menu
menu

連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.19

【連載コラム】鉄道ファン必読。内田百閒と宮脇俊三の著作から、酒井順子が鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#15-1

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

※本記事は連載コラムです。



前回までのあらすじ

鉄道紀行というジャンルを示した内田百閒が「なんにも用事がない」のに汽車で大阪に行っていた時代、普通の人にとっての鉄道は、用事を果たすために乗るものにすぎなかった。その四半世紀後、宮脇俊三は異なるアプローチでそのジャンルを背負う。二人は特急からローカル線までを偏愛し、それぞれのスタンスで謳歌していた。鉄道と酒、鉄道の性差――女子鉄・酒井順子が両者を比較しながら、時代とともに発展する鉄道の旅と鉄道紀行を読み解いてゆく。

 不要不急の外出をしてはならない世の中となった今。そんな中で思うのは、うちひやつけんが、何も用事は無いのに決行した「ほう列車」の旅は、究極の〝不要不急の外出〟であったということである。
 百閒が、不要不急の鉄道旅行の楽しみを世に知らしめて以降、そのチルドレンは増え続けた。が、ここにきて不要不急の旅を止められ、鉄道好き達はどれほどもんもんとしていることか。
 令和二年(二〇二〇)の五月七日に一部区間の廃止が決まっていたJR北海道のさつしよう線では、廃止前のゴールデンウィークに「最後に乗っておきたい」という鉄道ファン達が押し寄せると、新型ウィルスまんえん防止の観点から見て危険だということで、ラストランをGW前の四月中に早めた。廃線となってしまう路線に最後に乗りに行くという旅を、鉄道ファンは「要」であり「急」と判断し得る、とJR北海道は予見したのだ。
 一部の撮り鉄達も、撮影のためなら危険を顧みないところがある。そういえば第二次世界大戦で不要不急(当時は「不急不用」だったらしい)の旅行が禁じられていたにもかかわらず、若きみやわきも様々な手を尽くして鉄道旅行をしている。「鉄道が好き」という気持ちは、時に危険な一線を越えさせてしまうのだ。
 鉄道となると目が血走るファン達を甘く見てはいけないと知っていた、JR北海道。廃線をりたいというファンの熱意は、札沼線の寿命をわずかとはいえ縮めることとなったのだが、このように廃止が決まった路線や、引退する車両に最後に乗りに行く人々やその行為を、「葬式鉄」と言う。
「もう乗ることができない」となると乗りたくなるのが人情というもので、廃止が決まった路線は、ラストランまでの日々、混雑が続くことになる。「だったら廃止が決まる前からもっと乗ってあげればよかったのに」と思うが、そうはできないのも人の常。普段は没交渉でも、人が亡くなると親戚や友人がわらわらと集まってきて「いい人だった」などと言い出すのと同じである。
 内田百閒も宮脇しゆんぞうも、しかし葬式鉄の趣味は持っていない。宮脇は『車窓はテレビより面白い』の中で、北海道の湧網線の廃止が決まった後、テレビの取材も兼ねて廃線の十三日前に乗りに行っているのだが、名残を惜しむ鉄道ファン達で既に混雑していることに驚いていた。
 二人で葬式鉄行為よりも楽しんでいるのは、葬式鉄の反対、新線や新しい車両などがデビューする時である。それを「誕生鉄」と言うのかどうかは知らないが、鉄道好きにとって、新しい路線の誕生は心ときめきするものだ。以前にも記したが、岡山とを結ぶ宇野線が開通した時、旧制高等学校の三年生だった百閒は、やはり鉄道好きの同級生と一緒に、一番列車に乗りに行っている。友人の方は、発行番号一番の切符を入手したそうなので切符鉄でもあったようだが、百閒は切符にはこだわらないタイプだった。
「春光山陽特別阿房列車」は、「誕生鉄」紀行と言ってもよいかもしれない。昭和二十八年(一九五三)三月のダイヤ改正とともに、京都とはかを結ぶ特急「かもめ」が新しく走ることになり、百閒はその一番列車に乗りたいと思っていた。すると大阪の鉄道管理局から、思いがけず一番列車への試乗の招待を受ける。百閒は既にその前年、鉄道開業八〇周年を記念し、東京駅の一日駅長を務めてもいるので、鉄道好き文化人として、鉄セレブ的な存在だったのだろう。
 しかし百閒は、その招待を受けるかどうか、ちゆうちよするのだった。新設特急の一番列車とあれば、鉄道関係のお偉方や地元の名士、新聞記者なども乗ってこよう。それを考えるとうっとうしくなってきたのだが、やはり一番列車の魅力にはあらがえず、乗車するのだった。
 京都始発の「かもめ」に乗るため、まずは東京から急行「銀河」で京都へ。早朝に京都に到着し、「かもめ」出発まで、京都御所などを眺めて時間をつぶす。
 再び京都駅に戻り、いよいよ百閒達が乗車した「かもめ」が走り出した。少々長くなるが引用すると、その時の様子は、
「構内の方方にいる現場の諸君が、勿論彼等に汽車が珍しいはずはないのに、丸で田舎の子供が汽車を眺める様な顔をして、どこかの小屋から走り出して来て、何本目かの線路の向うにれつし、目を輝かしながら見送っている。手を挙げて、機関車に向かって歓呼する者もいる。新らしい特別急行列車の処女運転とう事が、関係者にはそんなにうれしいのかと思い、その様子を見て渋い目の渋が取れる様であった」
 というもの。
 京都駅の広い構内を、C59にけんいんされた列車がゆっくりと走りだした時、駆け寄ってきてうれしそうに眺める「現場の諸君」に、百閒は限りない共感を覚えている。彼らの「田舎の子供」のような顔は、子供時代の百閒が、岡山で汽車を眺めていた時の表情と同じものであっただろう。
 阿房列車の旅シリーズが終了した後も、百閒は〝初もの〟に乗りにでかけている。『立腹帖』に収められる「やつしろ紀行」は、東京と博多を結ぶ、戦後初の夜行特急「あさかぜ」の運行初日に乗った旅について記される。
 時は昭和三十一年(一九五六)。十一月十九日に国鉄のダイヤ大改正が行われるタイミングで「あさかぜ」がデビューすることとなり、「かもめ」の「乗りぞめ」をした百閒としては、「今度の『あさかぜ』も機逸すからず」という心境になり、乗りたくて楽しみで「むずむずしていた」。「何しろ汽車に乗ってどこかへ行く様な事にならないかと明け暮れ祈って、事有れかしと待っていた」のだ。
 博多まで行くのであれば、「鹿児島阿房列車」で泊まって以降大のお気に入りになったしようひんけんがある八代まで足を伸ばそう、となったこの旅。阿房列車の旅ではなかったが、お供はもちろん、ヒマラヤ山系である。
 出発当日、東京駅の出発ホームは、
「世間に汽車好きは多いと見えて、この初下りの機関車のあたりには見物だか見学だかの若い連中が大勢いる」
 という状態だった。「誕生鉄」はこの頃から存在していたのであり、また鉄道ファンでなくとも、新しい列車の誕生に立ち会うのは喜ばしいことだったろう。いつもであれば、ホームを歩いて先頭車両から最後尾までチェックする百閒だが、ホームが混雑していてままならないほどだった。
「あさかぜ」が博多に到着すれば、今度は爆竹が鳴り楽隊が音楽を奏でるという大騒ぎで、すぐにはホームに降りることができない。戦後の復興期、鉄道は花形の乗り物だったのだ。



#15-2へつづく
◎第 15 回の全文は「カドブンノベル」2020年7月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年7月号

「カドブンノベル」2020年7月号


MAGAZINES

カドブンノベル

最新号
2020年8月号

7月10日 配信

怪と幽

最新号
Vol.004

4月28日 発売

小説 野性時代

第201号
2020年8月号

7月13日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP