体化する相手を確認する意味合いを持つのではないか。
 大阪へ向かう特別急行「はと」に乗り込む百閒の喜びは、ひとしおだったものと思われる。百閒は、宮脇のように戦争中もしょっちゅう鉄道旅行をしていた訳ではない。都内での移動は別として、「この前(汽車に)乗ったのは戦争になる前であったから、間に十年近くの歳月が流れている。戦争になってからは、疎開という名目で逃げ出すのがいやだったから、じっとしていたので当時の混乱した汽車の実況は知らずに済んだ」のだ。
 百閒にとって約十年ぶりの、汽車の旅。
「今こうして昔に返ったいい汽車に乗れるのも、あしもとに落ちたしようだんを身体で受けなかったお蔭である」
 と書く百閒の中で、本当に戦争が終わったのは、「はと」に乗った瞬間だったのかもしれない。
 こうして、百閒を乗せた「はと」は出発。品川を過ぎたあたりから、汽車はスピードを増す。「座席の椅子のバウンド工合も申し分ない」と調子が出てきたところで、いよいよ「特別阿房列車」は本番である。既に書き出しから原稿用紙四十枚ほどが費やされているが、旅はここから。冒頭部分から汽車が走り出すまでを記した長さは、百閒が汽車に乗らずにいた時期の長さをも思わせる。
「さて読者なる皆様は、特別阿房列車に御乗車下さいまして誠に難有ありがとう御座いまするが、今走り出したばかりで、これから東海道五十三次きしり行き、鉄路五百三十幾キロを大阪まで辿たどく間の叙述を今までの調子で続けたら、私はもともと好きな話だから人の迷惑なぞ構わずに話し続けてもいいが、それをつづった原稿の載る雑誌の締め切りが迫っていて、うろうろすると間に合わない」
 ……と、筆もまた「はと」と同様にスピードアップ。阿房列車の旅、いよいよスタートである。



#9-1へつづく
◎第 8 回全文は「カドブンノベル」2019年12月号でお楽しみいただけます!



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