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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.5

鉄道女子の酒井順子が敬愛する内田百閒と宮脇俊三を比較しながら鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#7-1

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」


前回までのあらすじ

鉄道紀行というジャンルを示した内田百閲が「なんにも用事がない」のに汽車で大阪に行っていた時代、普通の人にとっての鉄道は、用事を果たすために乗るものにすぎなかった。その四半世紀後、宮脇俊三は異なるアプローチでそのジャンルを背負つた。鉄道や紀行文学の歴史とともに、酒井順子が二人の「鉄人」の足跡をたどる――。昭和に入り鉄道が急速に発展したが、戦争により自由な旅ができなくなってしまう。そして昭和二十年八月十五日を迎える。

 昭和二十年(一九四五)八月十五日。この日のお昼時、みやわきしゆんぞうは父・ちようきちとともに、山形県のいまいずみ駅にいた。長吉がおおいしの炭鉱を視察した後、疎開先の新潟県・むらかみへと戻る途中であった。
 その日の正午に天皇による放送があるということを、二人は前夜に泊まったてんどうの宿の主人から聞いている。『時刻表昭和史』によれば、今泉駅前広場の中央に置かれた机にラジオが置かれ、コードが駅舎から伸びていた。長吉は俊三の腕をつかみ、
「いいか、どんな放送があっても黙っているのだぞ」
 と、つぶやく。
 正午を迎えると、君が代が流れた後に、天皇による放送が始まった。文語文を読み上げる声は聞き取りにくかったが、「よくわからないながらしんとうしてくるものがあった」。
 日本が戦争に負けたことを国民にしらせる放送が終わっても、今泉駅前の人々は立ち去らず、棒立ちになったままだった。「目まいがするような真夏のせみしぐれの正午」、人々は突然の事態の激変に、どうしたらいいものかわからずにいたのだ。
 が、しかし。そんな時でも、汽車は走っていた。程なくして女子の改札係が汽車の到来を告げると、何事も無かったかのように、汽車が今泉駅にやってきたのだ。
 この時のことを宮脇は、
「時は止っていたが汽車は走っていた」
 と書いている。天皇がラジオで敗戦を告げるという一大事があっても、汽車は時刻表通りに走っていた。鉄道は国家によって管理されるものでありつつ、時に国家を超越して日常性を刻み続ける存在であることを、走る汽車は示していた。
「こんなときでも汽車が走るのか」と、信じがたい思いで、宮脇は父とともにさかまち行きのよねさか線に乗車する。普段と同じように汽車が走っていることによって、
「私のなかで止っていた時間が、ふたたび動きはじめた」
 のだ。

 この時の宮脇父子の足跡を追って、新潟から山形を旅した私。父子と同じように天童に一泊し、翌朝はあか駅からフラワーなが線で今泉に到着した。
 それは、夏の昼前。昭和二十年八月十五日の今泉駅はたいそう暑かったわけだが、私が今泉駅に降り立った日もまた、真夏の太陽が照りつけていた。昼前の時刻故に、影すら見えない。
 誰もいない駅を出ると、誰もいない駅前。宮脇父子が玉音放送を聴いたのは、この辺りということになる。広場といっても、駐車場スペースを含め、テニスコート一面分あるかないかという感じ。
 地方の小駅はどこもそうだが、駅前に店らしきものは見えない。わずかに駅から続く道の左右に一軒ずつ旅館があるが、長井線と米坂線の接続駅ということで、かつて需要があったのだろう。
 左側の旅館を訪ねてみると、太く見事なはりが目に入る立派な建物だった。大正三年(一九一四)からこの地で営業しているそうだが、長井線が赤湯からりんごうまで開通したのが大正二年(一九一三)、さらに今泉を通り長井まで開通したのが大正三年ということで、この旅館は今泉駅の開業とともにできたことになる。ちなみに米坂線は、大正十五年(一九二六)に米沢~今泉間が開通している。この旅館のかつての主人も、昭和二十年の八月十五日に、宮脇父子とともに、駅前で天皇の放送を聴いたことだろう。
 敗戦当時の駅の雰囲気は、今もあまり変わっていないらしい。駅舎は基本的に、駅開業当時のもの。駅前広場の風景も、激変はしていないようだ。
 宮脇は、作家デビュー作『時刻表2万キロ』の中で、長井線について記している。同書は当時の国鉄全線乗りつぶしまでの記録であり、その中で、宮脇は未乗だった長井線の今泉~あら間に乗車しているのだ。
 それは、昭和五十一年(一九七六)のこと。赤湯と荒砥を結ぶ長井線の、赤湯~今泉間には昭和二十年の敗戦の日に乗っていた宮脇だが、その先の今泉~荒砥間は未乗だった。敗戦から約三十年がった後、宮脇はやっと長井線に完乗することとなる。
 まず赤湯から荒砥まで通して乗った宮脇は(当時はディーゼルカーの六両編成で走っていた)、折り返しの列車を待っていては効率の良い乗り継ぎができないため、荒砥からタクシーで今泉へと引き返す。鉄道好きは鉄道しか乗らないに違いない、と思っている人もいるが、宮脇はしばしば、この手の合理的な手段を使用する。
 米坂線に乗り継ぐべく今泉駅でタクシーを下車した時、宮脇は深い感慨を覚える。この駅を通過したり、ここで乗り換えたことはそれまでもあったが、駅前に立ったのは、玉音放送を聴いた時以来。
「駅前に降り立ってみると、駅舎の形にも砂利敷の広場の周辺にも、見覚えがあり、鮮やかに記憶がよみがえるのを覚えた」
 ということで、「みずおちのあたりがじーんとしてきた」のだ。
 敗戦時に十八歳だった宮脇は、この時、四十九歳になっていた。会社では責任ある立場についていたが、仕事への情熱は薄れつつあった。会社を辞めることを考えつつ、週末には国鉄完乗を目指して列車に乗る日々を過ごしていたのである。三十年ぶりに今泉駅前に立った時、宮脇は自らの原点に立ち戻るような感覚を抱いたのではなかったか。
 宮脇は結局、その二年後に会社を辞める。宮脇が会社を辞めた時と同じ年頃である私も、当時の宮脇の心境を、今泉駅前において想像してみた。人生の後半にさしかかり、「このままでいいのか」という感覚を、宮脇はこの地で抱いたのかもしれない、と。

▶#7-2へつづく
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「カドブンノベル」2019年11月号

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第 5・6 回は→「カドブンノベル」/第 4 回以前は→「本の旅人に収録。


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